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八 先聖殿にて

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 深く静かな声であった。それは厳しく人を貫くかと思えば、胸の内を震わせもする。地位も身分も称号も、己を飾る何物を求めないこの人は、その厳しさも哀悼も包まず、ただそのままにあった。
 確かに伝わってくるその哀悼の思いが、春常の背を押した。
「山崎さま」
 思い切って呼びかけると、かれの真っ直ぐな眼差しが春常を射た。その鋭さに、春常は思わずたじろいだ。
 唾を飲み込み、春常は言葉を絞り出す。
「山崎さまは、浮屠とは話したくないと仰った。僧形であった父と話すことも、叔父の案内も拒まれた。わたしも今はこの姿です。兄もそうでした。そのありようを、腐儒、俗儒と批判されても、父は―――林家は、儒者として立とうとしております」
『つね』
 兄の声が甦る。
『つね、駄目だ』
 兄はとっくに肚を括っていた。春常はいつもその影に隠れ、泥に塗れる覚悟もないまま、遁世の自由を夢に見ていた。
 もう、兄はいない。
「山崎さまは、今の林家のありようを、どのように見ておられるのですか………」
 山崎は、春常が言い終えるのを待たなかった。
「恥とするなら、改めよ!」
 浮屠とは話したくない。
 あの日、その一言で春常の世界を切り裂いたように。
 かれの言葉は、飛んできた小鳥を切り捨てるごとき鋭さで、春常の頭上に振り下ろされた。
 声もなく立ち尽くす春常を見据え、山崎は怒気を含んだ声で吐き捨てた。
「見苦しい」
 わずかな間があった。山崎は軽く息を吐き出し、視線が逸れた。春常は唾を飲み込む。虎口を脱した感があった。首筋を汗が伝うのが判る。
 山崎は再び顔回の塑像を仰ぐ。
「天、を喪せり」
 ぽつりと呟いた。それから目線を上げ、聖堂内を見回す。再び春常に向けられたその眼差しの中に、既に怒りはなかった。
 じくりと、胸が疼く。かれは、春常への関心を失っていた。
「父君は強い方だ。身に受ける屈辱も周囲の無理解も、自らを駆り立てる力となす。いかなる風雨が吹きつけようと、恐らく歩みを止めることはあるまい。だが―――」
 そこで言葉を切り、山崎はゆっくりと歩き出した。堂の奥の暗がりを出て、晩秋の陽の光の中へと出た。春常は動けなかった。山崎は春常を見つめ、静かな声で言った。
「京へ戻る前に、兄君が見た最後の形を見ておこうと思うた。父君は歩みを止められまい。だが、あなたのように迷うておっては、儒道の芽を育てるどころか、その背について行くことさえ出来まいな」
 逆光で、かれの表情は見えない。
 背を向けながら、かれは言った。
「あるいは―――ここまでか。気の毒なことだ」
 ここまでか。
 言葉は万鈞の重みで、春常を圧した。極寒と灼熱に同時に襲われ、全身ががくがくと震えた。
 ここまでか。
 林家は、ここまでか。
 山崎は先聖殿を出た。刀を取り、元のように腰に帯びると、晩秋の光の中に消えた。
 二度と、振り返らなかった。


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