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第二章 餡子だと呼ばれた少女

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「相手に送ってる写真、小野寺だろう。小野寺として会おうとしていることが危ない』
 須王が放つ鋭い矢が、痛いほど心臓を貫いていく。
「実際に会った人間が、小野寺じゃなくて杏子だったら。そんなことを杏子は想像しなかったわけではないはずだ。それでも会おうとしている。そこに杏子がどれだけ真剣か分からないが、もし会ったとしたら、相手どんなことしてくるかわかんない。騙されたと怒る人間だっているかもしれないし、怒るだけじゃなくて変な事件にでも巻き込まれるかもしれない」
 小野寺を隠し撮りし、あたかも自分が彼女の顔であるかのように画面越しの男と話して「可愛いね」と言ってもらう。これが間違っていることぐらい、あんこは十分わかっていたはずだった。もうやめた方がいいと、歯止めがきかなくなると、何度も制御したのに、実際は可愛いと言ってもらえることがうれしかった。
 たとえそれが自分の顔ではなかったとしても、小野寺の顔だったとしても、自分が可愛いと言ってもらえている錯覚が、あんこの正常な判断をどんどん鈍らせていった。
「杏子には、もっと別の場所があるよ」
 咎められると思っていたその先を、須王は意外な言葉で丸めた。
「杏子がそこでなにを求めているのか分からないが、それは、ほかの場所では補えないものなのか?」
 まっすぐで、真剣にぶつかろうとしてくれる彼の矢に、負けてしまった。
 揺れていく視界は、涙となって頬を伝っていく。
「無理ですよ……他なんて」
「どうして?」
 自分でも馬鹿げたことをしていると何度も冷静になることがあった。こんなことをしたって心の虚しさは膨れていくだけだと。それでもやめられなかった。どうしても求めてしまった。
「……可愛いって、言ってもらいたかったんです」
 嗚咽とともに溢れた本音。心の底から願った小さな願望。 
こんな自分を可愛いと愛でてくれる人などこの世界にはいないから。家族では埋められない飢えた愛が、あんこの虚しさを助長させていた。たとえ画面越しだったとしても可愛いと肯定してもらうことで、自分は認められたような気がした。生きてていいのかもしれないなんて免罪符のように求めた結果がこれだ。
 誰からも認められる小野寺があんこは羨ましかった。圧倒的な美貌を兼ね備えた彼女になれれば、自分も認めてもらえると思った。画面上で可愛いと言われるたびに、たっぷりと水を注いでもらっているはずなのに、受け皿に穴が開いているようにどんどん奥底へと流れてしまった。どうしたって埋められない傷がそこにはあって、まるでドーナッツのように、真ん中だけがぽつんとあいていた。うれしさで囲われているはずなのに、その穴だけはどうしたって埋まらない。
 画面上だけでも小野寺になったとして、一体なにになるのだろうと自分でも分かっていたのだ。何度も出会い系を退会した過去はあったが、結局また戻ってしまう。可愛いと認めてもらいたくて、自分という存在を誰かに認めてもらいたくて、あんこはあの場所へと戻っていってしまう。
「可愛いじゃないか、杏子は」
 鼓膜に触れた優しい鈴のような音に呼吸が止まった。
 震えていた心に、温もりが侵食していくような不思議な感覚。
「……私が、可愛い」
「可愛いさ。出会い系なんかよりも、杏子にはもっと別の場所があると思う、俺は」
 とってつけた言葉でも、あんこを出会い系からやめさせるための言葉でも、もうなんでもよかった。ただ彼が自分を認めてくれたことがなによりも嬉しくて、もうそれだけでいいと思えた。それだけで、生きていけたはずなのに。
 けれどあの日、そのエネルギーは突然、切れてしまった。
 
 キャバクラで働いていると、あんこは自分の承認欲求が満たされていくのを感じていた。波川杏子ではなく、モモになっていくためには自分という面影を削ぎ落としていった。肉も、顔も、姿形を変えていくほど、誰もが自分を認めてくれる。波川杏子を消していくほど順位も上がっていった。ナンバーワンになった経験もあれば、降格していくこと恐ろしさもあんこは知っている。二位や三位に落ちれば、上を蹴落としていこうと男を媚に売るし、一位に返り咲けば蹴落とされるプレッシャーと戦った。来月にはナンバーワンキャバ嬢などと名乗れないかもしれない。落ちていくことも、一位を維持し続けることも、あんこの中で常に渦を巻いていたのは焦りや不安だけだった。可愛いと言われる居場所を見つけ、自分の存在意義を見つけたはずなのに、ここにいると、心が空っぽになっていく気がした。
 昨日は久しぶりに皆に会えたから気が動転していた。特にあの人に会ったのは、あんこにとっても心が揺らいでしまう理由の一つだった。
「モモさん、ご指名です」
 五十代の黒服とは別の男が、モモにフロアに出るよう促す。
 大きく深呼吸をする。そして呪文のように唱えた。私はモモ。ナンバーワンキャバ嬢。そう自分に言い聞かせるように乱れた心を整えていく。
