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第一章
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「ご苦労様でございました」
小奇麗な座敷。そこに座る恰幅の良い男が頭を軽く下げる。軽く下げた先にいるのは総髪を撫で付けた着流しの男……春夜夢人であった。
「無事仕事を終えてくださったようで」
「私は何も言っておらぬが」
「言わずともわかります」
「耳が早いな」
「それが商いの秘訣でございます」
「口入屋もそれなりの苦労があるということか」
「苦労は銭の種でございますよ」
口入屋は笑いながら包みを取り出す。
「これが約束の後金でございます」
「うむ。すまんな」
「いえいえ、春夜様のご苦労の代金でございますよ」
「私はたいした苦労はしておらぬがな」
「それに見合った仕事はしてございます」
「そうか、ならば遠慮なくもらっておこう」
夢人は包みに手を伸ばす。ずしりと重い。二十両と言ったところか。
六人を斬った報酬としては高いのか安いのか。しかし夢人にとってはどうでも良い事だった。二十両あればしばらくは楽をして暮らせるというものである。
夢人が包みを懐に仕舞うと同時に、女中が茶を持ってきた。茶台に乗せられた茶碗が夢人の目の前に置かれる。
「お茶でも飲んでゆっくりしてください」
「頂こう」
茶碗のふたを開けると清々しくも甘い茶の香りが立つ。
「相変わらず良い茶を使っているな」
「お喜びいただければ」
夢人は茶碗を持つと一口すする。舌先が痺れるほどに濃い。濃い茶は夢人の好みだった。
「そういえば」
「なんでございましょう」
「今回の仕事はどこぞの藩の依頼か」
「なぜでございます」
「うむ、相手が江戸家老と口にしたものでな」
「さぁて」
口入屋の主人も茶に手を伸ばす。一口すするとゆっくりと息をついた。
「私たちは存じませぬ。春夜様も気になさらない。そうでございますよね」
笑みを浮かべる主人。その笑みに夢人も笑みで答えた。
「うむ。無粋な問いであったな。いやすまぬ。忘れてくれ」
「はて、何を忘れればよろしいのでしょう」
「ふふふふ」
「ほほほほ」
ふたりはひとしきり笑う。笑いながら夢人は茶をもう一口すすると茶台に置いた。
「美味い茶であった、さて」
「春夜様、もっと仕事をする気はありませんか」
立ち上がろうとする夢人を主人が留める。
「仕事か」
「春夜様ほどの腕ならば用心棒の口がいくらでもありますが」
「用心棒な」
夢人は顎に手を当ててしばし考える風な顔をする。
「いや、やめておく。用心棒ともなれば自由に動けなくなるからな。私の様な怠け者にはちと荷が重い。その場限りの仕事の方が気が楽で良い」
「さようですか」
主人は残念そうに言葉を切った。
「ではな。その場限りの仕事があれば、また声をかけてくれ」
「承知いたしました」
頭を下げる主人を後に、夢人は大小を携えると、座敷を後にした。
夢人は当てもなく歩く。浪人に当てなどない。ただ今は懐が重い分足取りは軽い。金があるというのはなんにせよ良い事だ。気が大きくなる。少しぐらいでは動じなくなる。余裕が生まれる。余裕があると、ただ歩いているだけでも楽しいというものだ。
歩けば腹が空くが飯を食う金はある。金が無ければただ歩くことも出来ないのだ。
ふらふらと歩いているうちに隅田川沿いに出た。その川沿いを歩く。川沿いは風が吹いて心地よかった。
その心地よい風に、声が乗せられてくる。女の声、男の声。
道の先で女が一人、浪人者に絡まれているのが見えた。大して珍しくもない風景。こんな所を女一人で歩いていれば尚更な事だ。
しかし今、夢人は気分が良かった。気持ちにゆとりがある。ゆとりがあるが故に余計な事にも首を突っ込んでみたくなる。
もっとも夢人の場合、余計なことに首を突っ込むのは性分のようなものなのだが。
「待て待て」
「何だ貴様は」
「貴様らと同じ素浪人よ」
「貴様などのに用はない。失せろ」
「お武家さま」
