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第五章 戦いの幕開け
第三十二話
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「ベス、この屋敷での生活は慣れた?」
私は客室で紅茶を注ぎながら向かい側のテーブルに座るベスに声をかけた。今日はリヒトさんがお仕事で屋敷にいないので、監視係としてドロテーアと新人使用人のアリーが同席している。
「……この服、裾が長くて動き辛い」
私の問い掛けにベスは唇を尖らせながら言う。彼女は一人掛けソファにもたれ掛かり、使用人が着用する裾の長いワンピースを指先で摘みながらブスッと不貞腐れていた。
その様子を見たドロテーアはまるで子供を嗜めるように「貴方の場合、手首と足首に枷が付いてるから尚更そう感じるのよ。旦那様の信用を得るまでは我慢しなさい」と言うと、ベスは母国語で「―――……」と呟き、がっくりと項垂れてしまった。
「ねぇ、ベス。今のなんて言ったの?」
「うーんとね……あぁ、いつになるんだろうって言ったの」
意味は大体そんな感じかなという表情をするので、私もベスの真似をしてアストライア語で呟いてみる。すると、ベスはパッと表情を輝かせながら「そうそう! この単語の発音はもう少しアクセントを強めで!」と丁寧に教えてくれるのだ。
(ベスも随分とこの国の言葉が上手になったわね。ドロテーアの指示に文句を言いながらも仕事をこなしてくれてるし、一部の使用人達を除いてベスを差別的な目で見る人達も少ないみたいだから安心したわ)
早いものでベスがこの屋敷に来て一ヶ月が経過し、季節は梅雨に入った。この時期は髪がまとまらなくて困る事が多いが、何気にこの時期に咲くお花は好きだったりする。
この屋敷の中庭には背の高い広葉樹が何本か植えられているが、花の種類は少ない印象だった。広い中庭に花が数種類だけではあまりにも殺風景なので、今度リヒトさんにお願いしてガーデニングを始めようと考えているのだ。
(ガーデニングを始めたら外の空気も吸えるし、きっと良い気分転換になるわ。今回は生理が来ちゃったけど、くよくよせずに次も頑張ってみよう。リヒトさんもまだ二人の時間を過ごせるって喜んでくれてるし、重く考えないでおこうっと!)
私は紅茶が入ったティーカップを皆に配りながら、今度はこの一ヶ月で起こった事を頭の中で整理し始めた。
一つ目はこの屋敷で働く使用人達の事だ。この一ヶ月で使用人の顔ぶれがガラッと変わった。二ヶ月前に起こった爆発事故の影響で田舎に帰るという使用人が十名ほど名乗り出たのだ。
これにはリヒトさんも良い機会だと思っていたようで、彼女達に退職金を手渡して感謝の言葉を伝えていた。
(確かにこの屋敷は広いし大きいけど、前々から人が多すぎるんじゃないかなーとは思ってたのよね。それに、正妻さんの息がかかった使用人達を優先的に辞めさせてたから、そういう思惑もありそうな気がするわ)
私はうんうんと頷きながら、リヒトさんの言動と行動を推測していた。
二つ目はドロテーアの兄・テオバルトさんがウィルフリードさんの屋敷に戻った事だ。向こうで産休をとる使用人がいるらしく、その穴埋めで一度本邸へ戻ったらしい。その代わりに入ったのが、ドロテーアの後ろに控えているアリーという若い使用人だった。
(アリーはたまに何もない所で転けたりするけど、とっても優しい子だわ。何より彼女が作ったハンカチの刺繍はプロが作ったかのような仕上がりなのよね!)
