遠き道を -儒者 林鳳岡の風景-

深川ひろみ

文字の大きさ
上 下
41 / 43
九 昌平坂の大成殿

しおりを挟む
 元禄四年(一六九一年)、晩春三月も半ばを過ぎたうららかな陽気の中、林信篤のぶあつと名を改めた春常は、一月に落成したばかりの「大成殿」の高い屋根を仰ぐ。四十八歳になっていた。
 桜も満開の頃である。黒羽織に頭巾という出で立ちがいささか暑く感じられる。頭巾の裾を軽くつまみ、汗ばんだ首筋に風を送った。
 頭巾の下は、伸ばし始めたばかりの髪が、ようやく指で挟めるほどになったかというところだ。蓄髪を許されて二ヶ月。結えるようになるまでにはまだまだ時間がかかるだろう。
『儒臣林信篤を、従五位下、大学頭だいがくのかみに任じる』
 今年一月十三日。初春の澄んだ空気の中、使者の口上が厳かに響いた。
 大学頭に任じられ、蓄髪を許されたのである。単なる称号ではない、儒者のための地位が、ようやく儒臣たる林家に与えられたのだ。丁重に礼を述べて使者を送り出した時、信篤の目からどっと涙があふれた。膝の力が抜け、思わずその場に両手をついてむせび泣いた。
 ようやく、ここまできた―――
 信篤と名乗り、鳳岡ほうこうと号するかれは、九年前に六十三歳で亡くなった父春勝の後を継ぎ、今は林家の当主であった。
 儒学を愛好する五代将軍綱吉公の命をうけ、先聖孔子を祀る先聖殿は、寛永寺を中心に多くの寺院が建ち並ぶ上野忍岡から、ここ湯島の地に移された。
 先聖殿は「大成殿」と名を改めた。六千坪の土地の最奥には、銅瓦葺の屋根と丹塗りの柱を持つ高床の正殿を南面して建て、綱吉公自筆の漆塗りの扁額「大成殿」を掲げる。南側には回廊が取り巻く広間が設けられ、入口には杏壇門きょうだんもんが威容を誇る。門をくぐれば少し下って入徳門にゅうとくもんがあり、そこを出れば、多くの人が行き交う神田川沿いの急勾配の坂道だ。この坂と敷地東側の小路を、孔子の故郷である魯国の「昌平郷」にちなみ「昌平坂」とせよと、先月幕府より達しがあった。神田川に架かる橋の名も「昌平橋」となった。
 ここが、日の本の儒者の故郷、心のよりどころとなるはずだ。そう思うと、胸が熱くなった。
 「大学頭」というのは、唐に倣った「律令」が定める「大学寮」の長官を指す。大学寮は王朝時代末期に廃絶して久しく、大学寮もない中で大学頭という役職が何の役に立つ、と世人はあるいは笑うかもしれない。父が賜った「弘文院学士」の称号とて、朝鮮の儒者たちは「弘文院を持たぬ国で、何が弘文院の学士か」と陰口を言ったのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

陣借り狙撃やくざ無情譚(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)

牛馬走
歴史・時代
(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)猟師として生きている栄助。ありきたりな日常がいつまでも続くと思っていた。  だが、陣借り無宿というやくざ者たちの出入り――戦に、陣借りする一種の傭兵に従兄弟に誘われる。 その後、栄助は陣借り無宿のひとりとして従兄弟に付き従う。たどりついた宿場で陣借り無宿としての働き、その魔力に栄助は魅入られる。

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―

三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】 明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。 維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。 密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。 武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。 ※エブリスタでも連載中

梅すだれ

木花薫
歴史・時代
江戸時代の女の子、お千代の一生の物語。恋に仕事に頑張るお千代は悲しいことも多いけど充実した女の人生を生き抜きます。が、現在お千代の物語から逸れて、九州の隠れキリシタンの話になっています。島原の乱の前後、農民たちがどのように生きていたのか、仏教やキリスト教の世界観も組み込んで書いています。 登場人物の繋がりで主人公がバトンタッチして物語が次々と移っていきます隠れキリシタンの次は戦国時代の姉妹のストーリーとなっていきます。 時代背景は戦国時代から江戸時代初期の歴史とリンクさせてあります。長編時代小説。長々と続きます。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

不屈の葵

ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む! これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。 幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。 本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。 家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。 今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。 家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。 笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。 戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。 愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目! 歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』 ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!

楽将伝

九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語 織田信長の親衛隊は 気楽な稼業と きたもんだ(嘘) 戦国史上、最もブラックな職場 「織田信長の親衛隊」 そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた 金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか) 天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!

処理中です...