私の初恋〜孤児だった私は貴方の子供を産む為に参りました〜

麦星れな

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第五章 戦いの幕開け

第三十五話

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 すっかり外は夜になった。昼間はあれだけ物を投げる音や言い争う声で騒がしかった屋敷もようやく落ち着きを取り戻したようだ。

「あったかい……」

 私は狭い浴室に設置されている猫足のバスタブに浸かりながら目を瞑る。あの人イザベラと鉢合わせになったら何をされるのか分からないので、アリーの提案で今日は使用人達が使う浴室を借りる事になったのだ。

「ふぅ……ようやく気持ちが落ち着いてきたわ。それにしても、これからどうなっちゃうのかな」

 今日みたいに鞭で打たれたり、酷い言葉をかけられたりする事が続くのかなぁ……と想像するだけで気が滅入ってしまった。

 思い悩んでる時は友達と喋りたい性質たちの人間なので、「一緒にお風呂に入らない?」とアリーを誘ってみたのだが、「ごめんなさい。私は扉の前で誰も入れないように見張っとかないといけませんから……」と断られてしまった。

 確かに彼女の言う通りだと納得し、こうして一人で湯船に浸かっているという訳である。

「リヒトさん、ちゃんとご飯食べれてるかな。怪我とかしてないといいんだけど……」

 いろんな悩みはあるけれど、こうしてウジウジ悩んでいる間にリヒトさんが部屋に戻ってるかもしれないと思った私はバスタブの栓を抜いて立ち上がり、カランを捻って髪と身体を洗い始めた。

(うぅ~~っ、ダメだダメだダメだ! こうなったら早くお風呂から上がって、リヒトさんに抱き締めてもらおう! 今日はうんと甘えちゃうんだから!)

 身体を洗い終わった後、私は脱衣所に戻ってタオルで身体の水滴を拭き取った。棚に置いておいた下着を身に付けた後、鏡を見ながらドライヤーで髪の毛を乾かし始めて気が付いた事がある。

「いつもならリヒトさんが私の髪の毛を乾かしてくれるのよね。そっか、私……この時間も全部大好きだったんだなぁ」

 改めて思い知るリヒトさんへの気持ち。そして、より一層あの人イザベラに対して募っていく嫌悪感――。手を挙げられた時は怖かったけれど、ベルタさん達が別れさせたいという理由を知れただけでも良かったのかもしれない。

(でも、もう鞭は懲り懲り。できるなら、もう会いたくないし……後でリヒトさんに相談してみようかな)

 私は居ても立っても居られなくなって、髪が半乾きの状態のままドライヤーを洗面台の上に戻した。急いでネグリジェを着用し、脱衣所を出る。すると、扉の前で待っていたアリーと目が合い、「随分と早かったですね!」と驚かれてしまった。

「えへへ……今日は部屋で静かにしてようと思ってね。アリーは今からお仕事?」
「はい。ドロテーアの代わりに夜勤にでないといけなくて、今日は一緒にいられそうにないのです」

 申し訳なさそうな顔をして謝るアリーを見て、私は「気にしないで。私も今日は部屋から抜け出さないから」と言う。

「本当にすみません! また明日の朝、お会いしましょう! おやすみなさい!」
「おやすみなさい、アリー」

 アリーは私に小さく手を振った後、小走りで持ち場に戻っていった。一人、廊下に取り残された私もエメの待つ部屋に戻っていった。

◇◇◇

「……遅いな、リヒトさん」

 時刻は真夜中の一時になろうとしていた。いつもは遅くても二十三時までには帰ってくる。それ以上に遅くなる場合は、「先に寝といてくれ」と連絡が必ず入るのだ。

 私の枕元で眠るエメも小さく丸くなりながら、スゥ……スゥ……と小さく寝息を立てながら寝ている。いつも一人で待っている時は心細く感じるのに、今日はエメがいてくれるお陰でそこまで寂しく感じる事はなかった。