緊張で顔が強張っているアリーを見つめる。
彼女は私より少し背が高かった。大きな青い目に色白の肌、灰色の長い髪を頭の高い位置で結い上げた少しだけ幼さが残る印象の女の子だ。
「ドジな所もあるけど要領が良くて教えた仕事は正しく覚えるし、何より手先が器用な子だ」と、ドロテーアが珍しく褒めていたのを聞いて、私はすぐに彼女に声をかけた。
実はガーデニングの他にもリヒトさんが帰ってくる時間を利用して、一つでも何かできるようになりたいと考えていたのだ。
アリーは私の急な申し出にも関わらず「わ、私で良ければ……」と承諾してくれた。
彼女の仕事が落ち着いている時間を使って、シャツのボタンの留め方やクロスステッチのやり方を教わるのを繰り返しているうちにアリーとはすっかり仲良しになった。
「アリーはどう? やりにくい事はない?」
「は、はい! とても良くして頂いてます!」
まさか自分に話を振られるとは思っていなかったのか、アリーは目をパチパチと瞬きをしながら驚いた表情をしていたので、私はフフッと微笑みかけた。
「それは良かったわ。また、いろんな刺繍のやり方を教えてね」
そう声をかけてからティーカップに四角い白砂糖を一つと薄く輪切りにしたレモンを紅茶に浮かべ、空いているテーブルの上に置く。
「良かったら、アリーも座って? 皆でお茶を飲みましょう」
「……お砂糖の入った紅茶を頂いても宜しいのですか?」
アリーは私とドロテーアの顔色を伺うかのように恐る恐る聞く。彼女がそうなるのも当然の事で、今は戦争中で砂糖のような甘い物はなかなか手に入らないのだ。
だが、シェーンベルク家は代々贔屓にしている得意先があるらしく、他の家庭よりも融通を利かせてくれているとの事。孤児院にいた頃に比べたら待遇の良さに差がありすぎて、申し訳なくなるくらいだ。
「働いてくれてるんだから、これくらい当然よ。それに皆で飲んだお茶の方が美味しいわ!」
「は……はい! 有り難く頂戴します!」
アリーは幸せそうに頬をピンク色に染めながら、急いでソファに腰掛けた。そして、まだ湯気がたっている紅茶を嬉しそうに眺めながらカップに手を伸ばしたのを見て、私はとても嬉しくなる。
(ベスとアリーはタイプが違うけど、とっても良い子達だわ。こうして安心して生活できてるのも、全てリヒトさんとウィルフリードさん達のお陰ね。あーん、早くリヒトさんとの赤ちゃんが欲しいなぁ……)
私は紅茶を飲みながらそんな事を考えていると、ドロテーアがクスクスと笑い始めた。
「……ねぇ、シャリファ? 今、旦那様の事を考えていたでしょう?」
「ブフッ……な、なんで分かったの!?」
紅茶を吹き出しかけた私を見て、ドロテーアはニヤリと笑う。
「ふふふっ♡ シャリファは旦那様の事を考えてる時、とっても幸せそうな顔をするんだもの♡」
「ほ、本当? なんだか恥ずかしい……」
私はなんだか照れ臭くなって自分の頬をむいーっと引っ張ってみる。すると、いつも以上に頬が熱く感じたので、想像以上にリヒトさんの事を好きになってしまってるなぁ……と自覚する事となってしまった。
(あぅぅ……ベルタさんみたいにポーカーフェイスを保ちたいんだけど、私には難しいのかしら? リヒトさんも私の心を見透かすかのような発言ばかりしてくるのよね……あーん、恥ずかしいっ!!)
