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第30話 ここで、死んでいただけませんか?
しおりを挟む「俺は何もしていない! 証拠もないのに、言いがかりだ!」
「証拠なら、ここにあります」
私のグラスを差し出すと、さらに男が一歩後ろに下がりました。
「何もしていないと言うなら、これを飲んでみなさい」
男の握った拳がワナワナと震えています。
「そんなもの、証拠でもなんでもない!」
その拳が私……ではなく、私の持つグラスに向けられました。
もちろん、そんな素人の拳はヒラリと避けましたが。
「証拠隠滅ですか?」
「うるさい! 俺は何もしていない!」
「では、こちらは差し上げますね」
──バシャッ。
男の顔目掛けて、グラスの中身をかけました。
その顔が葡萄酒の色で染まります。
「うわぁ!! 助けてくれ! 死にたくない!!」
みっともなく床を転げ回り、泣きながら顔についた葡萄酒を拭っています。
そんなことをしても、意味はないのに。
「証拠なら、その醜態で十分ですね。……毒を入れられたグラスは、こちらです」
私のすぐ後ろのテーブルに置いてあったグラスを持ち上げます。
男を追いかけてここへきた時、テーブルにあった葡萄酒のグラスと入れ替えたのです。彼の角度からでは見えなかったでしょう。
「騙したのか!」
「そうですが。貴方に文句を言われる筋合いはありませんね」
「くそっ! どいつもこいつも、女のくせに!」
立ち上がった男の人差し指が、私の方に向けられます。
その顔が、怒りで赤黒く染まっています。
「クラウディア……あの女もそうだった! やれ貴族の矜持がなんだと、俺に小言ばかり! そんな女、伯爵家の娘でもなければ俺に見向きもされないのに!」
目が血走っている。
既に五人も殺しているのです。
やはり、どこかが壊れてしまったのでしょうね。
「女なんか、子を産むことしか能がないのに! 何人か殺したところで、何が悪い!」
──その言葉に、目を伏せた令嬢が何人もいました。
どこの国でも同じです。
貴族の家に生まれた娘は、政治や戦争の道具として男に差し出される。
女は男の思い通りに使える道具。
貴族の娘として生まれたからには、それを受け入れる強さを持たねばなりません。
けれど、けれど……。
……この男は、これから騎士団の手で捕らえられ、裁判にかけられます。
打ち首、良くて終身刑でしょう。このまま、私が何もしなくても罰を受けます。
しかし、今この場でやらねばならないことがあります。
一人の女として。
「私が今ここに剣を持っていないことを、あらゆる神に感謝なさい」
──パンッ!
男の足を払いました。再び絨毯に倒れた男を見下ろします。
「謝罪なさい」
「何を!」
「お母様に!」
──パチンッ!
なおも立ちあがろうとする男の肩を扇子で打ちます。
「ぐぅ」
男が痛みにうめきました。
「子を産むしか能がない? 貴様はその母から生まれてきたのではないのか?」
──パチンッ!
反対の肩も扇子で打ちました。
「子を産み育て、血を繋ぐ。その尊い偉業を成した全ての女性を、貴様は貶めた」
今度こそ、男の顔色が変わりました。
「謝罪なさい。お母様に、全ての女性に!」
「う、うるさい! 女のくせに! 男に逆らうな!」
「私たちは、貴様のような卑劣な男のために生まれてきたわけではない!」
──ピッ!
「ひっ!」
扇子をその眉間に突きつけると、男が情けない声を上げました。
「私たちが貴様ら男に従うのは、私たちの誇りがそうさせるからだ!」
私たち女は、男たちのために生まれて消費される。それが全てか?
否!
「私たちは、貴様のような男には膝を折らない! 屈しない!」
「そうよ」
小さな声でした。
会場の中から、震える声が響きました。
「私たちは、道具なんかじゃない」
「馬鹿にしないで」
「女なんか殺してもいいなんて、最低だわ」
「だったら、男だって殺してもいいでしょう。子供を産むことすらできないんだから!」
「卑怯者!」
「謝ってください!」
その声を上げるのは、勇気が必要だったでしょう。
いつでも控えめに、男を立てるように……そう教育されてきた淑女たちが、こうして声を上げるのは。
「……申し訳、ありませんでした」
心からの謝罪ではない。
この場から逃げたい一心で言ったに過ぎません。
それでも、彼女たちの心を救うのには十分です。
男は赤黒い顔のまま、ブルブルと全身を震わせてうずくまっています。
罰は、十分に受けた様子ですね。
「許しはしません。けれど、その謝罪は受け入れましょう」
私が息を吐いたのを合図に、騎士たちが男を会場から引きずり出しました。
会場は、静かな興奮に包まれています。
「ありがとうございます! シーリーン様!」
最初に私に駆け寄ってきたのは、主催者の奥方です。
私の両手を握って、涙さえ流しています。
「私にも娘がおります。娘が男にあんな風に言われることを思うと、胸が痛みました」
そのご令嬢も、母親に駆け寄ります。
母親の涙を、ハンカチで優しく拭っています。
「貴女様は、ここにいる全ての女性の誇りを守ってくださったのです。心から感謝申し上げます」
「私自身が許せないからしたことですよ」
「ええ、ええ。そうでしょうとも。それでも、ありがとうございます」
そこからは、何人もの女性たちに囲まれてしまいました。
口々に感謝を告げられます。
──彼女たちの顔に、笑顔が戻ってよかった。
そんな中で主催者が壇上から声を上げました。
「連続毒殺事件の真犯人も捕まり、めでたしめでたしですな! 祝いましょう!」
彼の言う通り、一つの脅威が去ったのです。むしろ祝いのために舞踏会は続けるべきです。
「全ての母に感謝を」
主催者がグラスを掲げると、他の出席者たちも続きました。
「さあ、音楽を!」
ワルツが始まると、会場の興奮は徐々に収まっていきました。
私たち二人はテラスに出ました。少しばかり、熱を冷ます必要があったからです。
「お待たせしました」
私を案内してから、ミロシュは飲み物を取りに行ってくれました。
「実に痛快でした。さすが『獅子姫』」
二つのグラスを手に戻ってきて、私の隣に腰掛けます。
「それにしても、こういったことには敏感でいらっしゃるのに。……彼らの気持ちには、ああも鈍感とは。面白い人ですね」
「何のお話ですか?」
「気になさらないでください。さあ、どうぞ」
グラスが差し出されます。
先ほどと同じ、鮮やかな赤の葡萄酒です。
「ねえ、ミロシュ」
「はい」
「これは飲めないわ」
「……」
「さっきも、貴方は毒を入れられたことに気づいていたわよね?」
ミロシュは微笑んだまま、何も言いません。
「なぜ、この葡萄酒にも毒が入っているの?」
微笑んだまま、グラスを揺らしています。
「シーリーン。私が何と言って貴女に求婚したか、覚えていますか?」
「もちろんよ」
「では、この哀れな騎士にお慈悲を」
真っ赤な葡萄酒の向こうで、ミロシュが微笑んでいます。
──とても、悲しそうに。
「ここで、死んでいただけませんか?」
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