遠き道を -儒者 林鳳岡の風景-

深川ひろみ

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九 昌平坂の大成殿

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 元禄四年(一六九一年)、晩春三月も半ばを過ぎたうららかな陽気の中、林信篤のぶあつと名を改めた春常は、一月に落成したばかりの「大成殿」の高い屋根を仰ぐ。四十八歳になっていた。
 桜も満開の頃である。黒羽織に頭巾という出で立ちがいささか暑く感じられる。頭巾の裾を軽くつまみ、汗ばんだ首筋に風を送った。
 頭巾の下は、伸ばし始めたばかりの髪が、ようやく指で挟めるほどになったかというところだ。蓄髪を許されて二ヶ月。結えるようになるまでにはまだまだ時間がかかるだろう。
『儒臣林信篤を、従五位下、大学頭だいがくのかみに任じる』
 今年一月十三日。初春の澄んだ空気の中、使者の口上が厳かに響いた。
 大学頭に任じられ、蓄髪を許されたのである。単なる称号ではない、儒者のための地位が、ようやく儒臣たる林家に与えられたのだ。丁重に礼を述べて使者を送り出した時、信篤の目からどっと涙があふれた。膝の力が抜け、思わずその場に両手をついてむせび泣いた。
 ようやく、ここまできた―――
 信篤と名乗り、鳳岡ほうこうと号するかれは、九年前に六十三歳で亡くなった父春勝の後を継ぎ、今は林家の当主であった。
 儒学を愛好する五代将軍綱吉公の命をうけ、先聖孔子を祀る先聖殿は、寛永寺を中心に多くの寺院が建ち並ぶ上野忍岡から、ここ湯島の地に移された。
 先聖殿は「大成殿」と名を改めた。六千坪の土地の最奥には、銅瓦葺の屋根と丹塗りの柱を持つ高床の正殿を南面して建て、綱吉公自筆の漆塗りの扁額「大成殿」を掲げる。南側には回廊が取り巻く広間が設けられ、入口には杏壇門きょうだんもんが威容を誇る。門をくぐれば少し下って入徳門にゅうとくもんがあり、そこを出れば、多くの人が行き交う神田川沿いの急勾配の坂道だ。この坂と敷地東側の小路を、孔子の故郷である魯国の「昌平郷」にちなみ「昌平坂」とせよと、先月幕府より達しがあった。神田川に架かる橋の名も「昌平橋」となった。
 ここが、日の本の儒者の故郷、心のよりどころとなるはずだ。そう思うと、胸が熱くなった。
 「大学頭」というのは、唐に倣った「律令」が定める「大学寮」の長官を指す。大学寮は王朝時代末期に廃絶して久しく、大学寮もない中で大学頭という役職が何の役に立つ、と世人はあるいは笑うかもしれない。父が賜った「弘文院学士」の称号とて、朝鮮の儒者たちは「弘文院を持たぬ国で、何が弘文院の学士か」と陰口を言ったのだ。
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