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僕は昨日死にました
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昨日、僕は死にました。それも大事な人の前で。
まずは僕の身の上をかい摘まんで説明します。僕は冒険者稼業をやってました。稼ぎは上々で、独り暮らしが快適に出来るぐらいはありました。強さは中堅を出ない所。それでも普通にやっていけていました。昨日までは。
もしも僕に家族がいたら。あるいは僕の職業がギルド登録冒険者でなかったら。僕はこんな薄暗くて重苦しいダンジョンの中で死ぬことにはならなかっただろうと思います。身寄りさえあれば、冒険者になどなろうとはしなかっただろうから。
冒険者とは、モンスターの討伐依頼を引き受けたり、未知のダンジョンを攻略したりと、とにかく命の危険が付きまとう職業です。勿論、怪我等の理由で引退を余儀なくされる場合もあります。だから冒険者の数自体はさほど多くない……というかいつだって人員不足なのです。
さて、僕の身の上はこのくらい簡素なものでいいだろう。
現在の僕は俗に言う幽霊というもの。きっと未練たらたらだから神様がここに残したんだと、僕は勝手に推測した。
普通ならば今日辺りに通夜で明日には葬式という流れ。しかし冒険者には縁のない話だ。
自分が冒険者であったこれも宿命か。加齢による引退どころか若気の至りでダンジョン内で死亡……。早いとこ戦線離脱すればよかった。上層階だからと油断して潜るんじゃなかったと、後悔が残る。
死因は爬虫類に属するモンスターの熱い抱擁を受けての、圧迫からの窒息に至る絞死でした。うん、かなり苦しかった。長い尻尾で勢いよく巻き付かれて、絞められる苦痛から取り落とした両手剣。
強いショックで一瞬で呼吸を塞き止められて、酸欠になり、無我夢中でそいつの長い胴体の一部を爪を立てて引っ掻くもびくともしない。首に回されたそれを外したくて本気で足掻くも、案外意識があったのは数秒。ふざけて友達に絞められた時と違って、目がチカチカと光を失っていく様は見られなかったかな。脳の血管が塞き止められて、逆流するようなドクドクという脈拍がよく聴こえた。
そして蛇と目が合ったのを最後に、気付くと僕は死んでいたのだった。
死んでしまったことはしょうがない。しょうがなくないけど、そうやって後悔を断ち切るしかない。もう何も出来ないのだから。後悔も反省も今更手遅れだ。
ダンジョンで幽霊化した僕。
希望としてはせめてお日様の下で死にたかった。こんな肌寒く湿気った場所なんて選択肢があったらお断りだ。ダンジョンの石壁も、なにかの魔物の死骸も、見飽きた風景だった。
だがしかし、僕の望みは一部叶う。
どうやら僕は地縛霊にはならずに済みそうである。どうも僕の脱け殻――つまり僕の遺体――が運び出されているから。
僕はツイていた。運が悪いと白骨化しても無惨にもダンジョンに晒されていたり、逆に誰にも見つけられないこともままあるだろうから。見つけても拾えない理由だってある。難所から持ち運ぶ余裕がないのも珍しくはない。それから僕の場合、丸飲みされずに捨て置かれたこともツイていた。そもそも遺品を持ち去られることはあっても、遺体を持ち帰るというのはほとんど聞いたことが無い。
危険と隣り合わせな冒険者として生きるのだから、いつ自分が死ぬか分からない。そのくらいのリスクは冒険者ならば誰しも理解している。生きるか死ぬかの瀬戸際、恐怖と緊張感で落ち着かないことも初心の頃はあった。そんな中で、身の安危なんて悠長なことは言ってられない。それが戦いだ。
昨日の時点で、呼吸困難から朝起きるように目覚めたら、妙に自分の体が軽いので違和感を覚えた。そして現実を思い知った。体が残されて、魂と分離した状態で半身がダンジョンの床にめり込んでいたから。
