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第二章 餡子だと呼ばれた少女

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 昔のあんこはお世辞にも可愛いと言われるような顔立ちをしていたわけではなかった。
 今よりも体重は三十キロ太っていたため、制服はいつだってパツパツではちきれそうだった。実際シャツのボタンを何度か飛ばしたことがあり、それを周囲にからかわれたことだって少なくはない。
 デブ、汗っかき、くさい。
 耳を塞ぎたくなる言葉ばかりを投げつけられ、その度に昼ごはんを抜く。食べているシーンを見られることがストレスだった。周囲に囁かれる言葉があんこの思考を犯していく。食べることへの恐怖を抱いたのはちょうどこの時期ということもあり、あんこは益々人前で食べられなくなっていった。
 その反動からか、夜はどれだけ食べてもお腹が満たされることはなく、やめたいのにやめられないという矛盾で泣きながらラーメンをすすった日もあった。
 痩せるべきだと分かっていたが、あんこが食欲に勝つことはなく痩せられなかった。運動も続かない、食事制限も出来ない。意思とは反して増幅していく体重に、周囲はあんこを罵った。痩せようと思わないのかな、いや痩せられないんでしょ、痩せたいなら食べなきゃいいのに、そもそもあんな体で恥ずかしくないのかな、私なら絶対あんな体で学校なんてこれない。あんこへの誹謗中傷は、まるで会話が途切れたときの都合のいいネタでしかなく、耐えるよう奥歯にぐっと力を入れた。
痩せることが出来ない自分は自分に甘いからだとあんこは分かっていたが、それでも食べることを制限することは出来なかった。いつしか吐く回数も増えていった。
 こうして出ていくのに、体重は減るばかりか増えていく一方。ぼろぼろになっていくあんこを家族はひどく心配した。週の半分は学校を休み、自宅で過ごすことが増えたあんこを、家族の誰よりも心配していたのは母親だった。
「お願いだから病院に行こう、杏子」
 泣きながら頭を下げられたとき、あんこの中でなにかが弾けたような気がした。親に頭を下げられるこの心境をどう説明したらいいか分からなかったが、自分がとても悪いことをしているように思った。醜くて、出来の悪い娘。それがのしかかるように頭を支配したとき、呼吸が浅くなり、まともに息が吸えなくなった。手が痺れ始め、次第にその痺れが全身に回り始める。親指がぎゅうっと中に入り、そのまま拳を作るような形になったかと思えば、硬直したように手の力が抜けなかった。母親は絶叫していた。さきほど流した涙とは別の涙を流し、杏子杏子と何度も体を揺する。救急車を呼ぶ母親の手が震えていたことを、あんこは息苦しさの中でぼうと見つめていた。
 救急車の中で何度も言われた。落ち着いて深呼吸してくださいね、と。過呼吸を起こしてるから、ゆっくり呼吸すれば手も開いてくるからねと。その言葉通り、初めて乗せられた救急車の車内で深呼吸を繰り返した。救急隊員の人に「なにか嫌なことでもあった?」と訊ねられたときは、思い当たることが多くて答えられなかった。痩せられないこと、からかわれること、姿が醜いこと、母親を泣かせてしまうこと。そのどれもが、嫌なこととしてぐるぐるあんこの心をかき乱していた。
 搬送された病院で過食症だと診断されたとき「ああ、病気だったんだ」と、あんこはひどく安心した。自分に厳しく出来なかったわけではない。摂食障害だから痩せられなかっただけなのだと。そう思ったら涙が出た。

「あんこが好きだからあんこって呼ばれているのかい?」
 須王とあんこが初めて会話をしたのは、症状がずいぶんと収まり、学校にも通えるようになったころのことだった。