絡まれていた女がすり抜ける様に夢人に駆け寄る。
「お助けくださいまし」
「こらまて」
女を捕まえようとする浪人たち。しかしその間に夢人が割って入る。
「貴様には関係なかろう」
「邪魔立てするな」
女を囲んでいた浪人が四人、夢人に対峙する。浪人にしてはいずれも身なりは悪くない。身なりが悪くないということは金があるということだ。
金がある浪人は、悪人である。
浪人が善人では金を稼ぐことなど到底できない。金が無いので身なりも良いはずが無く、そして飢えて死んでいく。
残るのは悪人の浪人ばかり。
相手も、そして夢人も。
「助けを求められては最早無関係とも言えぬな」
嘯く夢人。
「貴様痛い目を見たいのか」
浪人は身構えると柄に手をかける。
「とにかく邪魔をするな。我らはその女に用があるだけなのだ」
「攫って手籠めにでもするつもりか」
「貴様には関係ないと言っておろうが」
「そうもいくまいよ」
夢人は無造作に一歩前に出る。浪人が身構える。
「金で雇われたか」
「貴様には関係ない」
「十両か二十両か」
「関係ない」
「その様子だともっと安いな。二、三両と言ったところか。安い腕と言うことだな」
「貴様」
一斉に刀が抜かれる。女の悲鳴が小さく風に乗る。
「やっと抜いたか」
夢人は柄に手をかける。しかしそのまま動かない。
「貴様も抜け」
「気にせずとも良い」
「抜けと言っておろうが」
「私が抜くに値する相手かどうか、見てやろうというのだ。かかってきてはどうだ」
「馬鹿にしおって」
三人が一斉に斬りかかる。しかし風になびく柳のように、夢人はまるで身体を揺らすように、のらりくらりと躱す。それでいてその身は女と浪人たちの間から寸分もずれない。
「もうよせよせ」
夢人が笑う。
「お主たちでは話にならん」
「なんだと」
殺気立つ浪人。怯える女。何食わぬ顔の夢人。
「一両でどうだ」
「なに」
「私は今気分が良いし懐も余裕がある。一両で手を引け。労せずしてひとり一分になるぞ。どうだ」
「馬鹿にしおって」
「四両だ」
怒鳴る浪人の声をかき消す様に、さらに大きな声が張り上げられる。
それは四人の浪人の中で一人だけ、一歩下がって構えていた男。
「一人一両もらう」
「それは欲張り過ぎだ。二両、それ以上なら斬り合うほかあるまいよ」
「わかった二両だ」
男は刀を納めると、他の三人に目配せをする。三人は戸惑いながらも刀を納めた。
男は三人を尻目に無造作に夢人に近づくと手を出した。
「よこせ」
「妙なやつだ」
これには夢人が苦笑した。夢人の手はまだ柄にかかっているのだ。
「いきなり斬りつけられるとは考えなかったのか」
「考えた。が、斬られぬ自信はあった」
「なるほど」
それは夢人が斬りつけてこないと信じたということか、それとも斬りつけられても対処できたということなのか。
夢人は懐から財布を取り出すと、そこから二両出す。それを男に渡す。男はそれを受け取る。
「確かにもらった」
「うむ」
男はそのまま踵を返すと、夢人に背を向けて歩き出す。無防備この上ないが、夢人の方も斬るつもりはない。その背中に浪人が三人、慌てたようについていく。
「妙なやつだ」
「ありがとうございます」
振り返るとそこには頭を下げる女の姿。
「難儀であったな」
「いえ、お蔭様で助かりました」
「なに、たいしたことはしておらぬ」
「でも二両もの大金を」
「なに、言った通り今は懐に余裕があるのでな。それよりもなぜにあのような輩に絡まれた。まぁそなたほどの器量であれば絡まれることもあるか」
見ればなるほど色香のある美人である。少し気の強そうな目元と伸びた背筋がその色香を引き立てている。
「いきなり帳面を出せと」
「帳面。心当たりはおありか」
「……今思えば」
「ほう」
面白そうだ。
夢人の勘がそう告げていた。
「どうやら行きずりで絡まれたというわけではなさそうだ。また狙われるやもしれん」
「どうすればよろしいのでしょう」
不安げに女は夢人を見上げる。気の強そうな女の不安げな顔と言うのも、なかなかにそそられるものがある。
「これも何かの縁。用心のためにまずは家までお送り致そう」