今の霊体には触れるが他は何にも触れず、試しても虚しくなるだけだった。反対に、戻ろうと何度か自分の体に触るがこれといった反応は見られず。眠っているだけにしか見えないのに、通り抜ける体。僕はすり抜けとかわざわざ暗い所を通るのが嫌なので最初しかしていない。
肉体を失った僕。ふわふわと宙に浮かびこそしないが、曖昧な認識で壁をつたいながら歩いてみた。けれど体の側からはせいぜい5メートルも離れられない。それ以上はリードを付けられたペットのように、見えない紐で繋がれて進めないのだった。
運良く自分の遺体が運び出され、ダンジョンの外へと運ばれたのは本当によかった。
死ぬ直前から後のことはどうなっただろう? 蛇型に絞め殺された後、あの戦闘のその後が、僕は気がかりであった。
あっけなく逝って(まだ昇天してないけど)しまった僕だが、他の仲間達は大丈夫だろうか。問題が無ければいいのだが。
中でもひとり、気になる人物がいた。冒頭に出た未練と関連するその人。
――僕の片想いの相手。
レオン・マクファーレン。
戦闘ではタンクを担当して魔物の注意を一手に引き受ける。厚くて重い鋼の鎧を身にまとい、鍛え上げたたくましい筋力で大盾を扱う。世界的に見て珍しい黒髪黒目。実直な青年である。
ひととなりから惹かれた僕。彼の傍である彼と同じチーム「グリムニア」のメンバーであることが嬉しくてたまらなかった。同メンバーであるということは、ダンジョン内で衣食住を共にすることもあって、普通の友人知人よりも家族のように近しい間柄であるから。
戦闘中のことはあまり覚えていないが、意識が落ちるまで周囲を気にかける余裕はなく、彼の動向も分からずじまい。だが最後の最後まで自分の名前を叫ぶ声は聞こえていた。
心配……してくれただろうか。
昨日は既に意識が離れた状態、幽霊化した僕の冷たい骸が搬送された。ダンジョンの上層であったから手早く魔物を退け、みんな必死に僕を助けようとしてくれていた。そのときまではまだ生還する希望があると思っていた僕だが、残念なことに僕の魂が体に戻ることはなかった。
ギルド内で僕の死亡が確認されると、関係者に張り紙で公表されることになった。そして今夜、棺を墓に入れる前に冥福を祈る小さな儀式がある。その後にギルドから冒険者としての登録が抹消されることになる。完全に僕は死んだことになるのだ。これがギルドでの死者を追悼する仕組みである。
そして今、ギルドの墓地で棺に納められた自分の体を眺めていると、側に人影があることに気付く。動く気配がないから見逃していたらしい。しかも僕はその人を見て呆然としてしまった。
え? なに今の。
汚れた地面に膝をつき、開いたままの棺へ覆い被さるとその中の遺体に、かつての僕に口づけるレオンを見てしまった。
何がどうなっているんだ?
理解不能な状況に対し、分かれた自分を眺める僕。その心の温度はぐんぐん上がる。右の人差し指で自身の唇をなぞるが、そこには何の痕跡も残っていない。こんな接触は今まで無い。少なくとも……僕が生きていた頃には。
だから僕は、あなたを忘れられそうにないんだ。
引きずる想いには多少のこうだったらいいのに、なんていう期待が入り交じる。あわよくばという妄想には自分でも呆れてしまう。僕を想って泣いてくれないかなぁ、なんて。
大事そうな、その仕草が、堪らない。
なんだって『今』なんですか?
本心はかつてを願った。僕がうかつに昼寝をしていた時でも、そう、知らない間でいいから、せめて生きていた時にして欲しかった。
こんなにも胸が痛いのに、この心臓が蘇生することはない。加えて音になることは無いのに、あなたの名前を無意識に唇は呼んでしまう。
なんでそんなことしたんですか?
に、始まり、
どうして僕に笑いかけたりなんかしたんですか?
手を繋ぐなんて馬鹿なんじゃないですか?