 忘れ物を取りにきた教室は、放課後特有のがらんとした憂いを残していた。その中に夕日を目一杯浴びている須王が視界に飛び込んだとき、あんこは一瞬、異世界に迷い込んだのかと思った。あまりにも綺麗で、その中で自然と溶け込む須王の姿に見惚れてしまった。おーい、と呼びかけられ、はっと意識を取り戻す。
「あんこは好きですけど……」
 好きだけど、好んで呼ばれているわけではない。そう言いたいが、どこまで言っていいものか見極められなかった。そんなあんこを察したのか、須王は頷いた。
「好きなもので呼ばれるというのは羨ましい」
 嫌味のない、透き通った感想だった。あんこをからかっているわけではなく、ただ純粋に、須王がそう思ったことが伝わり、あんこの肩の力が抜ける。
 須王の第一印象は、黄金色ということだった。地毛だと周囲に話していた金髪があまりにも似合っていて、どこか現実味がない。彼は窓際の机に腰かけあんこを見やる。その瞳にうっと息が止まってしまいそうになった。本当に綺麗なのだ、彼は。女性に使う綺麗とはわけが違う、特別な意味をもつ綺麗が、彼には当てはまる。己の醜さを恥じながら、必死で言葉を繕う。
「名前なんです……私、あんこって言いますから」
「どういう字?」
「あ……杏仁豆腐の杏に、子どもの子で杏子」
 食べ物の話題は避けたいと思っていた中で、あんこの口から飛び出したのは自分の好物であるあの白い寒天だった。オレンジや桃をざくざくと入れ、仕上げにさくらんぼをのせるあの光景がふと流れる。あんこの母親がよく作ってくれたデザートだった。
「ああ、アプリコットの?」
 あんこの心境とは裏腹に、須王は横文字を出してきた。杏子をアプリコットだと分かってくれる人にあんこは初めて出会い、嬉しさがぐっとこみ上げてきた。
「は、はい! アプリコット」
 よく知ってるね、と続けたあんこに、須王は「アプリコット好きだから」と笑みを作る。
 橙色の光が差す教室で、あんこは須王を太陽のような人だと位置づけていた。それぐらい眩しくて、きらきらと輝いて、輪の中心にいることがぴったりな人だった。
「じゃあ杏子。ばいばい」
 果実の方のイントネーションで呼ばれたことがあんこは嬉しかった。餡子じゃなくて、杏子。同じ響きだが音は違う。その違いを須王があえて口にしてくれたことがうれしくて、初めて自分の名前を愛おしく思えた。私は、杏子。
 それから、文化祭での実行委員メンバーとして須王と共に選ばれたことはあんこにとってうれしく、また話せるきっかけができると期待していた。
「じゃあ劇は〝さよなら青春、また来て青春〟でどうだろう?」
「どうって……須王、それ今考えただろ?」
「そういう柳はさっきからなんの案も出ていないみたいだけど」
 二階堂が口を挟むと、柳がむっとむくれた。
「うるせえよ。そうやって人の揚げ足ばっか取ってくんじゃねえ。さっきから黙ってる時田、お前なんか言えよ』
「え、僕? 僕は、いいと思うけど……」
「本当にいいと思ってんのか? 意見出すのにビビってるだけだろ」
 この時の柳に、あんこは驚きを隠せなかった。みんな、時田を腫れ物扱いし、興味はあるが近寄りたくないと思っていたはずだ。あんこも例外ではない。あんな事件がテレビや新聞で大々的に報道され、あんこの両親もひどく心配した。「そんな子が同じクラスなんて」娘の悲運に嘆いていたことを思い出す。しかし、柳は時田に容赦なかった。むしろ一番、時田に強い当たりをしていたようにも見えた。
「柳、時田に当たらない」
「はあ? どこが当たってんだよ。当たってねえし。二階堂だって例外じゃねえからな」
「まあまあ、みんな落ち着いて。時間はあるんだし、ゆっくり決めていこうよ」
「小野寺は優しいね。あ、じゃあ〝小野寺と五人の家来たち〟っていうのどう?」
「須王は黙ってろ! 俺は今、時田と二階堂に説教してんだよ!」
 目の前で繰り広げられていく五人の掛け合い。五人の世界。そこに自分がいなくとも成立していく空間が、あんこにとってはたまらなく居心地が悪いと感じてしまい、けれどそんな顔など出来るはずもなく、一人にこにこと笑ってみせることしかできなかった。
