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第3部 - 第3章 勤労令嬢と……
第26話 新たな旅
しおりを挟む──数カ月後。
「……っ」
唇にピリッと痛みを感じて、ジリアンは眉を顰めた。乾いた唇が裂けたのだ。
「大丈夫か、ジリアン」
「うん。薬を塗っておいたほうがいいわ」
ジリアンが懐から取り出したのは、出発の前にオリヴィアに持たされた軟膏だった。酷く乾燥する地域に行くということを伝えてあったので、準備してくれたのだ。
「ありがとう」
ジリアンは薬指で軟膏をとり、それをアレンの唇に塗った。今度は自分に塗ろうとしたが、それはアレンの手によって遮られてしまう。
「俺がやるよ」
「いいわよ」
「やる」
「……ん」
と、2人がわずかに頬を染めて言い合っている時だった。
「場所と時間を考えていただけませんか、お二人」
歌うようなテノールの声は、テオバルトだ。
「……邪魔するな」
アレンが眉をしかめて睨みつけると、テオバルトは肩をすくめて2人に歩み寄った。そのまま流れるような動作でアレンの手から軟膏を取り上げる。
「私はお目付け役ですから。さ、ジリアン。こちらを向いて?」
「え、っと、あの……」
ジリアンは先程のアレンとのやり取りを見られていたことが恥ずかしくて、顔を真赤に染めて俯いた。テオバルトが戻ってきたことに気づかなかったのが情けなくもあった。
「ふざけてないで、行くぞ。買い物は済んだんだろ?」
「はいはい」
「待たせておいて、その態度はなんだ!」
「それは申し訳ございませんでした。さ、行きましょう、ジリアン」
「こら、手を離せ!」
ジリアンはテオバルトに右手を、アレンに左手を引かれながら、2人に気づかれないようにそっとため息を吐いたのだった。
彼らは今、魔大陸の南西部の街に来ている。
乾いた地平線の向こうに、真っ赤に燃える山が見える──。
* * *
数ヶ月前、『死者の国』を解放して地上には新たな秩序が生まれた。
その後は『欲望』によって引き起こされた様々な事件の後処理に追われた。それも落ち着いた頃、魔族の皇帝からジリアンのもとに『頼みごとがある』との書簡が届いたのだ。
『学院の課題も追いついていないし他の仕事もあるので、とても手が回りません』
と返事をしたジリアンだったが、その数日後にはすぐに新たな書簡が送られてきた。
『君が私の頼みを聞いてくれれば、全ての問題が解決することになった。明日には魔法陣で迎えに行くので、そのつもりで』
意味が分からず首を傾げたジリアンだったが、その意味はすぐに分かった。
学院から、『早期卒業』について提案があったのだ。
国王からも一刻も早くジリアンを卒業させて国政に参加させてほしいと再三の要請があったらしい。特に『魔法開発局』はジリアンをあてにした都市開発計画を進めようとしているという噂も聞いてはいた。
そこで、『魔族の皇帝の依頼を解決し、それをレポートにまとめること』という課題をもって、卒業を認定することになったというのだ。マントイフェル教授には『ついでにあちらの魔法を実地で学べて一石二鳥だろう』と言われたが、そういう問題ではない。各方面に対して無茶な話だ。
そして、この提案に乗ったのがアレンだ。彼も学院を卒業したという体をとるために、ジリアンと一緒に課題に取り組むことになった。
魔大陸に到着したジリアンとアレンは、さっそく南西地域に向かった。そこで待っていたのが、テオバルトだったのだ。
* * *
まだ日の高い時間だが、3人は早々に宿で休むことになった。慣れない環境に疲れているので、今日はこれ以上は動けそうにないからだ。
「テオバルトは何を買ってきたの?」
宿の部屋で荷物を下ろしながらジリアンが尋ねた。街に入って早々に2人を置いてまで買い物に行ったので、気になっていたのだ。
「これです」
テオバルトが袋から取り出したのは、鉢植えだった。土の上には毛の生えた丸いボールのようなものが置かれている。不思議なことに、その緑色のボールの天辺には赤い花が咲いていた。
「それは?」
「『ロフォフォフィクス』と呼ばれる多肉植物の一種です」
「サボテン?」