もうそんなことされたら、簡単に落ちるに決まってる。好きになるのは時間の問題。好意を抱けば後の祭り。
少なくない思い出が走馬灯のように過る。
悔しくてうつむく。地面に熱いなにかがボタボタと落下した。しかしその何かは地面に落ちることなく蒸発していまう。離れれば、もう僕の存在とは無関係ないのか。この体はあやふやな認識で困る。
あなたに触れたくて仕方ない。
目を擦って滲む視界で眺める。彼は涙をこぼしながら、僕の体だった左耳の辺りをそっと撫でる。涙はちょうど僕の目の辺りに落ちて頬へと伝う。まるで僕が涙を流しているようだ、と理解したうえでようやく思い至る。
あぁ、そうか。僕は泣いていたのか、と彼を見て納得する。
幽霊の体は触れられることすら出来ず、残された体には自分はいない。こんな客観的な状態で直接的な接触を受けてもちっとも嬉しくないばかりか、自身の体に対して嫉妬してしまう。
生前にそれらの行為を受けたかったと強く思うと、とても口惜しい。今の僕には体も声もなくて、存在していないも一緒だから。
まるで覗き見しているような気分だ。知らない一面を勝手に盗み見るようでひどく落ち着かない。
彼は声を漏らしながら男泣きしている。そこにはなんの葛藤があるのか、僕には分からない。ただ彼は、彼は……とても優しい人だから、きっと僕が早死したことを悔やんでくれているに違いない。
死んだことに微塵も負い目なんか感じなくていい。なのに何故、あなたはそんな目をするのだろう。
小さな片想いを守ったまま、一度も口にすることなく死んでしまった僕は、今になって後悔をする。
ああ、こんな形で気持ちを知ることになるなんて全く笑えない冗談だ。
あなたが泣いてくれて嬉しかった。
あなたの前で泣けなくて悲しかった。
あなたが僕を、ほんの少しでも、心に引っ掻き傷を作る程度以上に、……愛を覚えていたのならば。
もし、一部分でも僕に対する愛情が有るのならば。
来世でもいいなら僕を待っていてほしい。
幽霊には無理でも、輪廻転生してでもあなたに逢いたい。
「苦しかっただろう? ごめんな、俺が不甲斐ないばかりに、助けてやれなくて……」
苦しかったよ。だけど今も苦しくて堪らないよ。
こんな形で未練となって辛い。思い出が胸に詰まって心苦しい。
「……せめて……安らかに、おやすみ」
そっと頭を撫でると、今度は額へと口づける。
するとそれを見届けていた僕に異変が生じる。この霊体が光の粒となり輝きだしたのだ。光の集合体は次々に空へと上る。
正直な話、あんな風に彼からの好意を受け止める脱け殻が羨ましかった。僕だったけど僕でない体ばかりに執着しないでほしい。
願わくは来世で再会したい。あなたがそこで止まるなら、今度は僕から追いかけてみせる。
僕はここにいるよ。ねぇ、こっちを見て。
光が全身を覆うと、急激な眠気に襲われた。それと共に徐々に温かくなり、輝きは増すばかり。
眩しい視界のなかで彼と目が合う。
けれどその目にはきっとなにも映ってはいない。
そうだ、どうせ何も見えないのならば。
僕はあることを思い付いた。
それを実行するために彼に近付く。真正面に立って数秒間ためらいはしたものの、ようやく決意する。きっと赤い顔をしているに違いない。
えいっ!