女の顔が明るくなる。現金なものだ、とも思うが打算があるのは夢人も同じことだ。
「それでもしよければ、その帳面とやらを私に見せていただけるかな」
「よろしゅうございますとも」
「では参ろうか」
そういうと夢人は女を伴って歩き出した。
女の家は浅草にあった。路地裏の奥まったところに建つ、小さいが構えの良い一軒家である。
「私しか住んでおりませんから、遠慮なくお上がりください」
「そうか、では遠慮なく」
夢人は三和土から座敷に上がる。座敷もさっぱりとした粋な作りだった。
「改めまして、ありがとうございます」
女は座敷に上がると手をついて頭を下げる。
「私は妙と申します」
「お妙さんと言うのか。私は春夜夢人と名乗っている」
「春夜様ですか」
「夢人で良い」
「では夢人様。本当に危ない所をお助けいただきまして」
「いやなに、私がその場に居合わせた、お妙さんが強運だったのだ」
「どのようにお礼をしてよいやら」
「礼などよい。しかしそうだな、どうしてもというなら酒の一本でもつけていただこうか」
「そんなことなら喜んで。ちょっと買ってきますから、横にでもなってくつろいでいてください」
「すまんな」
出ていくお妙を見送ると夢人は畳の上に横になる。初めて通された家で、些か不躾なのは承知しているが、いまさら体面を気にするような身分でもない。
畳みは良く干してあり心地が良かった。こうして小奇麗な部屋で横になれるだけでも得をした気分だ。
「あら」
帰ってきたお妙は夢人が横になっているのを見て笑みを浮かべる。
「遠慮なくくつろがせてもらっている」
「それはようございました」
「うむ」
「酒の方も良いのがありました。冷でも飲めそうです。それと古漬けをいただいてきました」
「それはありがたい」
夢人は無造作に起き上がる。膳の上に銚子と茄子の漬物が載せられていた。
「おひとつ」
「いただこう」
夢人は渡された猪口に酌を受ける。一息で呑むとよく冷えた酒が喉をすっと落ちていき、胃の腑で熱くなる。
「いい酒だ。お妙さんもどうだ」
「それじゃいただきます」
渡された猪口で酒を受けるお妙。お妙も一口で飲み干す。
「見事な飲みっぷり」
さらに酌を受ける夢人。茄子の古漬けにも手を伸ばす。少し塩気が強いが酒のあてには丁度よかった。
「しかしお妙さんは良い所に住んでおるな」
「私、元は大店の旦那の囲われものだったんですよ。この家もその時の妾宅で」
「ほぅ」
まぁそうであろうとは踏んでいた。普通ではこんな家に女で一人暮らしなどできるはずもない。
「その旦那が亡くなって、その時にこの妾宅を残してくださったんです」
「ほぅ」
「おかげで今は芸事を教えて暮らしを立てております」
「お妙さんは芸事の師匠であったか」
夢人は再びお妙に猪口を渡す。お妙は受け取ると注がれた酒を飲む。
しばらくそうやって酒を飲む。飲んでいるうちに何か忘れているような気がしてきた。
さて、なんであったか。
「そうか帳面か」
「え」
突如膝を叩く夢人に目を丸くするお妙。
「いきなりどうしたんです」
「いやすまぬ。しかしいきなりと言うわけではない。どちらかといえば本来の目的を思い出したというべきかな」
「なにかございましたか」
お妙が首を傾げる。
「このような仕儀になった大元をな」
「……ああ、帳面」
お妙も膝を打つ。
「夢人様がいてくれるおかげで、すっかり安心して忘れていましたよ」
「早速だが見せてもらえるかな」
「お待ちください」
お妙は立ち上がると隣の部屋に入る。そしてその手に紺色の包みをもって戻ってきた。
「心当たりがあるとすればこれぐらいしか」
「これは」
「……うちに出入りしていた若いお武家さまから預かったものです」
出入りしていたというからには師匠と弟子の間柄だったのだろうか。それでもこのようなものを預けるからにはもっと深い仲、男と女の関係にあったのかもしれない。
「そのようなものを見ても良いのかな」
「かまいませんよ」
お妙はどこか素っ気ない。
「それを預けたっきり、疎遠になりましてね」
なるほど、拗ねているのだ。