「この地域に生える、植物です」
「植物!? これが?」
ジリアンの反応に笑みで応えながら、テオバルトがサボテンに串を刺した。すると、不思議なことに、乾燥のためにピリリと引きつっていた肌の痛みが消えてしまった。
「部屋の湿度が上がったわ」
「はい。この植物は、内側に水属性の魔力を貯めているのです。こうして湿度を上げたり、砂漠での水分補給に利用されたりします」
「まあ、不思議ね」
「この地域の魔族は乾燥に強いので余程のことがなければ必要がありませんから、売っている店を見つけるのに時間がかかってしまいました」
「そういうことだったのね」
ジリアンは納得して頷いたが、アレンはしかめっ面のままだ。
「そんなことより。何でお前がここにいるんだよ」
彼は、そもそもテオバルトが同行することに納得していないらしい。
「言ったでしょう? 私はお目付け役ですよ」
「それが気に入らない」
「ですが、2人きりにするわけにはいきませんよ。まだ、結婚前なのですから」
『まだ』を敢えて強調したテオバルトに、アレンの眉間の皺が増える。
「卒業したら、すぐに結婚するんだ。まだも何もない」
「おやおや。先のことは分かりませんよ? 事実、一度は婚約破棄しているのですから」
「あれは……!」
「もう! 二人とも落ち着いてよ!」
無益な言い争いを始めた2人の間にジリアンが割って入ると、アレンはそっぽを向き、テオバルトはニコリと微笑んだ。
「テオバルトは皇帝陛下の頼みで、私たちを手伝うために来てくれたんでしょう?」
「それもありますが、あなたのお父様からも頼まれまして」
「お父様から?」
テオバルトが一つ咳払いをした。
「婚約者同士とはいえ、若い男女が2人きりで旅をするというのは非常によろしくない。君ならば、二人に間違いなど起こらないように徹底して見張ってくれるだろう」
ジリアンの父であるマクリーン侯爵の声を真似たらしい。似てはいないが、まさに彼が言いそうなことではあった。
「まったく不本意ではありますが、人選としては恐らく最善でしょうね」
ニコリと笑ったテオバルトに、ジリアンは力なく笑うことしかできなかった。
ジリアンはノアの死後、新たな専属の護衛騎士を決めなかった。決められなかったと言った方が正しい。
しかし、彼女の立場で護衛騎士を置かないというわけにもいかないので、マクリーン侯爵が選りすぐった騎士たちが交代で護衛にあたることになった。その騎士たちは、今も彼女から距離を置いた場所で護衛の任についている。かつてノアがそうしていたように、すぐ近くで護衛することはしていない。
だからこそ、侯爵はお目付け役を依頼する必要があったのだ。
「さて。まずは身体を休めて、明日からはしっかり仕事をしましょう」
「そうね」
「皇帝陛下の依頼の内容は?」
ジリアンはカバンから地図を取り出した。魔大陸の南西部が描かれた地図は、赤色と青色で色分けされている。
「砂漠地帯にヒトが住める環境を取り戻してほしい、という依頼よ」
赤く塗られている場所が、その砂漠地帯だ。
「そもそも、砂漠にはその環境に適応した種族がいくつもいるのよね」
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数年前から続いているこの問題に、人族の魔法で解決の糸口を見出そうということだ。
「何から始める?」
アレンの問いに、ジリアンは一つ頷いた。
「やれることは二つね」
「二つ、ですか?」
「一つ目は、この環境を変える方法を考えること。この部屋の湿度を変えたように、ヒトが住める環境を限定的にでも作り出すことができれば、ヒトが暮らせないということもなくなるはずよ」
「確かに」
アレンが頷いた。誰もが使えるように、その方法を確立すればいいのだ。
「もう一つは、原因を叩くことよ」
「原因?」
「これだけ環境が激変したんだもの。何か原因があると考えるのが自然だわ」
「そのとおりですね。……もしかして、その原因に心当たりがあるのですか?」
ジリアンは、地図の上の一点を指差した。
「『火の山』よ」
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