蒼穹 -小説 山崎闇斎-

深川ひろみ

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五 朋友

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「わしはお前に大変なことを託しておるのだ。この世に聖賢の教えを広めるという大仕事ぞ。我々は土佐一国で満足しておる訳にはゆかぬ。京にも江戸にも、日の本の隅々まで、正しい学問を広めねばならん。それが出来る男は、清兵衛、お前だけぞ」
 託されたものの重みに、絶蔵主はぞくりと身を震わせた。武者震いというものであろう。
「わしは信じておる。この土佐から、世を変える大学者が出るのだ。何とも心躍る話ではないか」
 小倉は心底愉快そうに笑う。
 朋友には信―――
 父子には親愛を、君臣には義を、夫婦には礼儀を、年長者には敬意を、そして朋友には信頼を。老いた者を労り、朋友には信頼され、年少者からは慕われる。それこそが人の幸いでありあるべき世の姿だと、儒の学はそう教える。両親にも姉たちにも、もう、これからは会いたいという気持ちに執着だと蓋をする必要もない。欲するとおりに大切にすればよいのだ。
 人々が親愛と信義をもって交わる俗世間こそ、絶蔵主が生きる場所であった。
 湘南さま。
 あなたはわたしを見いだし、この広い地へ、南学へ導いて下さった。
 わたしは、仏門を去ります。あなたの世界の教えを、わたしは信じることが出来ませんでした。否むしろ、これから闘っていかねばならない、異端であるとさえ思っています。あなたがおられた世界の、わたしは敵となるでしょう。
 ですが―――あなたから頂いたものは生涯忘れません。
 湘南さま。
 京へ戻ったら、一度だけ、墓前に手を合わせに参ります。それが、最後です。
 湘南の墓は、妙心寺にあった。あの場所とも、絶蔵主は訣別する。永遠に。
「清兵衛」
 朗らかな声で、友が絶蔵主を呼ぶ。
「そろそろ船が出る。達者でな。風は上々じゃ、よい旅を」
「小倉さまもお元気で。野中さまや谷先生、皆さまにどうぞよろしくお伝え下さい」
 おう、と小倉は短く言った。絶蔵主は踵を返す。潮風が吹いて、未だ僧形の絶蔵主の黒い袂を膨らませる。風を一杯に受ける、真っ白な帆のように。
 帰るのだ、京へ。大仕事が自分を待っている。全てが新しく始まるのだ。
 逸る心を胸に、絶蔵主は駆けだした。風はその背を抜け、秋の真っ青な空へと吸い込まれていった。



     【了】


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