私は切り替えるようにペチッと頬を叩いた。
ベスは首を傾げながら「シャリファはあの野蛮――じゃなかった。あの人のどこが良いの?」と、ドロテーアの鋭い視線を気にしながら聞いてきた。
私は悩む素振りをしながら、「そうね……今はリヒトさんの事がとっても好きだけど、最初の印象は最悪だったのよ?」と切り出すと、ベスとアリーは驚いたように目を見開いた。
「え、嘘!? どんな事があったの!?」
「ベス、行儀が悪いわよ。ちゃんと座りなさい」
「ドロテーア、今日くらい許し……はい、ちゃんと座ります。シャリファ、早く続きを聞かせて下さい」
笑顔で怒りを滲ませるドロテーアを見て、ようやくベスは椅子に深く座り直して背筋を正す。まるで本当の姉妹のようなやり取りに見え、私とアリーは顔を見合わせてクスクスと笑ってしまった。
「話の続きだけど、私は見た目はアストライア人じゃない? だから、最初はあからさまに距離を置かれてたの。でも、私はリヒトさんの子供を産む為に来たようなものだし、このままだと穀潰しになると思ったから、彼がお仕事に行く時は毎朝欠かさずお見送りをするようにしてたのよね」
この国の制度にベスは嫌悪感を抱いたのか、少し眉を顰めながら私の話を聞いていたが、アリーは「それから、どうなったんですか?」と続きを促してきた。
「この屋敷に来てから二週間くらい経った頃かしら……いつも通り私が声をかけたら、いつも仏頂面のリヒトさんが何を思ったのか、暫くその場に立ち止まって私の方へ振り返ったの。何を言われるんだろうって待ち構えてたら、私の頭に手を乗せた後に『……行ってくる』って声をかけてくれるようになったのよね。その時のリヒトさんの恥ずかしそうな表情が忘れられなくって。意識し始めたのはそれからかなぁ……最初の印象が最悪だったから、自然と彼の良い所に目がいくようになったわ」
私は苦笑いしながらティーカップを持ち上げる。すると、アリーが少し不思議そうな顔をしながら、「あ、あの……気を悪くしないでほしいのですが」と前置きをして話を切り出した。
「ご主人様は何の心境の変化があったんでしょうか? 前線で活躍されているのなら、アストライア人が敵に見えてもおかしくないのに……」
確かにと同意するかのように、ベスもお茶菓子をボリボリと食べながら頷いていた。私は「えっとね……」と戸惑いながらポツリポツリと話し始めた。
「リ……リヒトさんは私だから好きだって言ってくれたの……」
なんだか気恥ずかしくなって声がどんどん小さくなっていったが、その場にいた三人にはちゃんと聞こえていたようで、ベスを除く二人から「キャーッ♡」という黄色い声があがった。
中でもドロテーアは込み上げるものがあったのか、少し目を潤ませながら何度も瞬きを繰り返していた。
「あぁ……ご主人様はようやく人並みの幸せを手に入れたんですね。定期報告をしに本邸へ帰る度、ウィルフリード様もベルタ様も喜ばれてますよ」
そう言って、ドロテーアは目元をハンカチで拭っていた。
(そういえば、彼女はシェーンベルク家に勤めて長い筈――もしかしたら、正妻さんについて何か分かるかもしれない)
彼女はまだ若い。だが、アドルフ家は代々シェーンベルク家を支えている家系の一つで、彼女も幼い頃からリヒトさんの事も知っていたようだ。
(あれからリヒトさんのお仕事が忙しかったり、ベスの監視に重きをおいたりして結局、聞きそびれていたのよね。でも……そろそろ聞いてもいいよね?)