 笑う役、してますよ、私。ちゃんとここの仲間ですよ。
 周囲にそうアピールするように、笑い役として徹した。そうすれば、邪魔にはならないし、誰かの迷惑になることもない。ただ、あんこの心には虚しさだけが膨れていった。
 実行委員メンバーとして選ばれ、須王大我とまた話ができるとあんこは思っていたが、そんなチャンスはなかなか巡ってはこなかった。彼は変わらず誰かに囲まれ、あんこが入っていくような隙間なんてどこにもなかった。学校では疎外感を感じ、家に帰れば異常な愛が待ち受けている。あんちゃん、あんちゃん、私の可愛い娘。母に溺愛されることが息苦しかった。
バランスが取れない。天秤が平等になることはない。ストレスがたまり、また食に逃げてしまいそうになる自分を何度もとどめた。これに手を出したら終わり。そう言い聞かせながらも、打ち明けることの出来ない闇が大きくなっていく。
 日が経つにつれ五人の結束が深まっていく中、一人だけぽつんと置いていかれているような気分がした。特に羨ましかったのは、四人に囲まれている小野寺望萌だった。
 校内一可愛いと噂されていた彼女を間近で見たとき、テレビから飛び出してきたんじゃないかと思うぐらいの美少女で息をのんだ。こんな可愛い人がこの世界にいるのかと思わずじっと見つめてしまう。彼女は顔も良ければ性格も良く、ごくありふれた表現で人気者だった。
 そんな彼女が羨ましく、あんこになんの偏見もなく優しく声をかけてくれる態度を知る度に心が痛くなる。自分は外見も醜ければ、彼女のように中身まで綺麗なわけではない。こんなにもわかりやすい優劣が存在してしまうことがなによりも憎かった。
 悪意があったのかと問われれば、あんこは今でも当時どういう心境だったのか今も掴めないでいる。出来心、というのが一番しっくり当てはまるのだと思う。
「それ、出会い系?」
 文化祭一週間前。突然背後から覗き込まれた携帯の画面をあんこは咄嗟に隠した。ぎくりと不快なほど大きく鳴った心臓が今にも飛び出していくような感覚だった。
「俺の目には出会い系に見える。もちろん、そうじゃないという可能性も大いにあるだろうけどね」
 両手をスラックスのポケットに突っ込み、あんこの後ろに立っていた須王は、今日も太陽を一身に背負っていた。
「いや、これは……」
 なんと答えたらいいのか瞬時に判断できるほど、あんこの頭は回らなかった。ただ、見つかってしまったという危機感だけが思考を支配し、言い訳を取り繕う余裕さえ皆無だった。そんなあんこに須王は「別にいいとは思うけど」と言った。
「非難しようとしているわけではない。その交流が必要な人間もいるのだから、杏子が求めるというのなら、それはそれで構わないさ」
 冷や汗が流れていく。ぎゅっとスマホを握った手が痛い。
「ただ、互いに会う約束を取り付けているのが気になってね。それは大丈夫なのかなと」
「……大丈夫、ですよ。問題ありません」
「そうか。しかし僕が今から言うことは、あくまでも忠告や警告の類で聞いてほしいんだが。いや、心配かもしれないな」
「……心配なんて」
 ずっと、話せなかったのに。須王くんと話せる機会なんてなかったのに。
 あんこは自分の運のなさにことごとく呆れる。どうして今になって。
 須王の目を見てしまうことがあんこは怖かった。こんな場面をのぞかれてしまった恥ずかしさと、全てを見透かされてしまいそうな彼の目から逃れるよう足元に視線を落とす。心の奥に隠したものに触れられてしまいそうで、それを必死に隠すようにゆっくりと深呼吸をする。
「杏子は、本当に会って大丈夫だと思ってる?」
 タイミングが悪いに尽きる。ただそれだけだ。
「危ないよ」
「須王くんには関係ありませんよ」
「でもそれは、小野寺じゃないか」
 言葉が、出てこなかった。ひゅっと鳴った喉は、悲鳴のようなものをあげていた。
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