蒼穹 -小説 山崎闇斎-

深川ひろみ

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三 鋭利な刃

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「絶蔵主よ」
 湘南は呼びかけた。
「はい」
「明日、わしはまた土佐へ下る」
 ここ妙心寺大通院と土佐の吸江寺の住職を務める湘南は、土佐と京を行き来する生活を既に四十年近く続けている。
「こたびは少し長く、土佐に身を落ち着けようと思うておる。わしはどこから流れて来たやもしれぬ捨て子ではあるが、この身を幼い頃より育んだ山内家の膝元である土佐が、結局はわしの身の置きどころと思うての」
 絶蔵主は相槌も打たず、黙って湘南の言葉を聞いている。己れに何の関わりがある―――そう思っているのかもしれない。つまりはその程度の間柄でしかない。
「お前は、わしと共に土佐へ参れ」
 その言葉を聞いた瞬間、突き刺すような眼差しが湘南を射た。膝に載せた拳をぎゅっと握り、何かを言おうとする様子で、唇をわずかに内に引く。歯ぎしりさえ聞こえたような気がした。若い僧の憤りを察して、湘南は頬を緩める。
「あの場の誰ぞに言われた訳ではないよ」
 学ぼうとする者を追い払うのか―――そう叫んだ絶蔵主にすれば、文化の中心たる都を、更に上方をも遠く離れて、流刑地の一つでさえある土佐へ行けとは、逐われたと思ったのも無理はない。
「土佐の海を、見せてやろうと思うてな」
 勢いを削がれたらしい相手の顔に、戸惑いの色が浮かぶ。
「比叡より淡海(琵琶湖)を望んだことはあろう。あれとは比較にならぬほど大きい。遮るもののない大海原の上に、果てしない蒼穹が広がる。かの弘法大師も、その空と海の下で開眼され、空海と号した。見てみたくはないか」
 若者はしばらく黙っていた。ふて腐れているように見えなくもない表情だったが、ひとつ息をついてから口を開いた。
「土佐に、書はありますか」
 その問いに、湘南はつい頬笑んだ。
「ある。田舎とはいえ、まあそう馬鹿にしたものではないよ。無論、ここや五山同様とは言えぬが、いかにお前とて、二年三年で読み尽くすとはゆくまい。不足があれば取り寄せよう」
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