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第二章 餡子だと呼ばれた少女

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「あ、時田さん。よかったらお店まで送ってくれたりしませんか?」
 ようやく解散の目途が立ったのは、あの店に着いてから二時間後のことだった。
 小野寺の「終電なくなりそう」という一言がまるで合図だったかのようにお開きとなった少人数の同窓会。あんこから声をかけられたのは、店を出てすぐのことだった。
 僕? と聞き返した時田に、ほかに誰がいるの、とあんこは笑う。小野寺は柳と二階堂と共に駅へと向かっていた。今更、時田が追いかけるような雰囲気でもなさそうだ。
「私だと物足りないですよね」
 一体こういうシーンを、あんこは何度経験してきているのだろう。さらりと自分を低くしながらも、自分の美しさを損なうことはない。そんなはずないと、男に言わせるだけの力がそこにはある。
 高校時代は時田より低かったはずのあんこの背が、今では若干自分の方が低いというのは違和感を拭えない。あんこは躓いてしまいそうな高さのあるヒールを履いているがバランスを崩すことはない。よほど履き慣れているのだろう。
「……そんなことはないよ。あんことも話がしたかった」
 そう言うと、ふふ、と笑うあんこ。
「そういうとこ、変わってないですね、時田さんって。本心を決して口にしたりはしないけど、本心を匂わすことはうまい」
「それだけ聞いてると、ずるくて、人間的にどうかと思う」
「褒めてるんですよ。必ずしも、全てを言葉にすることは正しいわけではないですから。言葉を選んでいるあたりが、時田さんらしい。つまり、優しいと言いたいだけなんです」
 優しいと言われるような人間ではないことを時田は自覚していた。そういうものは捉えようの問題で、優しいと受け止めるあんこの心が優しいのだろうというのが時田の捉えになる。
「自慢をしたいわけではないんですが、私、お店では不動のナンバーワンだとか言われてるんです。笑っちゃいますよね。私と一緒にいたいって思ってくれる男性は意外と多いんです。昔の私を知ってる人からしたら、信じられないんでしょうし、私も未だに信じられません」
 苦笑交じりに話すあんこからは、狂言と傲慢さが感じられなかった。ナンバーワンという称号にしては、あまりにも冷めているように見える。だからこそ、彼女の言葉が信じられる。それなのにが、あんこを冷めさせている要因はなんなのか。
「そっか、あんこがナンバーワン」
 高校生時代のあんこは、典型的なタイプだった。この手の場合の型は、控えめでおとなしく、決して前に出てくることはない種族。自分をさらけ出すことは一切せず、周囲に合わせては平穏を心から願っているような生徒だと思っていた。そんなあんこが選んだ職種がキャバ嬢。おまけに体系までがらりと変わってしまった。体のラインが出るような真っ赤なドレスは高校生のあんこでは到底着こなせなかったはずだ。
「やっぱり変です?」
「あ、いや、そうじゃなくて。なんか、スッキリしたなと」
 川波杏子と聞いて思い浮かぶのは、ぽっちゃりとした体型だった。
 ──餡が好きで太った杏子。
 女子のことを下の名前で呼ぶことなど出来なかった時田でも、あんこのことは気軽に名前で呼べた。杏子というよりは、餡子と呼んでいた方が正しかったのだろう。おそらく周囲も自分と同じような漢字を使って彼女のことをそう呼んでいたに違いないと自信があった。
 クラスメイトの女子たちが、あんこの制服は特注品なのだと盛り上がっていたことを思い出す。サイズがないなんて、とあんこを目の前にして嘲り笑い者としてみなした。それでもあんこは怒りを表すことも、悲しさに暮れることもなく、ただ眉尻を下げながら笑みを浮かべていた。平穏を好んだ彼女は、自分に向けられた刃さえ受け入れてしまう。その刃でどれだけ刺されようが、笑っているのがあんこだった。そんな彼女がまさか、ナンバーワンキャバ嬢になっているとは。
