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◇008/離別を告げる者

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  シュタール氏が去ったあと、定時までに仕事を終わらせるべく必死に書類と向き合った。明日に回せるものは遠慮なく回し、必要に応じて隊員に処理を任せる。とにかく今日は早く帰りたい。 
  処理すべき物は全て処理をして迎えた定時。もう私服に着替える時間も惜しく、通常軍服の上着だけを脱ぎ事務室を出る事にした。

「皆、今日はありがとう。皆ももう上がって下さい」

  自分を気遣ってくれた事、定時で帰る為に事務処理を手伝って貰った事。彼等にはいつも助けられている。お礼を告げると早足で事務所をあとにする。

「リアンさーん!」

  早足で廊下を階段に向かって進んでいると、後ろから声を掛けられた。声の主はアオイ。自分のバッグを雑に抱え、アオイも通常軍服を着たまま僕を追い掛けて来た。

「僕も連れて行って下さい。アイゼンさんの所でしょう?」

  駄目だと行っても付いて来そうな雰囲気に、とても断れなかった。

「ただ、アイゼンが居るかどうかはわからないよ?会えるかもしれないし、会えないかもしれない。それでも来る?」
「行きます」

アオイは思っているよりも頑固だ。やると決めたらちゃんとやる。何を言っても、今日は僕に付いて来るのだろう。

「アオイ、行くよ」

  中央管轄区司令部から歩いて20分。そこにアイゼンが住んでいるマンションがある。エントランスに入る為にはまず出入り口のオートロックを抜けなくてはならない。
  シュタール氏が僕に寄越したキーケースを開け、ICチップが入ったキーホルダーをリーダーにかざす。ピッ…と読み込む音が響き、僕達はエントランスへと踏み込む事を許された
  エレベーターに乗り込み、アイゼンの部屋がある階へと上がる。アイゼンの部屋のロックはキーを使い解錠した。
  ドアを開けるとそこは当然の様に暗い。手探りで照明のスイッチを探し灯そうとするが、何度スイッチに触れても明るくならない。携帯のライトで照らしながら進み、配電盤を見てみればブレーカーが落とされていた。手を伸ばしブレーカーを戻すと廊下の照明が灯った。

  廊下のすぐ横にある洗面所に置かれた洗濯機には洗濯物は何ひとつ入っていない。風呂のドアも解放されて湿気もない。 キッチンのシンクも綺麗に掃除されているし、冷蔵庫の中身は片付けられて電源をプラグも抜かれていた。 寝室のベッドの隅には畳まれた布団が積まれている。衣類も整理され片付けられていた。だがそこに軍服一式は見当たらなかった。 冷蔵庫に限らず、電源プラグは全て抜かれている。

  まるで数日前から自分が居なくなる事を知っていて、自宅を片付けてから行ったかの様だった。もしかしたら『東方管轄区管理課』と名乗った菫と接触した時には、もうアイゼンはこうなる事を予測していたのかもしれない。

  テレビの前に置かれたローテーブルの上にあるのはいつも通りのリモコンスタンド。中にはリモコンの他に煙草が1つ。以前ここで見た時には未開封だったその煙草だが、今は開封されて1本だけなくなっていた。

──匂いなんて何にもしないのに。吸ったんだな。

「リアンさん、アイゼンさんは居なくなったのにどうしてこんなにも私物を残してあるのでしょうね」

  アオイのその言葉に、申し訳ないと思いつつアイゼンのクローゼットを開けた。今は10月、これから寒くなる。クローゼットに夏物は残されているのに、冬物をいくらか持って行った感はある。 もし帰って来るつもりがないのなら、ここは完全に引き払ってしまうのではないのか?この部屋の様子はまるで、長期出張に出る感じじゃないか。だったら何故、僕にキーケースを預けた?

「…いつかここへ帰って来るつもりなんだ…」

  いつになるかはわからないが、いつかここへ帰って来たいからこの部屋を残した。必要な物だけを持って、アイゼンはシュタール氏の下へと赴いた。僕にキーケースを預けたのは、僕ならアイゼンの帰る場所を維持する為に、時々空気の入れ換えくらいしてくれるだろうと考えているからだろう。全く、きっとこれはアイゼンの思い通りなのだろう。

「アオイ、食事して帰ろうか。付き合って貰いたいのだが時間は大丈夫かい?」
「はい、お付き合いします」

  クローゼットを閉める。全ての照明を消し、最後にブレーカーを落としアイゼンの部屋から出る。戸締まりもきちんとして、キーケースをバッグのインナーポケットに仕舞う。なくしたくないから、ファスナーで閉じられる場所へ仕舞った。

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  いつもの居酒屋、今日は半個室。僕の向かいにアイゼンの代わりにアオイが居る。テーブルには切り子のグラスに入れられた濁り酒が2つと烏龍茶が1つ。あとはシーザーサラダと刺身の盛り合わせ。

「生きている事に乾杯」
「生きている事に乾杯」

  そう呟くと切り子のグラス1つをアオイの烏龍茶と重ねる。アオイもそれに応えてくれる。 置かれたままのもう1つの濁り酒にも自分のグラスを重ねる。

「生きてまた会えると言う希望に乾杯」

  シュタール氏が持って来た書類は僕にとって『離別を告げる者』だ。だが、シュタール氏が預かって来たキーケースは僕にとって『再会を期待させる者』だ。絶望ではないし、喪失感ももうない。あとはひたすら帰って来るのを待つのみだ。

「アオイ、明日からまた忙しくなりそうだ。アイゼンが抜けた分、皆には多少の負荷が掛かると思う。僕も精一杯頑張るから…また僕に付いて来てくれるか?」
「何を言っているんですか?当たり前じゃないですか。僕だって6隊の人間です。アイゼンさんが帰って来るつもりなら、僕も頑張っていつまでも居続けなきゃ駄目だと思っています。でもリアンさん、無理は駄目ですよ?」

  第6小隊はある種の特殊部隊。アイゼンが異動した東方管轄区管理課も多分特殊部隊。いずれ仕事で一緒になるかもしれない。その時にがっかりさせてはいけない。いつでもアイゼンが戻って来られる様に、今を維持していかなくてはならない。 明日やるべき事はまず隊員にアイゼンの件を説明する。その上で、いつも通り仕事をする。

  誰にでも平等に出会いがある。そして出会いがあれば別れもある。別れがあればまた出会いがある。アイゼンとは離別をしたが、アイゼンに帰還の意志がある以上、再会を期待する。いつか訪れるその日の為に、僕はもう少し頑張ろうと思う。

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2020/02/27/008
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