精一杯つま先立ちをして、そっと彼の唇に自分のそれを押し当てる。つむったままだった目を開けば、驚愕する彼の顔が。
「嘘…………だ、なんでお前、っ」
そんな馬鹿な。なんだろう、この反応は。まさか僕が見えるはずないのに。期待してしまった。
彼の涙を拭おうとするが、やっぱりダメで、諦めて一歩後に下がる。
見えるなんてあり得ない、でも。もしもそんな奇跡があるならば、彼の記憶からは笑ってさよならしたい。
光の粒が一斉に輝きを増すと、僕を形成していたものが欠けていき、足下から上に向かって徐々に消え始めた。
「待て! いくな、頼む、俺の前から消えな、」
とっさに手を伸ばす彼。だが言葉の続きを待たずに腕から掌にかけて煌めきが薄れた。
ごめん。
この状況なのに、なんだか心地よいまどろみが訪れる。温かくて気持ちいいから意識を保っていられない。急速にやってきた眠気の意味、光の消失と共に頭の中で理解するが抗うことはできない。それでもこれだけは言いたくて重い口を開いて、彼に宛てて言葉を残した。
『ずっと、すきでした』
それが僕、マルスの本当の最期だった。
まずは僕の身の上をかい摘まんで説明します。僕は冒険者稼業をやってました。稼ぎは上々で、独り暮らしが快適に出来るぐらいはありました。強さは中堅を出ない所。それでも普通にやっていけていました。昨日までは。
もしも僕に家族がいたら。あるいは僕の職業がギルド登録冒険者でなかったら。僕はこんな薄暗くて重苦しいダンジョンの中で死ぬことにはならなかっただろうと思います。身寄りさえあれば、冒険者になどなろうとはしなかっただろうから。
冒険者とは、モンスターの討伐依頼を引き受けたり、未知のダンジョンを攻略したりと、とにかく命の危険が付きまとう職業です。勿論、怪我等の理由で引退を余儀なくされる場合もあります。だから冒険者の数自体はさほど多くない……というかいつだって人員不足なのです。
さて、僕の身の上はこのくらい簡素なものでいいだろう。
現在の僕は俗に言う幽霊というもの。きっと未練たらたらだから神様がここに残したんだと、僕は勝手に推測した。
普通ならば今日辺りに通夜で明日には葬式という流れ。しかし冒険者には縁のない話だ。
自分が冒険者であったこれも宿命か。加齢による引退どころか若気の至りでダンジョン内で死亡……。早いとこ戦線離脱すればよかった。上層階だからと油断して潜るんじゃなかったと、後悔が残る。
死因は爬虫類に属するモンスターの熱い抱擁を受けての、圧迫からの窒息に至る絞死でした。うん、かなり苦しかった。長い尻尾で勢いよく巻き付かれて、絞められる苦痛から取り落とした両手剣。
強いショックで一瞬で呼吸を塞き止められて、酸欠になり、無我夢中でそいつの長い胴体の一部を爪を立てて引っ掻くもびくともしない。首に回されたそれを外したくて本気で足掻くも、案外意識があったのは数秒。ふざけて友達に絞められた時と違って、目がチカチカと光を失っていく様は見られなかったかな。脳の血管が塞き止められて、逆流するようなドクドクという脈拍がよく聴こえた。
そして蛇と目が合ったのを最後に、気付くと僕は死んでいたのだった。
死んでしまったことはしょうがない。しょうがなくないけど、そうやって後悔を断ち切るしかない。もう何も出来ないのだから。後悔も反省も今更手遅れだ。
ダンジョンで幽霊化した僕。
希望としてはせめてお日様の下で死にたかった。こんな肌寒く湿気った場所なんて選択肢があったらお断りだ。ダンジョンの石壁も、なにかの魔物の死骸も、見飽きた風景だった。
だがしかし、僕の望みは一部叶う。
どうやら僕は地縛霊にはならずに済みそうである。どうも僕の脱け殻――つまり僕の遺体――が運び出されているから。
僕はツイていた。運が悪いと白骨化しても無惨にもダンジョンに晒されていたり、逆に誰にも見つけられないこともままあるだろうから。見つけても拾えない理由だってある。難所から持ち運ぶ余裕がないのも珍しくはない。それから僕の場合、丸飲みされずに捨て置かれたこともツイていた。そもそも遺品を持ち去られることはあっても、遺体を持ち帰るというのはほとんど聞いたことが無い。
