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34 彼が淹れてくれたカフェオレ

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 出されたカフェオレを見て、私の感情が揺れ動いてた。
 今日はカフェオレを飲む。ただ、それだけのはずなのに。冬君が私の心をかき乱す。
 この一杯のカフェオレのために、冬君がどれだけ準備をしてきたのか分かってしまったから。




■■■




 今日の冬君は、私の心を手加減なしでかき乱す。
 私服の冬君を初めて見た。

 スキニータイプのデパードパンツ。春物ニットにジャケット。全体的にシックなのに、色香を感じて見惚れてしまう。

 私が知っている高校生は海崎君や大國君だから。狭い世界なのは自覚しているけれど。
 垢抜けていて。でもチャラチャラしているワケじゃなくて。そんな冬君から目が離せない。

 触れるように、冬君と手をつなぐ。

 こうしているだけで、過呼吸にならない。でも、今までとは別の意味で心臓が騒がしくて。動悸が起きるわけじゃないし、呼吸が乱れるワケでもない。でも、冬君が傍にいることを感じるだけで、こんなにもドキドキが止まらなくて。

 分かっている。私は冬君にな感情を抱いている。

 今のこの関係を壊したくない。弱気な私が囁く。でもこの関係のままでいたくない。勇気を持てと、冬君と出会ってから、変わった私が囁く。

 ――いいの? 本当に、いいの? 
 私自身に囁かれる言葉。

 冬君が同じように他の人にそんな言葉を囁いていてもいいの? あなたは本当にそれで良いの?

(良いわけない。そんなの絶対にイヤ)

 冬君は私の隣にいてくれると言った。それはどんな気持ちで? 同情? クラスメートとして? 友達だから?
 私の気持ちは、それじゃもう満足できなくて。

(だから、守られるだけじゃイヤ。私も冬君を支えられるくらい強くなりたい)

 心の底からそう思う。もらってばかりじゃ絶対ダメで。気持ちなら溢れそうで。今までは蓋をするのに必死だったけれど。でも今は――。

(少なくとも、冬君と学校に行けるようになりたい。その後、この気持ちを伝えたい)

 怖さもある。不安だらけだ。でも他の子にこの隣を奪われるのは、絶対にイヤ。そう思う。
 そうグチャグチャに気持ちが混乱していた時に、冬君から言葉を投げ放たれた。

「今夜は本当に月が綺麗だな」

 何気なく呟いた、その言葉。確かに月が綺麗。でも、今、空を浮かぶ月は雲に隠れては現れたりを、ゆっくり繰り返していて。全力で綺麗かと言われたら首をひねってしま――。
 とまで思って私は息を呑む。

「だから、冬君! そういうトコなの! そんなこと、軽はずみに言ったらダメだよ。他の子にそういうこと言ったら絶対にダメだからね!」

 私は耳まで真っ赤になっている気がする。夏目漱石のアイラブユーの意訳。
 ――月が綺麗ですね。
 ふと、その言葉が思い浮かんで、頭から離れない。

(ねぇ冬君? 冬君はどんな気持ちで、その言葉を言ってくれたの?)

 漱石の時代は好きも愛しているも開放的に言えない時代で。女性が気持ちを伝えるのは言語道断だったはず。

 ――死んでもいいわ。
 月が綺麗ですねの返句。でも口が裂けても、私はそんな言葉は言いたくなかった。

 ――手をのばせば届く。
 まだ、こっちの方がしっくりくる。でも手なら繋いでもらっている。手を繋ぐだけじゃ足りないと感じている私がいて。私はこんなにも貪欲で。

 自分でもこの気持ちが重いと思う。でも冬君と色々な場所に行きたいと思ってしまって。冬君と生きたいって。そう思ってしまう自分がいて。

 ――冬君あなたがいないと呼吸ができない。
 むしろ、こんな言葉が自然と思い浮かんで。月を見上げながら、私はやっぱり冬君のことしか考えられなくて。

(ねぇ冬君? 冬君はどんな気持ちで、その言葉を言ってくれたの?)

