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第2話 愚かな婚約者
しおりを挟む「ナフィーサ」
親しげな声音で妹を呼んだのは、イスハーク様でした。
二人で話し込む私たちを心配して、誰かが呼んできたのでしょう。
「イスハーク様!」
その瞬間、ナフィーサの表情が一変しました。
姉との仲違いを悲しむ、淑やかな令嬢の表情そのものです。
「戻ろう。皆、君と話したがっている」
「でも、お姉様が」
「もういいんだ。君の優しさは、彼女には理解できないよ」
ナフィーサに優しく語りかけるイスハーク様。
私には、そんな表情を向けてくださったことは一度もありませんでしたね。
「シーリーン嬢。これ以上、ナフィーサを虐げるのは辞めるんだ」
「虐げる?」
「シラを切るのか?」
いったい、何の話をされているのでしょうか。
「同じ家の姉妹として生まれながら、同じ教育を受けることを許さなかった」
私は公爵家の長子としての務めを果たすため、剣術、兵法、大陸公用語……およそ『普通の令嬢』には必要のないことまで学んできました。
しかし、父はナフィーサには『普通の令嬢』として成長することを望みました。また、ナフィーサ自身も学ぶことを望みませんでした。
「公爵家の令嬢でありながらドレスも宝石も十分に与えず、社交界への出入りも禁じた」
元々、華美な装いを嫌う家風です。
それに社交界への出入りを禁じたのは、ナフィーサを守るため。
「さらには、彼女を家から追い出した!」
それは、家族のためでした。
「実の妹を、これほど悲惨な目に合わせた。そのうえ、まだナフィーサにひどい言葉を投げつけるのか!?」
イスハーク様に肩を抱かれたナフィーサが、再び勝ち誇った表情で私を見ています。
私が戦場で戦っている間に、『可哀想な妹』を武器に彼の懐深くに入っていったでのですね。
彼女もまた、戦って勝利を得たということなのでしょう。
「ナフィーサ、先に戻っていてくれ」
「でも」
「大丈夫。私が話すから」
「……はい」
ナフィーサが、しずしずと宴会場に戻って行きました。
「ナフィーサに対する所業を公の場で弾劾しなかったのは、彼女が望まなかったからだ」
イスハーク様が、ツカツカと私に歩み寄ります。
そのままの勢いで肩を掴まれました。優しさのかけらもない、乱暴な振る舞いです。
「彼女の優しさに感謝するんだな」
「はい、殿下」
「それと」
言葉を切ったイスハーク様。
さらにグイッと肩を押さえつけられます。
「貴様が王位を狙っていることも、私は知っている」
「そんな!」
私が王位を狙う?
「傍系とはいえ、貴様は王家の血を継いでいるからな」
私の祖母は先々代王の妹にあたりますから、確かに私も王家の血を継いではいます。
しかし傍系の、しかも公爵家の令嬢でしかない私が王位を狙うなど。
あり得ません。
「しらばっくれても無駄だ。前線に出ていた貴族たちと共謀しているらしいな」
「まさか、そのようなことを考える暇などありませんでした」
アダラート公爵家の当主であった父が急死したのは、二年前のことです。
父は最前線で一門の兵3万人を率いる将軍の一人でした。
前線で傷を負い、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。
残されたのは母と私、妹、そして嫡男である弟。
弟は二歳になったばかりでした。
誰かが一門の兵を統率しなければならなかった。
私は公爵家の長子としての、責任を果たさねばなりませんでした。
父も、このような事態が起こることを予想していたのでしょう。
遺言状には『戦時中にもしものことがあれば、アダラート一門の軍指揮はシーリーンに任せる』と明記されていました。
当時十六歳だった私は、母のため妹と幼い弟のため──祖国のため、必死に戦ったのです。
謀反を企むような暇など、あったはずがありません。
「ふんっ。貴様のような女でも活躍できるような戦場だ。どうせ大した戦ではなかったのだろう? それを二年以上も引き伸ばしたのが、よい証拠だ!」
カッと、顔に熱が集まるのが分かりました。
隣国が戦を仕掛けてきた時、王は私たちに命じました。
『王家と臣民の命と財産を守ることを最優先とせよ』と。
そのために、私たちは『負けないための戦』をしました。
互いの犠牲を最小限に抑えつつ出来るだけ戦を長引かせ、焦れた隣国側から講和を持ち掛けさせる。
王家と臣民のために、敢えて最も過酷な戦いをしてきたのです。
それを、大したことのない戦とは……!
この国の王太子であるはずのこの人は、何を言っているのでしょうか。
怒りで全身が震えます。
「確かに聞いたのだ。貴様が謀反を企んでいると!」
いったい誰が、こんな馬鹿げたデタラメをイスハーク様の耳に入れたのでしょう。
自分の利益のために、私を追い出したい誰かの入れ知恵だということは分かっています。
だとしても。
「お確かめになったのですか?」
王太子として、正しい判断をするために。
「何?」
「自らの目と耳で、真実をお確かめになったのですか?」
「……!」
──パンっ!
イスハーク様の平手が、私の頬を打ちました。
「王太子に対する、それが公爵令嬢の態度か!」
打たれた頬が熱い。
「貴様はいつもそうだ! 昔から私を見下して! いつでも王位を奪えると、そう思っていたのだろう!」
「そんな風に思っていたのですか? 政略的に決められた婚約とはいえ、いずれ夫婦になるのだからと。少しでも良い関係を築こうと話したでありませんか」
「うるさい! 貴様の言葉など、もう一言も聞きたくはない!」
「王太子殿下」
彼の側近が、その肩を叩いて宥めます。
側近も心底困り果てている様子が伺えます。
「……まあいい」
なにも、言葉が浮かんできません。
何か言わなければ、彼を諌めなければと思うのに。
思うように考えがまとまりません。
「このことは大事にするなと、父上の命令だ。……さっさと消え失せろ」
それだけ言い捨てて、イスハーク様も宴会場に戻って行きました。
彼を心配する側近も衛士も、何もかもを置き去りにして。
たった一人で、行ってしまいました。
我が『フェルメズ王国』は、難しい立場にある国です。
西には『オルレアン帝国』。
東には『翰帝国』。
二つの巨大な帝国に挟まれた小国。
山岳地帯であるが故に、どうにか自治を守ってきました。
しかし、ついに『オルレアン帝国』から大規模な侵攻を受けたのです。
『オルレアン帝国』と同盟を結んだとはいえ、これからも難しい判断をしていかなければなりません。
王には臣民を守る責任があるのですから。
その王となるべき方が、周囲からの入れ知恵に翻弄されて真実を見極めることをしない。
そんな愚かな王の治める国に、未来はあるのでしょうか。
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