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第1部 勤労令嬢、愛を知る - 第1章 勤労令嬢と侯爵様

第2話 旦那さまよりも偉い人

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 マクリーン侯爵本人が訪ねてきたのは、その翌日のことだった。

 いつも通りに庭の手入れに精を出していたジリアンの耳に、馬蹄ばていの音が聞こえてきた。立派な馬車が、道の向こうからやってくるのが見える。
 門のすぐ外に停まった馬車から降りてきたのはロイド氏で。

 その隣には、もう一人の紳士が立っていた。

 黒々とした瞳が印象的で力強い顔立ちの人だ。はがね色の髪は後ろに流して、きっちりと整えられている。歳の頃は、ロイド氏よりもいくつか上だろうか。
 ロイド氏のそれよりも立派な仕立てのフロックコート、手には洒落しゃれたステッキと艶々つやつやのトップハット。
 どこからどう見ても、壮年の立派な紳士だ。

「ようこそいらっしゃいました」

 慌てて駆け寄ると、その紳士がジロリとジリアンの顔を見た。
 その様子に、ジリアンは慌てて顔を伏せる。

「申し訳ありません」

 思わず謝罪するジリアン。頬が紫色に変色しているし、唇が切れて血まめができている。今の自分がみにくい顔をしていることを思い出したのだ。

「……あの後、また叩かれたのですか?」

 尋ねたのはロイド氏だ。

「……転んだだけです」

 ジリアンが答えると、二人は押し黙ってしまった。

「旦那様をお呼びします。応接間へどうぞ」

 沈黙に耐え切れずにジリアンが言うと、二人の表情はさらに険しくなった。

「君は、自分の父親を旦那様と呼ぶのか?」

 紳士が口を開く。
 この二人は、ジリアンが男爵の娘であることを知っているのだ。

「……」

 ジリアンは何も言えずに黙るしかない。なんと答えればよいのか、わからないのだ。
 誰に命じられたわけでもなく、いつの間にかジリアンは男爵のことを『旦那様』と呼ぶようになっていた。そうすれば、男爵が機嫌をそこねる回数が減ったから。

「そうか」

 紳士は一言だけ言って、ズカズカと庭へ入ってきた。

「あの!」

 ジリアンも慌てて後を追うが、足が長さが違うので追いつくだけで息が上がった。
 その様子を見た紳士が立ち止まって、険しい表情のまま一つ息を吐いた。

(しかられる!)

 そう思ったジリアンだったが、しかられることはなかった。その代わりに。
 
「ノア」
「はっ」

 短く返事をしたロイド氏が、ひょいとジリアンを抱き上げた。

「あ、あの!」

 突然のことに慌てるジリアンの背を、ロイド氏が優しく撫でる。ポンポンと、まるで子供をあやすように。

「大丈夫ですよ」

 そして安心させるように笑顔を向けてくれるロイド氏に、ジリアンは顔を赤くしたのだった。

「行くぞ」

 紳士はどんどん奥へ進んで、あっという間に玄関に着いてしまった。

「あの、私が……」

 ──カンカン!

 案内しますと続くはずだった言葉は、紳士がドアノッカーを叩く音にさえぎられてしまった。

「……」

 一度目は誰も応えなかった。
 当たり前だ。いつもはジリアンが真っ先に応対するのだから。

 ──カンカン!

 二度目は、一度目よりも大きな音が鳴った。

「ジリアン! いないのか、ジリアン!」

 屋敷の中で男爵が呼んでいる。

(行かなきゃ)

 ジリアンはロイド氏の腕から下りようと身じろぎしたが、ぎゅっと抱く力を強くされてしまった。下ろして欲しいとロイド氏の顔を見上げるが、ニコリと笑顔が返ってきただけ。

(このままじゃ、男爵にしかられちゃう)

「大丈夫ですよ」

 ロイド氏が再びポンポンとジリアンの背を撫でる。
 そうこうしているうちに、玄関の向こうからドタドタという足音が聞こえてきた。次いで、ドアが開かれる。開いたのは、もちろん男爵で。

「……」

 男爵が、紳士をめ付ける。頭から足先まで、値踏みするように。しかし、すぐ隣のロイド氏に気づいて男爵は腰を折った。

「これはこれは、ロイド様!」

 今度はロイド氏に抱かれているジリアンを見て、顔をしかめる。

「当家の使用人が、何か失礼を?」

 ──バキッ!

 男爵が言うや否や、何かが折れる音が鳴り響いた。
 ジリアンと男爵の肩がびくりと揺れるが、ロイド氏は涼しい顔でジリアンの背を撫でている。

「使用人だと?」

 怒っている。この紳士は、とてつもなく怒っている。

 それだけは、ジリアンにもわかった。
 折れたのは紳士が持っていたステッキで、折ったのはその紳士だったから。

「貴様の娘ではないのか?」

 紳士がジロリと男爵をにらみつけた。

「……失礼ですが、どちら様ですかな?」

 男爵も負けじと紳士を睨みつける。

「ゴホン」

 咳払いをしたのはロイド氏。

「こちらは、クリフォード・マクリーン侯爵閣下です」

 ロイド氏が告げる。
 すると、男爵は口と目をポカンと開いて何も言えなくなった。次いで、顔色が赤から白、そして青へと変わる。

「ここここ、これは、たいへんな失礼を……」

 男爵が床につきそうなほど頭を下げるのを見て、ジリアンも驚いた。

(旦那様よりも、偉い人なんだ)

 ジリアンにとって、この世で最も偉い人は男爵だった。その男爵が、顔を青くして体を震わせて頭を下げている。その態度からは、恐怖すら感じられる。

 ジリアンは『男爵よりも偉い人がこの世には存在する』ということを、このとき初めて知ったのだ。

「どうぞ、こちらへ……」

 男爵がへこへことマクリーン侯爵とロイド氏を案内する。
 応接間に案内されてソファに座ると、侯爵はロイド氏に両手を差し出した。首を傾げるジリアン。すると。
 
 ──ひょい。

 なんと、ロイド氏はジリアンを侯爵の膝の上に下ろしてしまった。

「え!」

 驚くジリアンと男爵。そんな様子など気にも留めずに、侯爵はジリアンの腰に両手を回した。

「じっとしていろ」
「は、はい」

 ジリアンには、言われた通りにする以外の選択肢はなかった。

(この人は、旦那様よりも偉い人)

 そのようにり込まれてしまったのだから。

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