緊張して手汗がじんわりと滲んできた。私は膝の上で拳をギュッと握りしめてから、ずっと聞きたかった事を口にし始めた。
「……ねぇ、ドロテーア。リヒトさんの正妻さんってどんな人なの?」
この屋敷内の内情をよく知らないベスとアリーは飲んでいた紅茶を噴き出しそうになっていた。和やかだった部屋の空気が一転し、二人は気まずそうな表情に変わっている。
二人に対して申し訳ない気持ちになってしまったが、事情を説明している心の余裕はなかった。
「ベルタさんは名目上、リヒトさんの子供を産む為に私を引き取ったって言ってたわ。けど、実際は正妻さんと別れさせる為なんでしょう? そ、その……リヒトさんはいつ正妻さんと別れるのかしら?」
こうして実際に口にしてみると胸が抉られるような痛みを感じた。ベルタさん達の後押しがあったとはいえ、既婚者の人を好きになってしまった。その事実は変わらない。やはり、正妻さんの良い噂を聞かないとしても罪悪感は拭えないのだ。
ベスとアリーは不安そうな表情で黙り込んだまま、私とドロテーアを交互に見ていた。私もだんだん怖くなって、ドロテーアの顔が見れずに視線を落としてしまう。
(離婚の話が出ないのはやっぱり別れられないからなのかな。親同士で決めたって言ってたから、そう簡単にはいかないよね……)
私は膝の上に置いた握り拳を更にギュッとキツく握りしめると、何も着けていない薬指に自然と視線がいった。いつかリヒトさんとのお揃いの結婚指輪を着ける事を夢見ていたが、一生叶わないのではないのか――そんな事を考え始めていたのだ。
ドロテーアは暫く押し黙った後、「……そうよね。シャリファは不安しか感じないわよね」と口にし始めた。
「私から言えるのは一つだけ。水面下で事は進められてるわ。その為にご主人様を始め、ベルタ様もウィルフリード様も動いてるもの。もう少し時間はかかるみたいだけど、ご主人様の事を信じて待ってて」
「……そっか。ありがとう、ドロテーア」
ドロテーアはにっこりと微笑んでくれたものの、私は心から喜んで良いものか迷った。けれど、ドロテーアの言葉に少しホッとしたのは事実。だから、彼女の言う通り、リヒトさんの事を信じて待ってみよう――そう思ったのだ。
ドロテーアは場の空気を変える為にパンッ! と軽く手を叩いた。
「さぁ、今日のお茶会はこれでお開きにしましょ! こーら、ベス? リスみたいにクッキーを頬に詰め込まないの!」
「ら……らって、もっふぁいない……」
「だとしても、頬に食べ物を詰め込むなんてレディがする事じゃないわ! ほら、早く持ち場に戻るわよ! アリーも私についてきなさい!」
「か、かしこまりました! あのっ! 美味しいお茶をありがとうございました!」
ペコリと頭を下げるアリーを見て「またね!」と声をかけて手を振る。だが、彼女はピタッと立ち止まり、ドロテーアと合流する直前で私の元に戻ってきた。
「きっと、大丈夫ですよ。だって、ご主人様もシャリファといる時はとても嬉しそうですし……私は二人が離れ離れになる事を望んではいません」
「アリー、いきなりどうしたの?」
なんだか寂しそうな表情をしていたので、気になって声をかけるが、彼女はすぐに笑って首を左右に振った。
「なんでもないですよ。ただ、お二人みたいに住んでいる国が違えど、思い合う人が増えれば戦争なんて馬鹿らしい事はなくなるのになぁ……って思っただけなんです。あ、これはオフレコでお願いしますね? じゃないと、罰を受ける事になっちゃいますから」
元々小さな声が更に小さくなったので、なんだか孤児院にいた頃の私と似ているなと感じていた。あの頃は今よりも自由な発言は許されなくて、とても窮屈な思いをしてきた。きっと、彼女もこの無意味な戦争に思う所があるのだろう。
「わかってるわ。誰にも言わないから安心してね」
「ありがとうございます、シャリファ――……?」
「……? どうかした?」
「なんだか玄関の方が騒がしいと思いまして……」