「久しぶりに文が届いて、昨晩大事な話があるから空けておいてくれって書いてあったんで、待ってたんですが一向に来やしないんですよ」
「はははは、惚気かな」
「あらやだ、本当ですね。酔ったのかしら」
「それでは遠慮なく拝見しようか」
「どうぞ」
夢人は包みを開ける。中にあったのは予想通り帳面だった。表題も何もない。中をめくってみる。
中は所狭しと書きつけられていた。覚書の様にも見える。内容は誰某と会ったとか、金子がどうとか色々だ。何かを調べて、それを書きつけたようなものに見えた。
「どうです」
「良くは解らんが、おそらくこれが目当ての帳面であろうな」
「やっぱりそうですか」
お妙は顔を顰める。眉間に皺を寄せた顔もなかなかに艶っぽい。
「どうしたらいいのか」
「その若い武家とやらに返せば良いではないか」
「こう言ってはなんですが、名前以外知らないんですよ。質の悪い中間に絡まれているところを助けていただいて、それが縁で」
「お妙さんは良く絡まれるな」
「笑い事じゃございませんよ」
「その度に助けが入るのだから良いではないか」
「運が良いのやら悪いのやら」
溜息をつくお妙。夢人は笑いながら猪口を渡すと酒を注ぐ。一気に飲み干すお妙。上気した顔が、一層艶めかしい。
「本当に……秀さんもとんだ置き土産を残してくれたものですよ」
秀何某というのがその若い武家の名なのだろう。
「いっそ燃やしてしまおうかしら」
「思い切ったことを言うな」
夢人は笑う。
「しかし燃やしたところで、持っていないというのを信じてもらえるとは限らんぞ。それならばいっそ渡してしまった方が良い」
「やっぱりそうなんですかねぇ」
潤んだ目で夢人の手にある帳面を見るお妙。
「でも、はいそうですかと渡すって言うのも不義理が過ぎるし、なにより癪じゃありませんか」
「癪か」
「癪ですよ」
「では私に預けるというのはどうかな」
「夢人様に」
お妙は顔を傾け夢人を見る。
「夢人様に預けて、どうするんです」
「まぁ任せてもらえるかな」
「なにか妙な事を考えてやしませんか」
「さてどうかな」
猪口を受け取る夢人。お妙は酌をしようとするが、銚子の中は既に空になっていた。
「あら。ちょいと足してきますね」
立ち上がろうとするお妙の腕を夢人が捕まえる。夢人はその腕を引く。引かれるままにお妙は夢人の脇に崩れる。
「ふざけるのはよしてくださいよ」
「ふざけてなどおらん」
さらに夢人の手に力が入る。お妙の身体は夢人に引き寄せられる。お妙の身体が夢人の身体にしなだれかかる。
夢人の手がお妙の胸元から差し込まれる。
「あ」
お妙の乳房の感触が夢人の掌を包み込む。熟れた柔らかさが心地よい。
「よい心地だ」
柔らかく滑らかな乳房に手を這わせながら、その先端を探る。探り当てた乳首を指先で弄ぶ。
「ああ」
お妙の声が熱い。酔っているためだけでないのは明白である。
「意外と毛深いな」
「ちょっとどこに手を、あぁ」
艶めかしく身を捩るお妙。
夢人は小さく口元をゆがめた。
「さて、本当に嫌ならこれでやめるが、どうかな」
手を差し入れたまま、夢人は耳元でささやく。
お妙の声は無い。ただ潤んだ目が夢人を見上げるばかり。
「嫌かな」
もう一度夢人が問う。お妙の方は顔を下げると夢人の太腿に爪を立てた。
「いたた」
「嫌な人ですよ、本当に」
お妙はもう一度夢人を見上げる。潤んだ目がきっと夢人を睨みつける。
「ここまでしておいて嫌かなんて、聞きませんよ普通」
「無理矢理と言うのも性に合わぬのでな」
「ここまでしておいて」
「どうかな」
「ちょ……ああ」
お妙の口から熱いものが漏れる。その熱気にうなされる様な喘ぎ。
「どうかな」
「どうかな、じゃありませんよ」
お妙の爪がさらに強く夢人の太腿に食い込む。
「いたたたた」
「ちょいと放してくださいな」
お妙は夢人の手を跳ね除けると素早く立ち上がった。
立ち上がると夢人を見下ろす。それを見上げる夢人。
見下ろして睨んでいたお妙の口から息が漏れる。熱く柔らかな吐息。
「隣に夜具を用意しますので、続きはそちらで」