危険と隣り合わせな冒険者として生きるのだから、いつ自分が死ぬか分からない。そのくらいのリスクは冒険者ならば誰しも理解している。生きるか死ぬかの瀬戸際、恐怖と緊張感で落ち着かないことも初心の頃はあった。そんな中で、身の安危なんて悠長なことは言ってられない。それが戦いだ。
昨日の時点で、呼吸困難から朝起きるように目覚めたら、妙に自分の体が軽いので違和感を覚えた。そして現実を思い知った。体が残されて、魂と分離した状態で半身がダンジョンの床にめり込んでいたから。
今の霊体には触れるが他は何にも触れず、試しても虚しくなるだけだった。反対に、戻ろうと何度か自分の体に触るがこれといった反応は見られず。眠っているだけにしか見えないのに、通り抜ける体。僕はすり抜けとかわざわざ暗い所を通るのが嫌なので最初しかしていない。
肉体を失った僕。ふわふわと宙に浮かびこそしないが、曖昧な認識で壁をつたいながら歩いてみた。けれど体の側からはせいぜい5メートルも離れられない。それ以上はリードを付けられたペットのように、見えない紐で繋がれて進めないのだった。
運良く自分の遺体が運び出され、ダンジョンの外へと運ばれたのは本当によかった。
死ぬ直前から後のことはどうなっただろう? 蛇型に絞め殺された後、あの戦闘のその後が、僕は気がかりであった。
あっけなく逝って(まだ昇天してないけど)しまった僕だが、他の仲間達は大丈夫だろうか。問題が無ければいいのだが。
中でもひとり、気になる人物がいた。冒頭に出た未練と関連するその人。
――僕の片想いの相手。
レオン・マクファーレン。
戦闘ではタンクを担当して魔物の注意を一手に引き受ける。厚くて重い鋼の鎧を身にまとい、鍛え上げたたくましい筋力で大盾を扱う。世界的に見て珍しい黒髪黒目。実直な青年である。
ひととなりから惹かれた僕。彼の傍である彼と同じチーム「グリムニア」のメンバーであることが嬉しくてたまらなかった。同メンバーであるということは、ダンジョン内で衣食住を共にすることもあって、普通の友人知人よりも家族のように近しい間柄であるから。
戦闘中のことはあまり覚えていないが、意識が落ちるまで周囲を気にかける余裕はなく、彼の動向も分からずじまい。だが最後の最後まで自分の名前を叫ぶ声は聞こえていた。
心配……してくれただろうか。
昨日は既に意識が離れた状態、幽霊化した僕の冷たい骸が搬送された。ダンジョンの上層であったから手早く魔物を退け、みんな必死に僕を助けようとしてくれていた。そのときまではまだ生還する希望があると思っていた僕だが、残念なことに僕の魂が体に戻ることはなかった。
ギルド内で僕の死亡が確認されると、関係者に張り紙で公表されることになった。そして今夜、棺を墓に入れる前に冥福を祈る小さな儀式がある。その後にギルドから冒険者としての登録が抹消されることになる。完全に僕は死んだことになるのだ。これがギルドでの死者を追悼する仕組みである。
そして今、ギルドの墓地で棺に納められた自分の体を眺めていると、側に人影があることに気付く。動く気配がないから見逃していたらしい。しかも僕はその人を見て呆然としてしまった。
え? なに今の。
汚れた地面に膝をつき、開いたままの棺へ覆い被さるとその中の遺体に、かつての僕に口づけるレオンを見てしまった。
何がどうなっているんだ?
理解不能な状況に対し、分かれた自分を眺める僕。その心の温度はぐんぐん上がる。右の人差し指で自身の唇をなぞるが、そこには何の痕跡も残っていない。こんな接触は今まで無い。少なくとも……僕が生きていた頃には。
だから僕は、あなたを忘れられそうにないんだ。
引きずる想いには多少のこうだったらいいのに、なんていう期待が入り交じる。あわよくばという妄想には自分でも呆れてしまう。僕を想って泣いてくれないかなぁ、なんて。
大事そうな、その仕草が、堪らない。
なんだって『今』なんですか?
本心はかつてを願った。僕がうかつに昼寝をしていた時でも、そう、知らない間でいいから、せめて生きていた時にして欲しかった。
こんなにも胸が痛いのに、この心臓が蘇生することはない。加えて音になることは無いのに、あなたの名前を無意識に唇は呼んでしまう。
なんでそんなことしたんですか?
に、始まり、
どうして僕に笑いかけたりなんかしたんですか?
手を繋ぐなんて馬鹿なんじゃないですか?