アリーにそう言われて私は耳を澄ませてみた。確かに複数人の声がエントランスの方から聞こえてきている。中には聞いた事のない女性の声も含まれていたので、私は嫌な予感がした。
「私、確かめてくるわ」
「あ……シャリファ、待って! 行っちゃ駄目です!」
アリーの静止を聞かずに私はドアノブに手を掛けて扉を開いた。すると、甲高い女性の声がより鮮明に聞こえてくる。内容はよく分からないが、誰かと言い争うような会話だ。
「キャアッ!」
「――、――っ!?」
今の短い悲鳴はドロテーアのものだ。後に続いた大きな声はベスの声――私はこの屋敷で何かが起こっているに違いないと確信し、エントランスへ駆け出していた。
「ベス、この屋敷での生活は慣れた?」
私は客室で紅茶を注ぎながら向かい側のテーブルに座るベスに声をかけた。今日はリヒトさんがお仕事で屋敷にいないので、監視係としてドロテーアと新人使用人のアリーが同席している。
「……この服、裾が長くて動き辛い」
私の問い掛けにベスは唇を尖らせながら言う。彼女は一人掛けソファにもたれ掛かり、使用人が着用する裾の長いワンピースを指先で摘みながらブスッと不貞腐れていた。
その様子を見たドロテーアはまるで子供を嗜めるように「貴方の場合、手首と足首に枷が付いてるから尚更そう感じるのよ。旦那様の信用を得るまでは我慢しなさい」と言うと、ベスは母国語で「―――……」と呟き、がっくりと項垂れてしまった。
「ねぇ、ベス。今のなんて言ったの?」
「うーんとね……あぁ、いつになるんだろうって言ったの」
意味は大体そんな感じかなという表情をするので、私もベスの真似をしてアストライア語で呟いてみる。すると、ベスはパッと表情を輝かせながら「そうそう! この単語の発音はもう少しアクセントを強めで!」と丁寧に教えてくれるのだ。
(ベスも随分とこの国の言葉が上手になったわね。ドロテーアの指示に文句を言いながらも仕事をこなしてくれてるし、一部の使用人達を除いてベスを差別的な目で見る人達も少ないみたいだから安心したわ)
早いものでベスがこの屋敷に来て一ヶ月が経過し、季節は梅雨に入った。この時期は髪がまとまらなくて困る事が多いが、何気にこの時期に咲くお花は好きだったりする。
この屋敷の中庭には背の高い広葉樹が何本か植えられているが、花の種類は少ない印象だった。広い中庭に花が数種類だけではあまりにも殺風景なので、今度リヒトさんにお願いしてガーデニングを始めようと考えているのだ。
(ガーデニングを始めたら外の空気も吸えるし、きっと良い気分転換になるわ。今回は生理が来ちゃったけど、くよくよせずに次も頑張ってみよう。リヒトさんもまだ二人の時間を過ごせるって喜んでくれてるし、重く考えないでおこうっと!)
私は紅茶が入ったティーカップを皆に配りながら、今度はこの一ヶ月で起こった事を頭の中で整理し始めた。
一つ目はこの屋敷で働く使用人達の事だ。この一ヶ月で使用人の顔ぶれがガラッと変わった。二ヶ月前に起こった爆発事故の影響で田舎に帰るという使用人が十名ほど名乗り出たのだ。
これにはリヒトさんも良い機会だと思っていたようで、彼女達に退職金を手渡して感謝の言葉を伝えていた。
(確かにこの屋敷は広いし大きいけど、前々から人が多すぎるんじゃないかなーとは思ってたのよね。それに、正妻さんの息がかかった使用人達を優先的に辞めさせてたから、そういう思惑もありそうな気がするわ)
私はうんうんと頷きながら、リヒトさんの言動と行動を推測していた。
二つ目はドロテーアの兄・テオバルトさんがウィルフリードさんの屋敷に戻った事だ。向こうで産休をとる使用人がいるらしく、その穴埋めで一度本邸へ戻ったらしい。その代わりに入ったのが、ドロテーアの後ろに控えているアリーという若い使用人だった。
(アリーはたまに何もない所で転けたりするけど、とっても優しい子だわ。何より彼女が作ったハンカチの刺繍はプロが作ったかのような仕上がりなのよね!)
