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32 君にカフェオレを淹れる前に(今夜は本当に月が綺麗だな)
しおりを挟む「よしっ」
と俺は【cafe Hasegawa】のカウンターのなかで、気合いを入れてみた。と言っても、することは何もない。豆の配分も体に馴染んだかのように、自然に行える。イメージはある。後は、イメージ通りに描くだけで。
夕陽が眩しい。残光が店内に差し込む。
誰もいない店内。
(まさか、この時間から貸切にしてもらっていたとはね――)
小さく息をつく。自分じゃないみたいだなって思う。カフェオレを淹れる。それだけなら、こだわりなんか無くても良いだろう。でも、それじゃ俺は満足できなくて。
(雪姫の笑顔を、もっともっと見たい)
いつから、そんなことを考えるようになったんだろう。最初は弥生先生かあのお願いで。その後に芽生えたのは、雪姫と友達になりたいという、自分でも驚くくらい素直な感情で。
(友達を作るなんて、諦めていたのにな)
目を細める。色々な事情が重なって、今この場所にいる。結局痛感したのは、幼馴染みがいなかったら、コミュニティーのなかに入ることすらできない、自分自身の弱さで。
頑張り屋の雪姫に刺激されたんだと思う。あの子が笑ってくれるだけで嬉しい。彼女が望むことなら叶えてあげたい。そう、素直に思えて。
俺が手を握るだけで、呼吸が落ち着くのならいくらでも握ってあげる。そう思う。
でも、とも思ってしまう。いつか雪姫は、大切に想う人と手をつなぐだろう。もしかしたら、そもそも手をつながなくても、呼吸が安定して。普通に生活することができるかもしれない。
その時、きっと俺は雪姫と友達のままで――。
変だな、って思う。自分でもおかしいなって思う。雪姫と友達でいることに満足しているはずなのに、それでは物足りないと思っている自分がいて。こんなにも自分が強欲で。
俺は首を横に振った。余計な感情は、今はいらない。雪姫のためにできることをしてあげたい。今はそれだけで良いから、そう思う――。
「緊張で真っ白になったというよりは、不安になって弱気になってる系?」
突然、瑛真先輩に声をかけられて、目を白黒させた。
「先輩?」
「ふふ。本番は冷やかし、じゃなかった――応援できないでしょ? だから、今『ガンバレー』って言ってあげようかと思ってね」
「今、冷やかしって言いいましたよね? 言い直しましたよね?」
やれやれと肩をすくめる。でも、雑念も緊張もそれで解れたので、有難い。
「あれだけ練習してお墨付きをお父さんからもらっているのに、不安になるのもどうかと思うけどね。
先輩の言葉に曖昧に頷きながら、本心は完全に飲み込むに徹する。その一方で確かにとも思う。
傍にる。離れない。――友達として、雪姫がそう求めてくれたのが、俺は嬉しかった。だったら、この友達のためにも最高の一杯を入れたい。まだ見ぬ未来に不安を感じるよりも、今日、この日を雪姫の笑顔で咲かせたい。彼女が幸せそうに笑ってくれたら、俺はそれで満足で。
(たった、それだけのことなのに、何を迷っているのか)
小さく息をつく。
ふと、あれ? と我に返った。瑛真先輩のその言い方って、まるで雪姫のことを知っているような口振りで――。
「そりゃ知ってるわよ。私は文芸部の部長で。彼女は一年の時、文芸部に入部してくれたんだもん。私からしたら、君らは他人事じゃないからね」
「そうですか……」
何というか。雪姫を知っている人が、こんなにも近くにいたんだな、と思うと戸惑ってしまう。
「でも、私的にはありがとうかな」
「へ?」
思わず目を点にする。
「下河さんに手を差し伸べてくれたのが上川君で。上川君に笑顔をくれたのが下河さんだったってことにね」
「瑛真先輩?」