「うむ」
夢人はお妙の後姿を眺めながら、漬物を一つ口に運んだ。
小奇麗な座敷。そこに座る恰幅の良い男が頭を軽く下げる。軽く下げた先にいるのは総髪を撫で付けた着流しの男……春夜夢人であった。
「無事仕事を終えてくださったようで」
「私は何も言っておらぬが」
「言わずともわかります」
「耳が早いな」
「それが商いの秘訣でございます」
「口入屋もそれなりの苦労があるということか」
「苦労は銭の種でございますよ」
口入屋は笑いながら包みを取り出す。
「これが約束の後金でございます」
「うむ。すまんな」
「いえいえ、春夜様のご苦労の代金でございますよ」
「私はたいした苦労はしておらぬがな」
「それに見合った仕事はしてございます」
「そうか、ならば遠慮なくもらっておこう」
夢人は包みに手を伸ばす。ずしりと重い。二十両と言ったところか。
六人を斬った報酬としては高いのか安いのか。しかし夢人にとってはどうでも良い事だった。二十両あればしばらくは楽をして暮らせるというものである。
夢人が包みを懐に仕舞うと同時に、女中が茶を持ってきた。茶台に乗せられた茶碗が夢人の目の前に置かれる。
「お茶でも飲んでゆっくりしてください」
「頂こう」
茶碗のふたを開けると清々しくも甘い茶の香りが立つ。
「相変わらず良い茶を使っているな」
「お喜びいただければ」
夢人は茶碗を持つと一口すする。舌先が痺れるほどに濃い。濃い茶は夢人の好みだった。
「そういえば」
「なんでございましょう」
「今回の仕事はどこぞの藩の依頼か」
「なぜでございます」
「うむ、相手が江戸家老と口にしたものでな」
「さぁて」
口入屋の主人も茶に手を伸ばす。一口すするとゆっくりと息をついた。
「私たちは存じませぬ。春夜様も気になさらない。そうでございますよね」
笑みを浮かべる主人。その笑みに夢人も笑みで答えた。
「うむ。無粋な問いであったな。いやすまぬ。忘れてくれ」
「はて、何を忘れればよろしいのでしょう」
「ふふふふ」
「ほほほほ」
ふたりはひとしきり笑う。笑いながら夢人は茶をもう一口すすると茶台に置いた。
「美味い茶であった、さて」
「春夜様、もっと仕事をする気はありませんか」
立ち上がろうとする夢人を主人が留める。
「仕事か」
「春夜様ほどの腕ならば用心棒の口がいくらでもありますが」
「用心棒な」
夢人は顎に手を当ててしばし考える風な顔をする。
「いや、やめておく。用心棒ともなれば自由に動けなくなるからな。私の様な怠け者にはちと荷が重い。その場限りの仕事の方が気が楽で良い」
「さようですか」
主人は残念そうに言葉を切った。
「ではな。その場限りの仕事があれば、また声をかけてくれ」
「承知いたしました」
頭を下げる主人を後に、夢人は大小を携えると、座敷を後にした。
夢人は当てもなく歩く。浪人に当てなどない。ただ今は懐が重い分足取りは軽い。金があるというのはなんにせよ良い事だ。気が大きくなる。少しぐらいでは動じなくなる。余裕が生まれる。余裕があると、ただ歩いているだけでも楽しいというものだ。
歩けば腹が空くが飯を食う金はある。金が無ければただ歩くことも出来ないのだ。
ふらふらと歩いているうちに隅田川沿いに出た。その川沿いを歩く。川沿いは風が吹いて心地よかった。
その心地よい風に、声が乗せられてくる。女の声、男の声。
道の先で女が一人、浪人者に絡まれているのが見えた。大して珍しくもない風景。こんな所を女一人で歩いていれば尚更な事だ。
しかし今、夢人は気分が良かった。気持ちにゆとりがある。ゆとりがあるが故に余計な事にも首を突っ込んでみたくなる。
もっとも夢人の場合、余計なことに首を突っ込むのは性分のようなものなのだが。
「待て待て」
「何だ貴様は」
「貴様らと同じ素浪人よ」
「貴様などのに用はない。失せろ」
「お武家さま」
絡まれていた女がすり抜ける様に夢人に駆け寄る。
「お助けくださいまし」
「こらまて」
女を捕まえようとする浪人たち。しかしその間に夢人が割って入る。
「貴様には関係なかろう」
「邪魔立てするな」