「時田さん」
 あんこの勤務先である栄方面へと向かうべく、彼女が勝手に拾ったタクシーに乗り込んだ。電車で乗れば一本でつけるというのに。金山駅から伸びている名城線の電車に乗れば、栄までは十分もかからない。しかしあんこはやんわりとそれを拒んだ。タクシーの方がお店の前まで乗せてくれますから、と。
 呼ばれたそれに応えると、あんこは言った。
「罪って、ありますか」
 夜特有の喧騒が鼓膜を刺激していた。酔っぱらった大人から、愛を深める男女まで。
「なんのこと?」
 考えないではなかった。むしろ、すぐに思い当たった。小野寺の言っていた言葉。言えないことは罪になるのか。スマホで呼び出していたタクシーが到着する。扉が自動で開き、先にあんこを乗せると、時田もそれに続いた。あんこが目的地を告げると、運転手は「ああ、はいはい」と朗らかな様子で頷いた。車内は静かだった。流れていく街並みの中で、自分はどこか疎外されているような気がする。
「二階堂さんが言っていたように、誰にも言えなかったことぐらい、誰にでもあることだと思うんです」
 呟くような、とても弱い声量のものが時田の耳に届いた。
 窓から視線を引き剝がし、隣に座るあんこを見る。あんこも時田と同じように窓の外を見ていた。しかし、振り返らない。時田だけが、あんこの横顔を見つめるだけ。化粧の濃い、あんこの顔。
「むしろ生きてると、話したくないことに出くわすことが多いですから。自分の醜い部分とか、笑い飛ばせない部分とか、そういうのを隠してる人がほとんどのはずですから。全員、あったんだと思います。あの場所で言えないだけで」
「あんこ」
 思わず呼びかけてしまった。どんな顔で、どんな思いでそれらを発しているのか、確認したかったのかもしれない。
 ようやく時田に振り返ったあんこは、時田と目が合うと微笑んだ。そうすることが植えつけられているみたいに、ごく自然と、しかし計算高く笑ったように見えた。時田の知ってるあんこは、自分の意見を言わない、笑みを浮かべているだけの存在だったはずだった。
「話せないこと、私はいっぱいあります。話したくないことばかり。でも、時々誰かに聞いてもらいたくなる。自分の中にはとどめておけないときがきて、溢れてしまいそうになる。でも、溢れたなにかを拭く術がない。だから誰かに拭いてもらいたくなるのかもしれないです。また溢れる前に戻れるように、だから聞いてもらいたい」
「それが僕だった?」
 そうかもしれません、とあんこは認めた。
「久しぶりに皆さんに会えて興奮しているのかも。だから、余計なことも喋ってしまいます」
「でも、どうして僕を引き止めたの?」
 あの場には、二階堂も柳も小野寺もいた。あんこの話し相手の適任者というのはいたはずだ。少なくとも、自分ではないはずだった。それでも、選ばれたのは時田だった。あんこと特別親しかったわけでもない時田だった。
「……タイミングが、あると思うんです」
 あんこの右手の小指に光る指輪。それを爪先まで外したり戻したりを繰り返す。
「話すタイミング。こうして時田さんと話すのは、あのころじゃなかった。たしかに、他愛ない話はしましたけど、でもこうして自分の胸の内を曝け出そうとは思えなかった。昔の私は誰に対してもそうでしたから。でも、人って変わります。大人になって、知らなかった世界を知って、いろんな人と会って、それから思うんです。高校生だったあのころの私の世界って、なんて狭かったんだろうって」
 狭かった。大人ではない子供。気難しいとされる年ころで、たしかに難しかった。生きていくことが。楽になりたいと思っても簡単に楽になることは出来ない。時田にとっても、それには覚えがあった。
「あの日」
 あんこが言った。
「時田さんが屋上にいるのを、私、見たんです。須王さんと二人でいるのを」
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