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閑話3 君がいないと呼吸ができない名探偵
しおりを挟むこれは物語の向こう側。断層と断層を越えた、そんな活字と行間、平行世界と平行世界、頁の向こう側を飛び越えた、そんな刹那の物語。
■■■
クッキーを焼くのを白猫は、興味深そうに見つめながら。雪は鼻歌を口ずさみながら、作業を繰り返していく。今日は彼が来る日だ。
彼女のなかの世界は狭い。
白猫と。このマンションの一室が全てで。時々、彼――冬が外に連れ出してくれないと、自分は外に出ることもできない。
今日、久々に冬から連絡があって、有頂天になっている自分がいる。
書きかけの、論文なんかそっちのけで。犯罪心理学について考えることは、いつでもできる。でも、冬と一緒の時間は、今しかなくて。
それが対ビジネスの関係あとしても――嬉しくて、たまらなく嬉しくて。何て単純なんだろう、と思う。彼が求めているのは、私の頭脳で。それが分かっているのに、待ち焦がれて、恋しく感じている自分がいる。
(私はなんてバカなんだろう――)
チャイムが鳴る、恐る恐る、ドアを開ける。冬が柔和な笑みを浮かべて。躊躇うことなく、雪を抱きしめた。
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「本当はね、もっと来たいんだよ」
警視庁のエージェントとして、迷宮入り事件を担当する冬は、想像を絶する多忙さだ。警察が雪を頼る時は、犯罪心理学の権威――その頭脳を欲している時で。
ただ、雪には、致命的な欠点があった。
外に足を踏み出そうとした瞬間――呼吸が苦しくなるのだ。
現場検証をしたくても、雪は外に出られない。講義や研究、学会発表はオンラインでもできる世の中なので、あまり支障はない。でも現場検証なら、その目で――感覚で判断しなくては、真実に到達できない。
でも――。
冬がいれば。彼が手を繋いでくれたら、どうしてか呼吸は苦しくなくなる。
それが、彼が警視庁から派遣される、ただ一つの理由なのだ。彼に抱きしめられる理由が分からない。でも嫌いじゃない。こうやって、抱きしめられていると、弱い自分を溶かしてもらえそうになって。
「今度は、どんな事件なの?」
雪が問うと、冬は目をパチクリさせた。
「ちょっと、それは傷つくぞ?」
「へ?」
「俺は、純粋に君を大切な人だと思っている。ビジネスパートナーとして近づいているワケじゃない。君のために何とかスケジュールを捻出して来たのに、それはちょっとひどい」
拗ねたような、そんな顔を見せるので、雪は慌てた。
「あ、ご、ごめんなさ――」
冬の人差し指が、雪の唇に触れて、その言葉は封じられた。
「それなら、これは罰ということで。今日は徹底的に君を独占するからね」
「え? え?」
雪は予想もしていなかった、冬の行動に、思考が追いつかず顔を真っ赤に染める。
「君を推理マシーンのように、ウチの連中は言うけれどさ。俺にとっては誰よりも一番ステキな女の子だ。それ以上もそれ以下もなくね。だから――」
とまで言ってその言葉を封じたのは、端末の通知音で。
それは難解事件が発生したことを示す。冬は思わず、掻きむしるように自分の髪をかきあげた。その顔は、心底落胆している。普段見せる、冬の冷静な表情からは考えられないほど、幼い子どものようで。
雪は思わず、彼を抱きしめた。
「雪?」
「私は、あなたがいないと、外にも出られないの。そんな寂しそうな顔をしないで事件を一緒に解決しに行きましょう? あなたが手伝ってくれたら、すぐ終わるから。そうしたら……。クッキーを焼いて今日は待っていたんだから。一緒に食べて欲しいかな?」
素直にそう尋ねると、彼は狐につままれたような顔で浮かべ――そして、微笑んだ。
「仰せのままに、雪。エスコートはお任せくだいね、っと」
彼は小さく笑んで、その手を差し出す。
「雪の中に埋もれた真実、私たちで溶かしましょう?」
雪は相棒に向けてにっこり微笑んだ。
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カタカタと。お父さんからもらったノートパソコン。そのキーボードを一心不乱で入力して――一息をつく。改めてトラックパッドで画面をスクロールさせながら、文章を読み直す。誤字はない。構成は、とりあえずこのままで良いかも。いや、それ以前の。それ以前の問題で。
(――私、なんてモノ書いているんだろう)
顔が熱くなるのを感じる。熱くなるどころか、酸欠になったのかと思うほど、頭がクラクラする。
雪――これは、私だ。
冬――これは冬君で。
書いている時はあまり意識していなかったけれど。冬に手を握ってもらっていないと、呼吸ができない探偵、雪。
そしてその手を、いとも容易に手を取ってくれる冬。彼がいるから、雪は現場に出て推理することができる。真実を冷たい氷原の下から探し当てることができる。
迷宮入り認定事件に取り組むリスクから、二人は素性を漏らさないことがルールで。
だからお互い、コードネームで呼び合う。お互いの素性を知らなせないように努めて。それがお互いのリスクを回避する手段だった。
警視庁の権力争いや、犯罪組織の抗争に巻き込まれながら、雪と冬は論理に基づいた推理を行い、真実を白日の下にさらしていく。
私は、そんな本格的推理小説を目指していた。
(――いたんだけれど……。)
この物語のなかの二人は、まるっきり雪姫と冬君で。これはダメだ。これは絶対、人には見せられない。
そう思っていると、スマートフォンが着信を知らせた。見れば、彩ちゃんで。
「もしもし?」
「ゆっき、ごめんね。どうしても伝えたくて」
「え?」
「今回、アップされた小説良いね。これ好きよ、私!」
「え……」
私は今回は更新はして――。ウソ?