 胸が苦しくなる。呼吸は苦しくない。ただ切なくて。欲が溢れてしまうのを私は必死に抑え込みながら。

『おあー』

 どこからか、見守るような猫の鳴き声が聞こえてきたのは――私の気のせいだったんだろうか?




■■■




「――こ、こんばんは。下河雪姫で、す」

 言えた。喫茶店のマスターさんと、その奥さんに。呼吸が乱れそうになった。でも冬君が手を繋いでくれているのを実感して、息が落ち着く。

 ――大丈夫。大丈夫だから。傍にいるから。

 そう冬君が囁いてくれた気がして。だから、私は背筋をのばす。

「いらっしゃいませ、マスターの長谷川誠です」

 マスターが微笑んで、一礼した。

「妻の長谷川美樹です。下河さん、よろしくね」

 そう奥さんが言った。小声で、「お久しぶり、ゆきちゃん」と囁かれて。私は顔が熱くなるのを感じる。冬君がアルバイトをしている場所が【cafe Hasegawa】と知らなかったので、お店の前で思わず呆然としてしまった。

 知らないわけがない。発作が起きる前までは、何度も家族で足を運んだカフェだからだ。正直に言うと、カフェでは形容しきれないお店だ。気軽にコーヒーや紅茶が飲めるカフェ。ディナーは大切な時間を過ごせるレストランに表情を変える、そんな不思議なお店。

 そして確かココの制服は――想像しただけで頬が熱くなる。冬君が似合わないワケがなくて……。

「上川君。下河さんをご案内したら、早く着替えておいで。彼女が安心できるようにね」

 カウンターからマスターさんは微笑む。

「下河さん、上川君はすぐに戻ってくるからね」

 私は頷くことしかできなかった。強くなるって決めた。これぐらい待たなくちゃ。そう思う。思うのに、不安が溢れてきそうで。

「すぐに戻るから」

 間髪入れず。まるで私の気持ちはお見通しのように、冬君が言った。その声を聞くだけで、不安が少し減って。でもおそれてしまうから、私は縋るように彼を求めてしまう。

「早く帰ってきて」

 こんな弱気な発言をしてちゃダメなのに。でも、冬君は私の目を見て、しっかりと頷いてくれた。それだけで、不安が溶けていく。傍にいてくれると冬君は言った。友達として、一番に想ってくれるって。一緒にいようって。弱さを見せても良いって。隣は誰にも譲らないって。冬君はそう言ってくれたから。

 私はスマートフォンのストラップを握りしめながら。胸に抱きしめるように包み込みながら、冬君の後ろ姿を見送る。

 冬君が傍にいないと感じただけで、体が震えてしまう。
 どれだけ、冬君に依存しているんだろうって思う。これじゃダメだ、何度もそう自分に言い聞かせても、やっぱり震えは止まらなくて。

「上川君、戻ってくるの早いだろうね」

 奥さん――美樹さんが、ニンマリと笑む。え? と私は思わず美樹さんを見てしまう。

「上川君ね、最近、お仕事中も雪ん子ちゃんの話ばかりだからね」
「え? え?」

 私は目が点になる。その意味を理解して、嬉しいと思う自分がいて。

「それに」

 と美樹さんは、楽しそうに笑う。

「雪ん子ちゃんも、そういう顔するようになったんだね」
「え? え?」
「美樹。あまり出しゃばらない。今日の主役は、下河さんで。バリスタは上川君だからね」

 とマスターさんが言う。と、冬君が慌ただしく戻ってきた。

 やっぱりと思う。マスターさんと同じ制服に身を包んだその姿は――まるで執事のようで。私だけの執事さん。そう思ってしまうのは、自意識過剰だろうか。思わず見惚れて、我を忘れてしまう。
 冬君が私の手を握ってくれる。それだけで、私の呼吸はあっという間に落ち着いていく。

「カフェオレ淹れるから、少し離れるよ。大丈夫?」

 と確認するように言ってくれる。冬君がの存在を感じられるだけで、私はこんなにも息ができる。冬君の手が離れる。でも、冬君の暖かさは、私をまるごと包み込んでくれて。だから私は答えることができた。