 コンコンコン……。

「……は、はい!」

 うとうとしていた私は弾かれたようにハッと顔を上げた。もしかしたら、リヒトさんかもしれない――側で寝ているエメを起こさないように気を遣いながら、ベッドから降りた。

「……リヒトさん?」

 私は小声で声をかけながら扉をゆっくりと開けると、普段あまり接点のない使用人が立っていた。使用人はランプを右手に持ったまま私に少し頭を下げた後、「夜分遅くに申し訳ありません。ご主人様は今夜は来れないそうです」と業務的に伝えに来たのである。

「……リヒトさんは奥様と一緒ですか?」
「そのようです」
「そう、ですか……」

 それを聞いた途端、ズキンと胸が痛んだ。

(彼とあの人は夫婦なんだもの。仕方ないよね……)

 私はその事実に肩を落としてしまう。連絡に来た使用人は私の様子に気に留める様子もないまま続けた。

「明日の午前中にベルタ様がお迎えにあがるそうです。なので、この屋敷を出る準備をしておいて欲しいと連絡がありました」
「ベルタさんが?」
「はい。連絡は以上となりますので失礼します」
「分かりました。ありがとうございます」

 使用人は私に用件を伝えるとさっさと持ち場へ戻っていった。ベルタさんが迎えに来るという事はそれなりに危ないという事なのかもしれない。

 私は扉を閉めた後、扉にもたれ掛かったまましゃがみ込んだ。嫌な予感がした。何故かリヒトさんと会えなくなる――そんな気がしたのだ。

「リヒトさん……ちゃんと戻って来てくれますよね?」

 あの人イザベラと何もないって頭では分かってる。それでも、不安しか感じないのはリヒトさんの事を心から想っているからだ。

 私はギュッと目を瞑り、リヒトさんと契った小指を握りしめながら自分自身に言い聞かせるように呟く。

「きっと大丈夫。リヒトさんと約束したもん。絶対に戻ってきてくれる。絶対に大丈夫だから――」
「クアァァ……キュウン? ウォンッ!」

 エメが大きな欠伸をしてから私がいない事に気が付いたらしく、ベッドから床にトンと着地する音がした。

 小さな足をテチテチと動かしてこちらに近付き、私の足に擦り寄る。その様子はまるで、「ねぇねぇ、早く僕と一緒に寝ようよ~」と言っているようだった。

「起こしちゃってごめんね。今度、リヒトさんと一緒にお散歩したいね。エメが駆け回れるような草原がいいわ。サンドイッチを持って、いつか皆でピクニックにも行きましょう!」
「ウォン!」

 エメを抱き上げた後、鼻先にチュッとキスをしてベッドへと戻った。まだ小さい頭を数回撫でた後、「おやすみ、エメ」と声をかけて照明を落とし、私は眠りについた。

◇◇◇

 昨日の騒動はどこへ行ったのか何事もなく朝を迎えた。私は屋敷の中を掃除してくれている使用人や厨房にいる料理人達に笑顔で挨拶をして回った後、食堂へ向かうのがルーチンなのだが、いつも通りすぎて怖くなってしまった。

あの人イザベラの気配がまるでないのはどうしてなの? もしかして、何か企んでる?)

 私の頬に嫌な汗が伝う。なにか騒動が起こる前にベルタさんと合流できるなら、それで良いのかも……そう思いながら食堂の扉を開いた。

「おはようございます、リヒ――」

 誰も座っていないガランとした食堂には、アリーと数人の使用人達がいた。アリーは真っ先に「おはようございます、シャリファ」と挨拶をしてきたが、いつもよりも申し訳なさそうに眉が下がっていた。

「リヒトさんはいないのね」
「はい……で、ですが、見て下さい! 料理長自ら腕を振るった最高の朝食です! シャリファは食べるのがお好きですから、しっかり食べて元気を出して下さい!」

 アリーに言われてダイニングテーブルにズラッと並べられた朝食を見てみる。確かに今日の朝食はいつもよりも豪華だった。

 焼きたてのパンがバスケットにたくさん盛られており、白いお皿の上にはカリカリに焼いたベーコンと目玉焼き。サラダボウルには新鮮なサラダがたっぷりと盛られていた。

「凄い量ね! でも、一人でこんなに食べられないわ」
「食べられなくても大丈夫ですよ! さぁ、お席にどうぞ、食後の紅茶もご用意してますから!」

 普段、物静かなアリーは私を元気づける為、わざと身振り手振りを大きくしながら話してくれた。

 彼女や周りの皆が私を気遣ってくれる気持ちが嬉しくて、「ありがとう、アリー」とお礼を言ってから席に座った。いつも通り、「いただきます」と祈りを捧げてから、バスケットから大好きなクロワッサンを手に取り、皿の上で小さく千切って口へ運ぶ。

(これ……いつもと少し違う。美味しいっ!)