私は自分の目を疑った。下書き表示はされておらず、更新済みになっていた。
目の前が真っ白になる。
「ゆっきって、今まで、結構暗い作品が多かったじゃない? まだ書き出しだけど、すごく物語を期待しちゃうと言うか。これ絶対、続きを書いてね。読みたいから! お願いよ!」
「あ……え……彩ちゃん、ちょっと落ち着こうね。これはその、ちょっと手違いというか、あの更新するつもりはなくて――」
高校に入学して、文芸部に彩ちゃん達と一緒に所属した。間もなく小説投稿サイトへの登録を先輩から勧められたのだった。
学校に行けなくなっても、サイトには短い文章を投稿し続けて。まるでルーチンワークのように。
その都度、サイトにコメントを寄せて反応してくれていたのが、彩ちゃんで。
電話では過呼吸になってしまう私。考えてみれば、彩ちゃんはずっと待ってくれていたのか。そう思うと目頭が熱くなる。
「ゆっき、私さ思うんだよね。今抱いている気持ちとか、感情とか。物語を作っている時って左右される気がするの。だったらって思うよ。今、ゆっきのなかを占めている上にゃんの影響、それが大きく出てるのは自然なことなんじゃない?」
「で、でも……」
「それだけ、ゆっきのなかで、上にゃんの存在が大きいってことでしょ? だったら、尚更おかしくないよ。だって、ゆっきとこうして電話しても大丈夫なくらい、上にゃんが支えてくれた。つまりはそういうでしょ? 私は、上にゃんに本当に感謝しているからね」
「……う、うん。本当に私にとって、冬君はかけがえがない人。それは本当にそう思ってる……」
冬君と出会ったからの私は、本当に変で。冬君しか考えられなくて。
彼が淹れてくれるカフェオレを楽しみにしている。それも原因の一つだと思う。思えば思うほどに、気持ちが溢れ出してしまって。
分かっているのだ。溢れてしまう気持ち、それが物語に反映されてしまうほどに抑えきれなくて。
「それにね、ゆっきはまだ文芸部所属だからね」
「え?」
私は目をパチクリさせた。
「先輩も、私達も待ってるってこと」
「うん……」
私はコクンと頷いた。
「上にゃんと一緒においでよ」
「へ?」
私は目をパチクリさせた。そんなこと、考えてもいなかったから。
「上にゃん、よく教室で本を読んでるよ。嫌いじゃないんじゃないって思けどね。二人で文芸部に入れば良いと思うんだよね」
そういえば、と思う。私が小説やアニメの話をしても、興味深そうに聞いてくれたり、そのうちの幾つかを見て、感想をくれたり。彩ちゃんに、そんなことを言われると、また夢を見てしまう。
(冬君と一緒にしてみたいことが、どんどん増えていく――)
そんなワガママな夢を願っても良いんだろうか?
でも、と思う。冬君の一番を他の人に譲ることは、到底できそうにない。それなら、物語のなかでだけ。冬君に素直な気持ちを囁くことは許されるだろうか。
リハビリに真摯に付き合ってくれる、冬君に失礼にならないように。
物語のなかで、だけ。
この感情を、少しだけ溢して。それだけは許して?
■■■
「君は呼吸ができない名探偵、なんて名前じゃないからね」
「冬?」
「他の誰かじゃなくて、俺の隣でだけ呼吸をして欲しい。心底、そう思ってるよ」
「……あなたの隣でしか、呼吸ができないわ。知っているくせに」
「何度も言うけどね、俺からして見れば、それが本当に嬉しいんだよ。他の誰でもなくて、俺だってことがね」
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今回の閑話は
Twitterで見つけたハッシュタグ
#自創作がミステリだったら探偵役と助手役は誰ですか
こちらに触発されて書きました。
次回、いよいよ冬君がカフェオレを淹れます!
(展開遅くて、本当にすいません)
応援ありがとうございます!
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