遠き道を -儒者 林鳳岡の風景-

深川ひろみ

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九 昌平坂の大成殿

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 林家は、どこか鈍重で不器用な牛であった。腐儒子と言われ、俗儒と嘲られた。父は忍耐強く歩みを進めていたが、憤慨してこう書いたこともあった。

「近年、聞くならく、高く性理を談じ、以て程朱(二程子と朱子のこと)再び出づと為して、文字をなげうちて、博識を以て妨げ有りと称して、余がともがらを指して俗儒と為す者も之れ有りと。彼は彼を為し、我は我を為す。道、同じからざれば、則ち相ひ為に謀らず。余は唯だ家業を守るのみ」

 余は唯だ家業を守るのみ。
 それが父であり、儒臣としての林家の「道」であった。信篤はその父の背を見つめ、兄の志を思い、精一杯の努力を重ねてここまで来た。そしてようやく、「大学頭」の地位を賜り、蓄髪も許されて、真っ直ぐに国の儒臣として立つことが出来るところまできた。
 だがそれは信篤の力量というよりは、林家の歩みに対して与えられたものだった。結局のところ、信篤は泥臭い林家の中でもとりわけ鈍重な、真面目が取り柄の牛に過ぎなかったのだ。
 儒者として、父にも兄にも遠く及ばなかった。
 まして、あの人には―――
 信篤は目を閉じた。
 父春勝と同い年だった山崎嘉右衛門は、春勝の死の二年後、京で没した。
 十五年近くにわたって毎年京と江戸を往復し、大名たちを相手に講義を続けたが、かれを重く用いた会津中将―――保科正之公の葬儀に与った後は京に戻り、その後は二度と東へ下っては来なかった。保科が亡くなる年にも例年通りに江戸へ下り、十一月半ばに京へ戻っていたかれは、十二月半ばにその訃報に接するや再び京を発ち、雪深い会津へ駆けつけた。そして会津の家臣たちと共に保科の望んだ神式の葬儀や神号の授与実現のために奔走し、長年の厚遇の恩に報いた。
 その後は京に腰を落ち着け、書物の執筆と門弟の教育に力を注いだ。数千と言われる門弟を教育し、その学は崎門と呼ばれて各地に伝わった。出版された書は五十冊を超え、今もなお、息長く読み継がれている。
 何者にも媚びず、決して膝を屈せず、それでいて、自身が認めた者からの信頼には全力で応える。その去就の清々しさは、人に馴れぬ誇り高い野生馬のようだ。最期まで力強く、颯爽と世を駆け続けた。
 かれらを見送って、信篤はここにいる。鈍重に、泥に塗れて、それでもただ歩き続ける。
「ちちうえー」
 呼びかけに振り返ると、十歳になった息子が頬を真っ赤にして駆け寄ってくるところだった。向こうに塾生の姿が見える。せがまれて連れてきたのだろう。名を七三郎といい、妾腹で三男だが、正室腹の二人の男子は、いずれも世を去ってしまった。七三郎は竣工成った日に連れられてここへ来て以来、この建物が大好きだという。銅葺きの屋根が陽光に輝く姿が美しいと。
 息子はもう、剃髪を強いられることもなければ、腐儒子と誹られることもない。負の遺産を残さずに済んだことが、信篤にとって何よりの救いだった。願わくば儒の未来が、この新しい屋根のごとく、輝かしいものでありますように。
 息子の手を取り、信篤は再び天を仰いだ。



     (終)


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