女を囲んでいた浪人が四人、夢人に対峙する。浪人にしてはいずれも身なりは悪くない。身なりが悪くないということは金があるということだ。
金がある浪人は、悪人である。
浪人が善人では金を稼ぐことなど到底できない。金が無いので身なりも良いはずが無く、そして飢えて死んでいく。
残るのは悪人の浪人ばかり。
相手も、そして夢人も。
「助けを求められては最早無関係とも言えぬな」
嘯く夢人。
「貴様痛い目を見たいのか」
浪人は身構えると柄に手をかける。
「とにかく邪魔をするな。我らはその女に用があるだけなのだ」
「攫って手籠めにでもするつもりか」
「貴様には関係ないと言っておろうが」
「そうもいくまいよ」
夢人は無造作に一歩前に出る。浪人が身構える。
「金で雇われたか」
「貴様には関係ない」
「十両か二十両か」
「関係ない」
「その様子だともっと安いな。二、三両と言ったところか。安い腕と言うことだな」
「貴様」
一斉に刀が抜かれる。女の悲鳴が小さく風に乗る。
「やっと抜いたか」
夢人は柄に手をかける。しかしそのまま動かない。
「貴様も抜け」
「気にせずとも良い」
「抜けと言っておろうが」
「私が抜くに値する相手かどうか、見てやろうというのだ。かかってきてはどうだ」
「馬鹿にしおって」
三人が一斉に斬りかかる。しかし風になびく柳のように、夢人はまるで身体を揺らすように、のらりくらりと躱す。それでいてその身は女と浪人たちの間から寸分もずれない。
「もうよせよせ」
夢人が笑う。
「お主たちでは話にならん」
「なんだと」
殺気立つ浪人。怯える女。何食わぬ顔の夢人。
「一両でどうだ」
「なに」
「私は今気分が良いし懐も余裕がある。一両で手を引け。労せずしてひとり一分になるぞ。どうだ」
「馬鹿にしおって」
「四両だ」
怒鳴る浪人の声をかき消す様に、さらに大きな声が張り上げられる。
それは四人の浪人の中で一人だけ、一歩下がって構えていた男。
「一人一両もらう」
「それは欲張り過ぎだ。二両、それ以上なら斬り合うほかあるまいよ」
「わかった二両だ」
男は刀を納めると、他の三人に目配せをする。三人は戸惑いながらも刀を納めた。
男は三人を尻目に無造作に夢人に近づくと手を出した。
「よこせ」
「妙なやつだ」
これには夢人が苦笑した。夢人の手はまだ柄にかかっているのだ。
「いきなり斬りつけられるとは考えなかったのか」
「考えた。が、斬られぬ自信はあった」
「なるほど」
それは夢人が斬りつけてこないと信じたということか、それとも斬りつけられても対処できたということなのか。
夢人は懐から財布を取り出すと、そこから二両出す。それを男に渡す。男はそれを受け取る。
「確かにもらった」
「うむ」
男はそのまま踵を返すと、夢人に背を向けて歩き出す。無防備この上ないが、夢人の方も斬るつもりはない。その背中に浪人が三人、慌てたようについていく。
「妙なやつだ」
「ありがとうございます」
振り返るとそこには頭を下げる女の姿。
「難儀であったな」
「いえ、お蔭様で助かりました」
「なに、たいしたことはしておらぬ」
「でも二両もの大金を」
「なに、言った通り今は懐に余裕があるのでな。それよりもなぜにあのような輩に絡まれた。まぁそなたほどの器量であれば絡まれることもあるか」
見ればなるほど色香のある美人である。少し気の強そうな目元と伸びた背筋がその色香を引き立てている。
「いきなり帳面を出せと」
「帳面。心当たりはおありか」
「……今思えば」
「ほう」
面白そうだ。
夢人の勘がそう告げていた。
「どうやら行きずりで絡まれたというわけではなさそうだ。また狙われるやもしれん」
「どうすればよろしいのでしょう」
不安げに女は夢人を見上げる。気の強そうな女の不安げな顔と言うのも、なかなかにそそられるものがある。
「これも何かの縁。用心のためにまずは家までお送り致そう」
女の顔が明るくなる。現金なものだ、とも思うが打算があるのは夢人も同じことだ。
「それでもしよければ、その帳面とやらを私に見せていただけるかな」