 クロワッサンの香ばしくてサクッとした食感が美味しかった。いつもとは違うバターを使用しているのか、鼻から抜ける香りも最高である。

 何回か咀嚼してからクロワッサンをゴクンと飲み込むと、自然と頬が綻んだ。

 料理人達もあの人イザベラに暴力を振るわれそうになったのを聞いているのだろう。だから、元気を出してという意味を込めて、朝から気合いを入れた料理を作ってくれたに違いない。

(皆の優しさを感じる……使用人さん達も料理人さん達も優しい人ばっかりで、恵まれてるなぁ。よーし、皆の気持ちに応える為にも残さずに食べなきゃね!)

 私はシーザードレッシングを手に取り、サラダに少量かけてパクパクと食べ始めた。その様子にアリーや他の使用人達もホッと胸を撫で下ろしたように、お互いの顔を見合っていた。

◇◇◇

「ハァ~~、ご馳走様でした……」

 ナイフとフォークを皿の上に置いて、膨れたお腹を優しく摩る。あれだけのあった朝食を無事、一人で完食する事ができた。

 私は口直しをしようと、アリーが淹れてくれた紅茶に手を伸ばした。すると、「ウォンッ!」という元気な声が足元から聞こえてきた。

「あら、エメも完食したのね! 偉いわ!」

 ヘッヘッヘッ……と舌を出しながら私の顔を見つめる。ドッグフードは屋敷に置いていなかったので、代わりに鶏肉を茹でたシンプルな物をあげたのだが、とても美味しかったらしくおかわりを強請られてしまったのだ。

「フフッ、満腹ね。さぁ、もうそろそろ準備しないと! さぁ、エメは移動用の籠に入りましょうね」

 エメの目の前にペット用のキャリーケースを扉を開けたまま置く。すると、エメは警戒しつつ、フンフン……と嗅いだ後、危険な物はないと判断したのか、すんなりと籠の中に入ってくれた。

「少しだけ我慢してね。それじゃあ、そろそろ行くね」

 エメが入ったキャリーケースを持って椅子から立ち上がると、アリーが私の残りの荷物を持って歩み寄ってきた。

「ここに戻ってくる頃には全て解決してますから、きっと大丈夫ですよ。後、ベスのお世話も任せてください」
「お願いね、アリー。でも、ベスの事だから私が挨拶した後も、出せーって言って大暴れしたんじゃない?」
「そうなんです。ベスが部屋の扉を蹴破ろうとしていたので、扉を押さえるのがとっても大変だったんですよ」

 アリーがその時の状況を思い出したのか、疲れたような顔で言う。そのやり取りが容易に想像できてしまった私もクスクスと笑ってしまった。

「さぁ、行きましょう」

 私達は食堂を出た。暫く廊下を歩いていくと、昨日あの人イザベラと言い争ったエントランスが見えてきた。

 ここにもあの人イザベラはいなかった。いないに越した事はないのだが、嫌な性格をしている彼女が何も仕返ししないまま終わるだろうかと私は警戒していたのである。

(リヒトさん、私は信じてますから――)

 私は自分の小指にキスを落とした後、玄関に向かって踵を返して歩き始めた。エメが入ったキャリーケースを片手で持ったまま屋敷の扉を開け放つと、数台の見慣れないトラックが停まっている事に気付く。

「あれは――ッんん!? う……うぅ……」

 突然、嗅いだ事のない薬品臭がした。それから間も無く、クラッと意識が遠退くのを感じる。

(何……これ……どう、し――)

 背後からアリーが叫び声とエメの怒ったような声も、だんだん遠くなって目の前が真っ暗になった。
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