緊張で顔が強張っているアリーを見つめる。
彼女は私より少し背が高かった。大きな青い目に色白の肌、灰色の長い髪を頭の高い位置で結い上げた少しだけ幼さが残る印象の女の子だ。
「ドジな所もあるけど要領が良くて教えた仕事は正しく覚えるし、何より手先が器用な子だ」と、ドロテーアが珍しく褒めていたのを聞いて、私はすぐに彼女に声をかけた。
実はガーデニングの他にもリヒトさんが帰ってくる時間を利用して、一つでも何かできるようになりたいと考えていたのだ。
アリーは私の急な申し出にも関わらず「わ、私で良ければ……」と承諾してくれた。
彼女の仕事が落ち着いている時間を使って、シャツのボタンの留め方やクロスステッチのやり方を教わるのを繰り返しているうちにアリーとはすっかり仲良しになった。
「アリーはどう? やりにくい事はない?」
「は、はい! とても良くして頂いてます!」
まさか自分に話を振られるとは思っていなかったのか、アリーは目をパチパチと瞬きをしながら驚いた表情をしていたので、私はフフッと微笑みかけた。
「それは良かったわ。また、いろんな刺繍のやり方を教えてね」
そう声をかけてからティーカップに四角い白砂糖を一つと薄く輪切りにしたレモンを紅茶に浮かべ、空いているテーブルの上に置く。
「良かったら、アリーも座って? 皆でお茶を飲みましょう」
「……お砂糖の入った紅茶を頂いても宜しいのですか?」
アリーは私とドロテーアの顔色を伺うかのように恐る恐る聞く。彼女がそうなるのも当然の事で、今は戦争中で砂糖のような甘い物はなかなか手に入らないのだ。
だが、シェーンベルク家は代々贔屓にしている得意先があるらしく、他の家庭よりも融通を利かせてくれているとの事。孤児院にいた頃に比べたら待遇の良さに差がありすぎて、申し訳なくなるくらいだ。
「働いてくれてるんだから、これくらい当然よ。それに皆で飲んだお茶の方が美味しいわ!」
「は……はい! 有り難く頂戴します!」
アリーは幸せそうに頬をピンク色に染めながら、急いでソファに腰掛けた。そして、まだ湯気がたっている紅茶を嬉しそうに眺めながらカップに手を伸ばしたのを見て、私はとても嬉しくなる。
(ベスとアリーはタイプが違うけど、とっても良い子達だわ。こうして安心して生活できてるのも、全てリヒトさんとウィルフリードさん達のお陰ね。あーん、早くリヒトさんとの赤ちゃんが欲しいなぁ……)
私は紅茶を飲みながらそんな事を考えていると、ドロテーアがクスクスと笑い始めた。
「……ねぇ、シャリファ? 今、旦那様の事を考えていたでしょう?」
「ブフッ……な、なんで分かったの!?」
紅茶を吹き出しかけた私を見て、ドロテーアはニヤリと笑う。
「ふふふっ♡ シャリファは旦那様の事を考えてる時、とっても幸せそうな顔をするんだもの♡」
「ほ、本当? なんだか恥ずかしい……」
私はなんだか照れ臭くなって自分の頬をむいーっと引っ張ってみる。すると、いつも以上に頬が熱く感じたので、想像以上にリヒトさんの事を好きになってしまってるなぁ……と自覚する事となってしまった。
(あぅぅ……ベルタさんみたいにポーカーフェイスを保ちたいんだけど、私には難しいのかしら? リヒトさんも私の心を見透かすかのような発言ばかりしてくるのよね……あーん、恥ずかしいっ!!)