「よろしゅうございますとも」
「では参ろうか」
そういうと夢人は女を伴って歩き出した。
女の家は浅草にあった。路地裏の奥まったところに建つ、小さいが構えの良い一軒家である。
「私しか住んでおりませんから、遠慮なくお上がりください」
「そうか、では遠慮なく」
夢人は三和土から座敷に上がる。座敷もさっぱりとした粋な作りだった。
「改めまして、ありがとうございます」
女は座敷に上がると手をついて頭を下げる。
「私は妙と申します」
「お妙さんと言うのか。私は春夜夢人と名乗っている」
「春夜様ですか」
「夢人で良い」
「では夢人様。本当に危ない所をお助けいただきまして」
「いやなに、私がその場に居合わせた、お妙さんが強運だったのだ」
「どのようにお礼をしてよいやら」
「礼などよい。しかしそうだな、どうしてもというなら酒の一本でもつけていただこうか」
「そんなことなら喜んで。ちょっと買ってきますから、横にでもなってくつろいでいてください」
「すまんな」
出ていくお妙を見送ると夢人は畳の上に横になる。初めて通された家で、些か不躾なのは承知しているが、いまさら体面を気にするような身分でもない。
畳みは良く干してあり心地が良かった。こうして小奇麗な部屋で横になれるだけでも得をした気分だ。
「あら」
帰ってきたお妙は夢人が横になっているのを見て笑みを浮かべる。
「遠慮なくくつろがせてもらっている」
「それはようございました」
「うむ」
「酒の方も良いのがありました。冷でも飲めそうです。それと古漬けをいただいてきました」
「それはありがたい」
夢人は無造作に起き上がる。膳の上に銚子と茄子の漬物が載せられていた。
「おひとつ」
「いただこう」
夢人は渡された猪口に酌を受ける。一息で呑むとよく冷えた酒が喉をすっと落ちていき、胃の腑で熱くなる。
「いい酒だ。お妙さんもどうだ」
「それじゃいただきます」
渡された猪口で酒を受けるお妙。お妙も一口で飲み干す。
「見事な飲みっぷり」
さらに酌を受ける夢人。茄子の古漬けにも手を伸ばす。少し塩気が強いが酒のあてには丁度よかった。
「しかしお妙さんは良い所に住んでおるな」
「私、元は大店の旦那の囲われものだったんですよ。この家もその時の妾宅で」
「ほぅ」
まぁそうであろうとは踏んでいた。普通ではこんな家に女で一人暮らしなどできるはずもない。
「その旦那が亡くなって、その時にこの妾宅を残してくださったんです」
「ほぅ」
「おかげで今は芸事を教えて暮らしを立てております」
「お妙さんは芸事の師匠であったか」
夢人は再びお妙に猪口を渡す。お妙は受け取ると注がれた酒を飲む。
しばらくそうやって酒を飲む。飲んでいるうちに何か忘れているような気がしてきた。
さて、なんであったか。
「そうか帳面か」
「え」
突如膝を叩く夢人に目を丸くするお妙。
「いきなりどうしたんです」
「いやすまぬ。しかしいきなりと言うわけではない。どちらかといえば本来の目的を思い出したというべきかな」
「なにかございましたか」
お妙が首を傾げる。
「このような仕儀になった大元をな」
「……ああ、帳面」
お妙も膝を打つ。
「夢人様がいてくれるおかげで、すっかり安心して忘れていましたよ」
「早速だが見せてもらえるかな」
「お待ちください」
お妙は立ち上がると隣の部屋に入る。そしてその手に紺色の包みをもって戻ってきた。
「心当たりがあるとすればこれぐらいしか」
「これは」
「……うちに出入りしていた若いお武家さまから預かったものです」
出入りしていたというからには師匠と弟子の間柄だったのだろうか。それでもこのようなものを預けるからにはもっと深い仲、男と女の関係にあったのかもしれない。
「そのようなものを見ても良いのかな」
「かまいませんよ」
お妙はどこか素っ気ない。
「それを預けたっきり、疎遠になりましてね」
なるほど、拗ねているのだ。
「久しぶりに文が届いて、昨晩大事な話があるから空けておいてくれって書いてあったんで、待ってたんですが一向に来やしないんですよ」
「はははは、惚気かな」