「ち、近くにいるのが分かるから。多分、大丈夫」
「うん、ちゃんと傍にいるからね」

 冬君の言葉がどんどん、私を包み込む。手は離れているのに。これからカウンターの向こう側で作業するのが分かっているのに。でも私の心はこんなにも暖かい。こうやって私に冬君は魔法をかけていく。惜しげもなく、遠慮なく。

 だから――。

 私は冬君に向けて、手をのばした。曲がっているホワイトタイをなおしてあげる。自分のことよりも、私を優先して来てくれたのが分かって。それが本当嬉しくて。

「じ、自分で直せるよ」

 と冬君が狼狽うろたえるのが見て取れたけど。マスターさんにも、美樹さんでもなくて。私が直してあげたかったの。

 私の執事さん。私だけの冬君。今、この時間だけはそう思わせて欲しかったから。




■■■




 カフェオレ、淹れるね。そう冬君は私に囁いて、カウンターに戻る。と、マスターさんと二言三言、言葉をかわして、冬君が私の前に戻ってきた。その顔は、私から見ても分かるくらい真っ赤で。

「冬君?」
「改めまして、ご挨拶申し上げます」

 冬君はそう言って一礼する。お仕事をしている時の冬君の表情。私は一瞬たりとも見逃すまいと、彼の挙動を見守る。マスターさんが、おもてなし前の挨拶をするように――そう言ったのが想像できた。だって、予約をした客に対して、マスターさんがお礼を述べるのが、このお店の恒例行事だから。
 ただそれを冬君が言うことは予想していなかったので――頬が熱い。

「本日は当店を選んでいただき、本当にありがとうございました。お店は数あれど、今日という日に、私どもを選んでいただけたこと、本当に感謝しています。これからの貴女が過ごす時間を考えれば、今夜はほんの刹那に過ぎません。しかし、その刹那が一生の記念となるよう、誠心誠意おもてなしをさせていただきたいと考えています。今宵こよいが貴女にとって、宝石のような時間となりますように」

 一生の記念……。私はその言葉を心のなかでなぞる。
 うん。この短い日々のなかで、冬君と過ごした時間はどれも全部、宝物で。でも今日という日は、本当に宝物になりそうな気がする。

「最高の一杯を、雪姫にいれさせてください」

 冬君はニッコリ笑って言う。

「……はい。楽しみにしています」

 私は笑って頷いた。自分でも分かる。きっと幸せでこれでもかってくらい笑顔が溢れている。私のためだけに淹れてくれる。その言葉だけで、本当に嬉しいと思ってしまう。





「おまたせしました」

 しばらくして、トレーに乗せたコーヒーカップを持って冬君が声をかける。コーヒーカップのなかに描かれていたのは、茶色のキャンバスに白で描かれた仔猫で。私が持っているスマートフォンのストラップとそっくりで。いわゆるコーヒーアート。

 私は目をパチクリさせた。簡単に淹れられるような代物じゃないことは、流石の私にも分かる。これを冬君が淹れてくれたの?

「ふ、冬君?」
「飲んでみて欲しいかな。一生懸命、雪姫のために淹れてみたんだよ。ちょっと頑張ってみたんだけど、どうかな――」

 思った気持ちは嬉しさと、冬君の存在の大きさ。それから彼を想う素直な愛しさで溢れてしまって。
 もうこの気持ちを抑えることはできなかった。

「今までで、最高のデキじゃない、あのカフェオレ」
「だね」

 美樹さんとマスターさんの声が聞こえて。
 二人がいるのも分かっていたけれど、もう私の気持ちは抑えきれなくて。頭の中が真っ白になって、衝動的に冬君の胸に私は飛び込んでいた。

「雪姫?」

 戸惑う冬君の声。でも、冬君は私を受け止めてくれて。感情が抑えきれない。嬉しいという気持ちと、冬君の名前を私は連呼していた。この気持ちを理性で押し込めておくことは、もうムリで。

