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第三章 完璧さに溺れていた

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 二階堂ゆうを一言で表すのならそれはもう〝完璧〟だった。
 勉強も運動も人との付き合い方も、上手くやれる。困ったことなど一度だってなかった。完璧だと言われる度に二階堂はうんざりしながらも笑い流していた。その言葉がいつしか〝役立たず〟に変わったのは、大学を卒業してすぐのこと。今まで〝出来ない〟ものは一つもなかったはずの二階堂の人生は、今思えばずいぶんと環境が恵まれていたからだったことを知った。
 二千倍という高倍率であった大手企業に入社が決まったとき、周囲は二階堂を〝完璧に愛された男〟と褒め称えた。二階堂の周りでも何人か同じ企業を受けたが、その難関を突破したのは二階堂たった一人だけだったのだ。
二階堂が会社に求めたのは福利厚生の一択。年金や保険はもちろんのこと、語学の資格を援助してくれるような場所さえあれば、あとはもうなんでもいいとさえ思っていた。
 大学を卒業したら出世コースだなと友人に揶揄されたときは、自分でもまんざらでもないような心境を抱いていた。なにごとも上手くいくと思っていた自分の人生が、まさか出世コースだと言われたスタート地点で失われることになるとは思ってもいなかった。
 仕事は激務で時間に追われる日々だったが、それでも苦にはならなかった。忙しく動いている方が自分には性に合っていると思っていたが、仕事は、なにも仕事だけで成り立っているわけではない。
 特に厄介なのが人間関係。今までそういった類に悩まされたことがなかった二階堂は、社会に出て初めてこんなにも上手くいかないものかと頭を抱えた。二階堂が配属された部署が、ほとんど男だったこともあり、入社当初から女性の支持を集めた二階堂を気に入らない上司たちの結束が高まった。顔がいいとは、こういうとき不便だ。自分はこれまでチヤホヤされてきたからこそ、完璧でいられたのだと、屈辱を味わう日々の中で感じていた。
 度重なる嫌がらせの内容は、私物の紛失に罵詈雑言。仕事を教えないわりに仕事の進捗を尋ねてくる上司からは、仕事が出来ない人間として烙印を押され、一切仕事を回されなくなった。そのくせ、派遣がするような雑務でコキを使われ残業コース。雑務も本来の勤務時間で片づけられるものだと上から判断され、残業代すら出なくなったときには、自分は一体なにをしているのだとうかと甚だ馬鹿らしくなった。エリートばかりが集まるここは、仕事は出来ても人間性としてずいぶんと欠如しているような奴らばかりだった。
 そんな嫌がらせが続いても職場を変えなかったのは、一流企業に勤める息子が自慢でしかなかった両親のためだった。会うたびに「ご近所さんにあなたの職場を聞かれたの」と話され、「本当に誇りよ」と目を細められれば、二階堂は一気に逃げ道を塞がれたような気がしていた。
 とてもじゃないが、職場で嫌がらせ行為を受けていることを話せるような環境ではなかった。
 自分はなんでも出来ると思っていた。どんなことも出来ると信じて疑わなかったはずなのに、いざ世に出てみれば、なんの役にも立たない人間なのだと思い知らされる。人から「殴るぞ」と脅され仕事を押し付けられる日がくるなんて思いもしなかった。
 出世コースのはずだった。夢ではなかったが、そこそこいい会社に入ればもう安泰だと思っていた自分の人生は、今はどん底でしかない。なぜかボーナスも減額された。仕事ぶりに見合った金額らしい。それもそうだ、仕事を回されないのだから。
 あんこの店に来たのは、大きなプロジェクトが成功し、その祝いの席として訪れたことがきっかけだった。散々盛り上がる酒の席で、隣に座ったのがあのあんこだということに最初は気づけなかった。「二階堂さん?」と声をかけられ、そこでようやく「私、あんこです」と初めて視線を交え驚いた。自分が思い浮かべたあんことは、まるで別人の女がそこにいたのだから。
「高校の時、同じクラスだった。あ、一緒に文化祭で劇をしたの、覚えてます?」
 ああ、あんこだ。たしかにあんこだ。顔は若干違うが、笑い方は変わらない。驚きが次第に引いていく一方で、自分だけ会社の人間の輪に入れていないことがバレるだろうかと、二階堂の心は凍り付きそうになっていた。あんこといた時代の自分は、完璧な自分だったから。そんな空気を察してなのか、あんこは二階堂の上司に耳を傾けながら、二階堂の笑みを向けた。
「二階堂さんは煙草吸われます?」
「ああ、吸わないよ。喘息持ってて」
 あんこは驚いた顔つきで、喘息ですか、と聞き返した。
「意外?」
「意外と言いますか……この場所、大丈夫ですか?」
 二階堂の直属の上司が、ぱかぱかと煙草を吸っている。必要のない煙を吐き出すように、自身でろ過した汚いそれを無遠慮に広げていく。
「慣れてるからね」
 苦笑を滲ませたつもりだったが、あんこは納得のいかないような表情で、そうですか、と悲しそうにした。幻滅されたのだろうか、と二階堂は思った。
 彼女が知っている自分は、完璧の二文字で構成されていたはずだ。当時うんざりしていたあの日々は、今はどれだけ願ったところでもう手に入らない。完璧だった二階堂裕は消えてしまったのだ。それを、あんこはおそらく悟った。二階堂になにがあったのか、見抜いてしまった。それでも直接的なことは聞いてこなかった。その距離感が二階堂にとっては心地が良かった。
 それから何度かあんこの店に通うようになり、その帰りは煙草を吸うことが増えた。あんこに喘息持ちだと言った手前、目の前で吸うことは憚られる。
 白い煙がくゆりと上がっていくのをぼんやり見つめながら、匂いとともに引っ張り出される存在を二階堂は認めた。やっぱりお前は出てくるんだな。須王。
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