私は切り替えるようにペチッと頬を叩いた。
ベスは首を傾げながら「シャリファはあの野蛮――じゃなかった。あの人のどこが良いの?」と、ドロテーアの鋭い視線を気にしながら聞いてきた。
私は悩む素振りをしながら、「そうね……今はリヒトさんの事がとっても好きだけど、最初の印象は最悪だったのよ?」と切り出すと、ベスとアリーは驚いたように目を見開いた。
「え、嘘!? どんな事があったの!?」
「ベス、行儀が悪いわよ。ちゃんと座りなさい」
「ドロテーア、今日くらい許し……はい、ちゃんと座ります。シャリファ、早く続きを聞かせて下さい」
笑顔で怒りを滲ませるドロテーアを見て、ようやくベスは椅子に深く座り直して背筋を正す。まるで本当の姉妹のようなやり取りに見え、私とアリーは顔を見合わせてクスクスと笑ってしまった。
「話の続きだけど、私は見た目はアストライア人じゃない? だから、最初はあからさまに距離を置かれてたの。でも、私はリヒトさんの子供を産む為に来たようなものだし、このままだと穀潰しになると思ったから、彼がお仕事に行く時は毎朝欠かさずお見送りをするようにしてたのよね」
この国の制度にベスは嫌悪感を抱いたのか、少し眉を顰めながら私の話を聞いていたが、アリーは「それから、どうなったんですか?」と続きを促してきた。
「この屋敷に来てから二週間くらい経った頃かしら……いつも通り私が声をかけたら、いつも仏頂面のリヒトさんが何を思ったのか、暫くその場に立ち止まって私の方へ振り返ったの。何を言われるんだろうって待ち構えてたら、私の頭に手を乗せた後に『……行ってくる』って声をかけてくれるようになったのよね。その時のリヒトさんの恥ずかしそうな表情が忘れられなくって。意識し始めたのはそれからかなぁ……最初の印象が最悪だったから、自然と彼の良い所に目がいくようになったわ」
私は苦笑いしながらティーカップを持ち上げる。すると、アリーが少し不思議そうな顔をしながら、「あ、あの……気を悪くしないでほしいのですが」と前置きをして話を切り出した。
「ご主人様は何の心境の変化があったんでしょうか? 前線で活躍されているのなら、アストライア人が敵に見えてもおかしくないのに……」
確かにと同意するかのように、ベスもお茶菓子をボリボリと食べながら頷いていた。私は「えっとね……」と戸惑いながらポツリポツリと話し始めた。
「リ……リヒトさんは私だから好きだって言ってくれたの……」
なんだか気恥ずかしくなって声がどんどん小さくなっていったが、その場にいた三人にはちゃんと聞こえていたようで、ベスを除く二人から「キャーッ♡」という黄色い声があがった。
中でもドロテーアは込み上げるものがあったのか、少し目を潤ませながら何度も瞬きを繰り返していた。
「あぁ……ご主人様はようやく人並みの幸せを手に入れたんですね。定期報告をしに本邸へ帰る度、ウィルフリード様もベルタ様も喜ばれてますよ」
そう言って、ドロテーアは目元をハンカチで拭っていた。
(そういえば、彼女はシェーンベルク家に勤めて長い筈――もしかしたら、正妻さんについて何か分かるかもしれない)
彼女はまだ若い。だが、アドルフ家は代々シェーンベルク家を支えている家系の一つで、彼女も幼い頃からリヒトさんの事も知っていたようだ。
(あれからリヒトさんのお仕事が忙しかったり、ベスの監視に重きをおいたりして結局、聞きそびれていたのよね。でも……そろそろ聞いてもいいよね?)