 メインフロアを出て黒服に案内された席に近づいたとき、そこに座る人物にあんこは安堵を覚えた。
「昨日ぶり」
 英国スーツを身にまとった二階堂。ひと際目立つ二階堂の存在に、お店の女の子たちも気になっているようだった。
 にこやかに笑う顔は、高校時代となにも変わらない。整った顔が弧を描くように微笑めば、誰もが彼の虜になる。
「もしかして連絡もらってました?」
「ううん、思いつき。仕事が早く終わったんだ。ああ、課長たちには内緒にして」
 甘く囁くようにお願いされれば、世の女性は簡単に彼に落ちてしまうだろう。ええ、と可愛らしい協定を組みながら、ふと彼から香る匂いにハッとした。
「あれ……二階堂さん、煙草吸ってるんですか?」
 お高そうなスーツにこびりつくように、その匂いはあんこの鼻腔を刺激した。おかしい、この匂いは彼からしないはずなのに。もしかして、会社の人が彼の前で吸ったのだろうか。そうだとしたら非常識だ。それとも、本当に彼が──。
 二階堂は、あんこの心配を察するように改めて笑みを浮かべた。
「くさい? フラフラ歩いてみたんだけど。それより、今日のドレスも似合ってるね」
 意図的に会話をすり替えられ、あんこは曖昧に受け止める。ありがとうございますと添えながら、やはり昨日のことだろうかと思う。
 突っ込んではいけない部分というものが人間にはある。彼の場合はここだ。そして、ここを突破出来るのは自分ではない。その自覚があるからこそ、それ以上、追及することは間違っている。
喘息持ちの彼が、好きでもない煙草を吸う理由など、理解しようと思うことが正しくはない。そもそも彼は、他人に理解されようと思っていない。だから内に秘めてしまうのだ。矛盾した理由を。
「なんか懐かしかったなと思って。余韻が抜けないんだ」
 隣の席のお客が、女の子に次々とお酒を飲むように要求している。ソファーの背もたれにぐったりと座ったあの子は、二か月前に入った新人。お客さんのために飲まなければいけないと、気を張り、自身の限界を超えてしまう。真面目さ故に、自分を犠牲にしてしまう。あの子は多分、この世界に向いていない。
「……なかなか集まりませんでしたからね」
 ああ、あの子はだめだ。胸元から黒いパッドが見えている。見えてはいけないものが見えてしまったら、それは下品になってしまう。そういう類は、一切排除しなければならない。いくら酔っていたとしても、いくら自分が潰れそうになってしまっても、それでもここではお客さんが求める女の子にならなければいけない。キャバ嬢としての資格を強い意志で保たなければならない。
「気になってるね、隣の子」
 二階堂の視線が、あんこの視線を辿った。とっくに分かっていたはずなのに、あえて今気付いたような態度で口に出す。
「……すみません、ちょっと心配で」
「いいよ、そういうとこ、あんこらしい」
 あっちこっちに目がついてるから。そう続けた二階堂に苦笑する。たしかにそうだ。周囲が気になって仕方がない。癖づいたそれを、今更直すことも難しい。
 近くにいた黒服を呼び、女の子を裏に戻らせてあげてと指示する。お客の目が、この子は持ち帰れると踏んでいるのが分かった。べろべろに酔わせた女の子。ただひたすら頷くだけの女の子に興奮している。ここがお店だとしても、今すぐにでも襲ってしまいそうだった。
「さすがナンバーワン。女の子のケアもしてあげるんだ」
 男から引き剝がされるように裏へと入っていった女の子は、黒服にべったりともたれかからないと歩けないような状態だった。あそこまでするのは客として失格だな、と二階堂が呆れた面持ちで呟いた。
「そういうことでもないんです。ただ、お店の品質が下がるから」
「意外と冷めてるんだよなあ、あんこは」
「それを言うなら二階堂さんだって」
 お互い様だ。しかし、こうやって掛け合いが出来るようになったのはここ最近だ。高校時代の二階堂には、とてもじゃないが軽口が叩けるような間柄ではなかった。
 高校。
 思い出されるあの日々が、途端に蜃気楼のように溶けて消えていく。
「二階堂さん」
声が震えそうになったことに、どうか気付かないでほしい。グラスに氷を入れる。
「皆さんに会って、正解でしたよね」
 どうしても、不安になってしまう。心が、ぼろぼろと崩れてしまいそうになるのを、必死で食い止めようしていて、そんなところに力を注いでしまいそうなって。
「このままで、大丈夫なんですよね?」
 見えなくなってしまいそうで怖くなる。本当はまだ引き返せるのではないかと思ってしまう。そんなあんこに二階堂は「大丈夫」と力強い眼差しを向ける。
「進めるためには必要なことだってある」
 翳りの中にある強さ。そういった意味では、二階堂はずいぶんと大人になったのだと感じる。学生時代の〝ただ〟人気者の彼からは想像出来ない哀愁が、今の彼を作り上げているのだ。
 誰からも慕われ、誰にでもやさしい、あのときの二階堂がここにいる。
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