「ふふ。自分のことのように嬉しいってこと。がんばれ、後輩君」
瑛真先輩はそう微笑んで言う。と、思いついたように付け足した。
「終わったら、私にもカフェオレ淹れてね?」
「瑛真先輩って紅茶党でしたよね?」
「下河さんもだったよね?」
ニンマリ笑む。俺は小さくため息をついた。何がなんでも飲む気満々で。嬉しそうに笑む瑛真先輩を尻目に、俺は雪姫を思い浮かべる。あの子にカフェオレを淹れる。彼女の笑顔を見たい。もっと幸せを抱きしめて笑って欲しい。たくさん、これからも見ていきたい。ただそれだけを考えていた。
■■■
雪姫を向かえに行く途中で、俺は大國圭吾とばったり会った。
彼はまるで俺なんか眼中にないように、通り過ぎていこうとする。
その刹那。
大國の言葉が、俺の鼓膜を震わせた。
「雪姫の前をチョチョロするな、目障りだ」
俺は思わず振り返る。
大國は振り返ることなく、角を曲がっていく。黄昏時、夕陽があと数分で落ちていく。そんな時分。
俺は、思わず拳を握りしめた。決して歓迎していない、そう言いた気な大國の口調。敵意だけを叩きつける、その視線。日に日に、その感情が増していくのを感じる。
覚悟ならしている。
自分にどんなに敵意を向けられても許容できる。好きにしたら良いと思う。でも大國が雪姫を傷つけることがあれば――その時は、きっと自制できない。そう思った。
苛立ちなのか、怒りなのか。
ギスギスとした感情が、俺を苛ます。こんな日に、と思ってしまう。ぐっと拳を握りしめているのに気付いて――。
俺は深呼吸をして。
こんな日に感情に流されちゃいけない。
そう自分に言い聞かせてみる。でも、そう思えば思うほどに、増幅した感情が膨れ上がって、自制ができなそうだった。
■■■
(――って思っていたのになぁ)
大國のことが、まるで些事なこと。そう思えてしまったのは、雪姫の笑顔を見てしまったからで。
雪姫は照れ臭さ半分、嬉しさ半分の笑顔を浮かべるが――次第に、その頬を朱色に染めていく。
「雪姫?」
声をかけると途端に俯くので、思わず俺は首を傾げる。
「熱があるわけじゃないよね?」
手のひらで額に手を当てるが、熱がある感じじゃない。俺の額を当ててみるが、やっぱり同様で。
「熱はないみたいだな。でも、顔が真っ赤だぞ? 本当に大丈夫?」
「ふ、冬君!」
雪姫が声を上げた。
「ん?」
「ね、熱とかじゃないから。ただ、ふ、冬君が悪い! 冬君が悪いの!」
「えー?」
いきなり雪姫に責められる意味がわからない。
「だって……今まで、高校の制服姿の冬君しか見てなかったから。その……カッコ良いって思っちゃって」
真っ赤になって俯く。いや、改めてそう言われると俺の方が恥ずかしいんだけれど。アルバイトに行く前なので、ラフな装いだったけれど。免疫のない雪姫には、それだけで刺激だったようで。でも、そう言われて嬉しくないわけがなかった。
(可愛すぎだろ、そんなこと言われたら勘違いしちゃうって)
俺も頬が熱くなるのを感じる。一方の雪姫もシックだがライムグリーンのプリーツワンピースが本当に可愛らしい。
「いつも可愛いって思っていたけど、今日の雪姫もすごく可愛いね」
いつもはリハビリが目的なので、パンツスタイルが多い雪姫だから、なおさらにそう思う。と、雪姫は耳の先まで赤くなって俯く。あれ? 俺、ただ普通に思ったことを言っただけなんだけど? あれ、雪姫さん?
「……冬君、いきなりそういうことを言うから、心臓に悪い。そういうこと言う冬君は、本当にダメです」
「え?」
何故かダメ出しだった。言葉にも配慮しないと、呼吸にも影響が出るということらしい。そりゃ気をつけるけど、今の件をのなかで何をどう気をつけろと――。
「冬希兄ちゃん、玄関でイチャついてないで早く行けば?」
リビングから覗く空君にまでダメ出しをされた。でも、今のドコにイチャつく要素があったんだ?