緊張して手汗がじんわりと滲んできた。私は膝の上で拳をギュッと握りしめてから、ずっと聞きたかった事を口にし始めた。
「……ねぇ、ドロテーア。リヒトさんの正妻さんってどんな人なの?」
この屋敷内の内情をよく知らないベスとアリーは飲んでいた紅茶を噴き出しそうになっていた。和やかだった部屋の空気が一転し、二人は気まずそうな表情に変わっている。
二人に対して申し訳ない気持ちになってしまったが、事情を説明している心の余裕はなかった。
「ベルタさんは名目上、リヒトさんの子供を産む為に私を引き取ったって言ってたわ。けど、実際は正妻さんと別れさせる為なんでしょう? そ、その……リヒトさんはいつ正妻さんと別れるのかしら?」
こうして実際に口にしてみると胸が抉られるような痛みを感じた。ベルタさん達の後押しがあったとはいえ、既婚者の人を好きになってしまった。その事実は変わらない。やはり、正妻さんの良い噂を聞かないとしても罪悪感は拭えないのだ。
ベスとアリーは不安そうな表情で黙り込んだまま、私とドロテーアを交互に見ていた。私もだんだん怖くなって、ドロテーアの顔が見れずに視線を落としてしまう。
(離婚の話が出ないのはやっぱり別れられないからなのかな。親同士で決めたって言ってたから、そう簡単にはいかないよね……)
私は膝の上に置いた握り拳を更にギュッとキツく握りしめると、何も着けていない薬指に自然と視線がいった。いつかリヒトさんとのお揃いの結婚指輪を着ける事を夢見ていたが、一生叶わないのではないのか――そんな事を考え始めていたのだ。
ドロテーアは暫く押し黙った後、「……そうよね。シャリファは不安しか感じないわよね」と口にし始めた。
「私から言えるのは一つだけ。水面下で事は進められてるわ。その為にご主人様を始め、ベルタ様もウィルフリード様も動いてるもの。もう少し時間はかかるみたいだけど、ご主人様の事を信じて待ってて」
「……そっか。ありがとう、ドロテーア」
ドロテーアはにっこりと微笑んでくれたものの、私は心から喜んで良いものか迷った。けれど、ドロテーアの言葉に少しホッとしたのは事実。だから、彼女の言う通り、リヒトさんの事を信じて待ってみよう――そう思ったのだ。
ドロテーアは場の空気を変える為にパンッ! と軽く手を叩いた。
「さぁ、今日のお茶会はこれでお開きにしましょ! こーら、ベス? リスみたいにクッキーを頬に詰め込まないの!」
「ら……らって、もっふぁいない……」
「だとしても、頬に食べ物を詰め込むなんてレディがする事じゃないわ! ほら、早く持ち場に戻るわよ! アリーも私についてきなさい!」
「か、かしこまりました! あのっ! 美味しいお茶をありがとうございました!」
ペコリと頭を下げるアリーを見て「またね!」と声をかけて手を振る。だが、彼女はピタッと立ち止まり、ドロテーアと合流する直前で私の元に戻ってきた。
「きっと、大丈夫ですよ。だって、ご主人様もシャリファといる時はとても嬉しそうですし……私は二人が離れ離れになる事を望んではいません」
「アリー、いきなりどうしたの?」
なんだか寂しそうな表情をしていたので、気になって声をかけるが、彼女はすぐに笑って首を左右に振った。
「なんでもないですよ。ただ、お二人みたいに住んでいる国が違えど、思い合う人が増えれば戦争なんて馬鹿らしい事はなくなるのになぁ……って思っただけなんです。あ、これはオフレコでお願いしますね? じゃないと、罰を受ける事になっちゃいますから」
元々小さな声が更に小さくなったので、なんだか孤児院にいた頃の私と似ているなと感じていた。あの頃は今よりも自由な発言は許されなくて、とても窮屈な思いをしてきた。きっと、彼女もこの無意味な戦争に思う所があるのだろう。
「わかってるわ。誰にも言わないから安心してね」
「ありがとうございます、シャリファ――……?」
「……? どうかした?」
「なんだか玄関の方が騒がしいと思いまして……」
アリーにそう言われて私は耳を澄ませてみた。確かに複数人の声がエントランスの方から聞こえてきている。中には聞いた事のない女性の声も含まれていたので、私は嫌な予感がした。
「私、確かめてくるわ」
「あ……シャリファ、待って! 行っちゃ駄目です!」
アリーの静止を聞かずに私はドアノブに手を掛けて扉を開いた。すると、甲高い女性の声がより鮮明に聞こえてくる。内容はよく分からないが、誰かと言い争うような会話だ。
「キャアッ!」
「――、――っ!?」
今の短い悲鳴はドロテーアのものだ。後に続いた大きな声はベスの声――私はこの屋敷で何かが起こっているに違いないと確信し、エントランスへ駆け出していた。
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そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
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