「あらやだ、本当ですね。酔ったのかしら」
「それでは遠慮なく拝見しようか」
「どうぞ」
夢人は包みを開ける。中にあったのは予想通り帳面だった。表題も何もない。中をめくってみる。
中は所狭しと書きつけられていた。覚書の様にも見える。内容は誰某と会ったとか、金子がどうとか色々だ。何かを調べて、それを書きつけたようなものに見えた。
「どうです」
「良くは解らんが、おそらくこれが目当ての帳面であろうな」
「やっぱりそうですか」
お妙は顔を顰める。眉間に皺を寄せた顔もなかなかに艶っぽい。
「どうしたらいいのか」
「その若い武家とやらに返せば良いではないか」
「こう言ってはなんですが、名前以外知らないんですよ。質の悪い中間に絡まれているところを助けていただいて、それが縁で」
「お妙さんは良く絡まれるな」
「笑い事じゃございませんよ」
「その度に助けが入るのだから良いではないか」
「運が良いのやら悪いのやら」
溜息をつくお妙。夢人は笑いながら猪口を渡すと酒を注ぐ。一気に飲み干すお妙。上気した顔が、一層艶めかしい。
「本当に……秀さんもとんだ置き土産を残してくれたものですよ」
秀何某というのがその若い武家の名なのだろう。
「いっそ燃やしてしまおうかしら」
「思い切ったことを言うな」
夢人は笑う。
「しかし燃やしたところで、持っていないというのを信じてもらえるとは限らんぞ。それならばいっそ渡してしまった方が良い」
「やっぱりそうなんですかねぇ」
潤んだ目で夢人の手にある帳面を見るお妙。
「でも、はいそうですかと渡すって言うのも不義理が過ぎるし、なにより癪じゃありませんか」
「癪か」
「癪ですよ」
「では私に預けるというのはどうかな」
「夢人様に」
お妙は顔を傾け夢人を見る。
「夢人様に預けて、どうするんです」
「まぁ任せてもらえるかな」
「なにか妙な事を考えてやしませんか」
「さてどうかな」
猪口を受け取る夢人。お妙は酌をしようとするが、銚子の中は既に空になっていた。
「あら。ちょいと足してきますね」
立ち上がろうとするお妙の腕を夢人が捕まえる。夢人はその腕を引く。引かれるままにお妙は夢人の脇に崩れる。
「ふざけるのはよしてくださいよ」
「ふざけてなどおらん」
さらに夢人の手に力が入る。お妙の身体は夢人に引き寄せられる。お妙の身体が夢人の身体にしなだれかかる。
夢人の手がお妙の胸元から差し込まれる。
「あ」
お妙の乳房の感触が夢人の掌を包み込む。熟れた柔らかさが心地よい。
「よい心地だ」
柔らかく滑らかな乳房に手を這わせながら、その先端を探る。探り当てた乳首を指先で弄ぶ。
「ああ」
お妙の声が熱い。酔っているためだけでないのは明白である。
「意外と毛深いな」
「ちょっとどこに手を、あぁ」
艶めかしく身を捩るお妙。
夢人は小さく口元をゆがめた。
「さて、本当に嫌ならこれでやめるが、どうかな」
手を差し入れたまま、夢人は耳元でささやく。
お妙の声は無い。ただ潤んだ目が夢人を見上げるばかり。
「嫌かな」
もう一度夢人が問う。お妙の方は顔を下げると夢人の太腿に爪を立てた。
「いたた」
「嫌な人ですよ、本当に」
お妙はもう一度夢人を見上げる。潤んだ目がきっと夢人を睨みつける。
「ここまでしておいて嫌かなんて、聞きませんよ普通」
「無理矢理と言うのも性に合わぬのでな」
「ここまでしておいて」
「どうかな」
「ちょ……ああ」
お妙の口から熱いものが漏れる。その熱気にうなされる様な喘ぎ。
「どうかな」
「どうかな、じゃありませんよ」
お妙の爪がさらに強く夢人の太腿に食い込む。
「いたたたた」
「ちょいと放してくださいな」
お妙は夢人の手を跳ね除けると素早く立ち上がった。
立ち上がると夢人を見下ろす。それを見上げる夢人。
見下ろして睨んでいたお妙の口から息が漏れる。熱く柔らかな吐息。
「隣に夜具を用意しますので、続きはそちらで」
「うむ」
夢人はお妙の後姿を眺めながら、漬物を一つ口に運んだ。
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