 そんな私を冬君は、髪をその手で梳き――それから抱きしめてくれた。
 私の気持ちを受け止めてくれた、そう表現する方が正しいかもしれない。

「嬉しくないわけないよねぇ。まるでプロポーズでしょ、コレ」

 美樹さんの声が聞こえた。きっと冬君にそんな意図はない。分かっている。彼は私を友達として見ている。でも、私は友達のままじゃイヤなんだ。

 どんどん、私がワガママになっていく自分を感じながら。
 諦めたり、捨ててきたり。それが私にとっての当たり前だったけれど。

(絶対に、諦めたくない)

 冬君の温もりに包まれながら、そう思う。絶対に、友達のままでいてあげない。この隣は誰にも絶対、譲らない。譲らないんだから――。




■■■




 落ち着いて、ようやくコーヒーカップに手を置く。猫舌の私には丁度良い温度になっていて。ただ、冬君と視線が合うと、さっきまでの温もりを思い出して――体が熱くなる。大胆すぎた。自分でもそう思う。

 冬君と一緒にいると、周りが見えなくなるのを実感する。必死にこの気持に蓋をするのに、冬君を目の前にした途端、その決意も吹き飛んで。彼しか見えなくなってしまう。

 見ると、マスターさんと美樹さんが、微笑ましそうに私達を見守ってくれていて。知っている人達だからこそ、なお気恥ずかしい。
 私はごまかしたくて、ついマスターさんに声をかけた。

「あの、しゃ、写真を撮らせてもらって……良いですか?」

 意を決したお願いを、マスターさんは微笑で応じてくれる。

「もちろん」

 ほっとする。冬君が目をパチクリさせているのを尻目に、私はコーヒーカップをスマートフォンで撮影した。
 ――カシャリ。
 機械音がやけに、大きく響いて。その音がもう一度、鳴った。

「「へ?」」

 私と冬君の言葉が重なって。見ると、美樹さんが、スマートフォンで私達を撮影していた。その笑顔は悪戯が成功したような子どものようで。

 改めて見れば、テーブルに向かい合って座る私達の距離は近くて。見るからに――恋人カップルのようで。同じことを思ったのか、冬君も耳先まで真っ赤に染めていた。

「ご依頼いただきました写真は、あとで上川君に送信するから、雪ん子ちゃんは、上川君からもらってね」

 ニンマリと美樹さんは言う。写真を撮りたいてって言ったのはそういう意味じゃなくて――嬉しいけど――嬉しすぎて、思考がまとまらないけど、どうしよう。幸せすぎて、考えられ――。

「上川君、おもてなしを忘れちゃダメだよ。今日のバリスタは君だからね」

 とマスターさんに言われて、冬君はハッとした顔をした。

「えっと……。冷めないうちに飲んでもらえ、たら……」

 不安そうに私を見る。
 私は小さく笑んで、コーヒーカップに口をつけた。




■■■




「おいしい――」

 コーヒーは苦手だった。苦味は現実の辛さをイメージさせるから。優しくない言葉や刺々しい拒絶を彷彿させるから。どうして、こんな苦いものを大人は好むんだろう。そう思っていた。

 でもこのカフェオレは――。

 コーヒーの香りを強く感じるのに、苦味も渋みも少なくて。でも砂糖の仄かな甘味を引き立たせるコーヒーの存在感が確かにあった。

 寄り添ってくれて。
 甘えさせてくれて。

 否定をしない。

 私を肯定してくれる。
 しっかりと見ていてくれる。

 でも、私の背中を押してくれる。勇気を私に持たせてくれる。
 まるで、このカフェオレは冬君そのもの、そう思った。

 描かれた猫は、まるで幻のように渦を巻いて、今はミルクのなかに溶けてしまったけれど。

 でも、飲んだ瞬間――体中が暖かくなって。
 冬君に満たされていく。そう感じてしまう。

 お世辞でもない。ウソでもない。ありのままの気持ちが、無意識に私の口から紡がれていた。



「冬君、好き。このカフェオレ、本当に美味しいよ――」
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