歩き始めれば、雪姫と自然と手を繋ぐ。4月も下旬となり、陽が長くなったとはいえ流石にこの時間。あっという間に陽は落ちてしまった。街灯や家々の電気の光が、やけに弱々しく感じた。その分、昼間のリハビリよりも、より雪姫を近くに感じてしまう錯覚を憶えた。それだけ、昼の時間を雪姫と一緒にいる証拠かもしれない。
この時間を雪姫と一緒に歩く。今この瞬間、この時間が本当に愛しいと感じていて。
(それにしてもこの街は猫が多いよなぁ)
雪姫と歩きながら、漫然とそんなことを思う。
雪姫はこうやって手を繋いでいると、呼吸が自然と落ち着く。そう言ってくれる。心に突き刺さった棘のような不安が、溶け落ちていくから、と。
「でも、落ち着くのは俺も一緒なんだけどね」
素直に雪姫に囁く。雪姫は嬉しそうにコクンと頷いてくれた。さっきまで脳裏にこびりついていた大國の視線や言葉なら、あっさり溶けて消えてしまって。
今日は雪姫のためにカフェオレを淹れる。今はソレだけを考えたい。
もともとコーヒーを苦手としている雪姫が楽しんでくれるのか、それは分からない。でも、少しでも雪姫が喜んでもらえるように。
横目で、チラリと見ながら。呼吸は安定している。息苦しさは無さそう――。と、ふと雪姫と視線が合ってしまう。
「あ……」
「う……」
二人の言葉が重なって。でも目はなかなか離せなくて。気まずさ半分、この時間がこのまま続けば良いとも思ってしまって。雪姫の隣は、それぐらい居心地が良かった。
「呼吸、しんどくないかなって。ちょっと心配になったんだ」
「……うん。冬君がいてくれるから大丈夫だよ」
雪姫はそう答えて。俺は照れくさくなって、空を見上げる。
満月が青白く輝く。弱々しくも儚く。それでいて意志を灯すように、そこに確かに存在していて。雲に隠れても、一度灯した意志なら消えることはない。まるでそう主張するかのように、月が俺たちを見下ろしていた。
まるで雪姫みたいだな、ってそう思う。照らす光さえあれば、こんなにも真っ直ぐに意志を灯すことができる。怖くても、不安でも。それでも向き合う勇気を、雪姫は持っている。
だったら、俺はその手を繋いで、一瞬だけの光でも良いから君を照らしていきたい。
「今夜は本当に月が綺麗だな」
何気なく呟く。月に照らされた雪姫はより綺麗で。意志を灯す雪姫は美しいって。心の底から思ってしまう。
見ると、雪姫がまた顔を真赤に染め――るどころか、慌てふためいていた。
「だから、冬君! そういうトコなの! そんなこと、軽はずみに言ったらダメだよ。他の子にそういうこと言ったら絶対にダメだからね!」
「へ?」
俺はこの時点では意味が分かっていなかった。
月が綺麗ですね。夏目漱石がi love youを意訳した言葉だったということを――。
■■■
カラン。
ドアを開けると、同時にドアベルが鳴り、淡い照明が店内を照らす。マスター厳選のレコードで、ジャズ音楽が流れるのもいつものことで。
「いらっしゃいませ」
とマスターと、美樹さんがカウンターの奥から声をかけてくれた。
「あ、あ、あの――」
雪姫の声が震える。それを俺は手に力を少しこめて、雪姫に伝える。
(大丈夫。大丈夫だから。傍にいるから)
そう言葉無く、心の中でメッセージを伝えて。普通なら伝わるはずがない。でも、何となく。俺と雪姫の間では伝わる瞬間があって。だから今回も、雪姫に届くように祈る。繋いだ手を優しく包み込むように握りながら。
ひゅーひゅー、乾いた音をたてていた呼吸が、少しずつ落ち着いてくるのが分かった。雪姫は深く深呼吸をした。
「――こ、こんばんは。下河雪姫で、す」
一息で言葉を吐き出し、ペコリとお辞儀をする。姿勢も表情も硬いが、雪姫なりの精一杯を感じる。
「いらっしゃいませ、マスターの長谷川誠です」
マスターが微笑んで、一礼した。
「妻の長谷川美樹です。下河さん、よろしくね」
美樹さんもニッコリ笑う。
「上川君。下河さんをご案内したら、早く着替えておいで。彼女が安心できるようにね」
にっこりマスターは微笑む。
「下河さん、上川君はすぐに戻ってくるからね」
カウンターから投げかけられたマスターの言葉に、雪姫は小さく頷いた。雪姫は緊張した面持ちだが、呼吸は安定しているのが見て取れ、俺は安堵する。
だけど手を離した瞬間、雪姫が取り残された仔猫のような表情を見せた。
「すぐに戻るから」
そう耳元で囁いて。
コクンと雪姫は頷く。
「早く帰ってきて」
その言葉は、俺にしか聞こえていなかったと思う。
しっかりと雪姫の目を見て頷いて見せる。雪姫はほっとしたように、微笑を浮かべた。
俺は急く気持ちを抑え、更衣室に向かうのだった。
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