もうそんなことされたら、簡単に落ちるに決まってる。好きになるのは時間の問題。好意を抱けば後の祭り。
少なくない思い出が走馬灯のように過る。
悔しくてうつむく。地面に熱いなにかがボタボタと落下した。しかしその何かは地面に落ちることなく蒸発していまう。離れれば、もう僕の存在とは無関係ないのか。この体はあやふやな認識で困る。
あなたに触れたくて仕方ない。
目を擦って滲む視界で眺める。彼は涙をこぼしながら、僕の体だった左耳の辺りをそっと撫でる。涙はちょうど僕の目の辺りに落ちて頬へと伝う。まるで僕が涙を流しているようだ、と理解したうえでようやく思い至る。
あぁ、そうか。僕は泣いていたのか、と彼を見て納得する。
幽霊の体は触れられることすら出来ず、残された体には自分はいない。こんな客観的な状態で直接的な接触を受けてもちっとも嬉しくないばかりか、自身の体に対して嫉妬してしまう。
生前にそれらの行為を受けたかったと強く思うと、とても口惜しい。今の僕には体も声もなくて、存在していないも一緒だから。
まるで覗き見しているような気分だ。知らない一面を勝手に盗み見るようでひどく落ち着かない。
彼は声を漏らしながら男泣きしている。そこにはなんの葛藤があるのか、僕には分からない。ただ彼は、彼は……とても優しい人だから、きっと僕が早死したことを悔やんでくれているに違いない。
死んだことに微塵も負い目なんか感じなくていい。なのに何故、あなたはそんな目をするのだろう。
小さな片想いを守ったまま、一度も口にすることなく死んでしまった僕は、今になって後悔をする。
ああ、こんな形で気持ちを知ることになるなんて全く笑えない冗談だ。
あなたが泣いてくれて嬉しかった。
あなたの前で泣けなくて悲しかった。
あなたが僕を、ほんの少しでも、心に引っ掻き傷を作る程度以上に、……愛を覚えていたのならば。
もし、一部分でも僕に対する愛情が有るのならば。
来世でもいいなら僕を待っていてほしい。
幽霊には無理でも、輪廻転生してでもあなたに逢いたい。
「苦しかっただろう? ごめんな、俺が不甲斐ないばかりに、助けてやれなくて……」
苦しかったよ。だけど今も苦しくて堪らないよ。
こんな形で未練となって辛い。思い出が胸に詰まって心苦しい。
「……せめて……安らかに、おやすみ」
そっと頭を撫でると、今度は額へと口づける。
するとそれを見届けていた僕に異変が生じる。この霊体が光の粒となり輝きだしたのだ。光の集合体は次々に空へと上る。
正直な話、あんな風に彼からの好意を受け止める脱け殻が羨ましかった。僕だったけど僕でない体ばかりに執着しないでほしい。
願わくは来世で再会したい。あなたがそこで止まるなら、今度は僕から追いかけてみせる。
僕はここにいるよ。ねぇ、こっちを見て。
光が全身を覆うと、急激な眠気に襲われた。それと共に徐々に温かくなり、輝きは増すばかり。
眩しい視界のなかで彼と目が合う。
けれどその目にはきっとなにも映ってはいない。
そうだ、どうせ何も見えないのならば。
僕はあることを思い付いた。
それを実行するために彼に近付く。真正面に立って数秒間ためらいはしたものの、ようやく決意する。きっと赤い顔をしているに違いない。
えいっ!
精一杯つま先立ちをして、そっと彼の唇に自分のそれを押し当てる。つむったままだった目を開けば、驚愕する彼の顔が。
「嘘…………だ、なんでお前、っ」
そんな馬鹿な。なんだろう、この反応は。まさか僕が見えるはずないのに。期待してしまった。
彼の涙を拭おうとするが、やっぱりダメで、諦めて一歩後に下がる。
見えるなんてあり得ない、でも。もしもそんな奇跡があるならば、彼の記憶からは笑ってさよならしたい。
光の粒が一斉に輝きを増すと、僕を形成していたものが欠けていき、足下から上に向かって徐々に消え始めた。
「待て! いくな、頼む、俺の前から消えな、」
とっさに手を伸ばす彼。だが言葉の続きを待たずに腕から掌にかけて煌めきが薄れた。
ごめん。
この状況なのに、なんだか心地よいまどろみが訪れる。温かくて気持ちいいから意識を保っていられない。急速にやってきた眠気の意味、光の消失と共に頭の中で理解するが抗うことはできない。それでもこれだけは言いたくて重い口を開いて、彼に宛てて言葉を残した。
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