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八 先聖殿にて

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「お―――」
 恐れ入ります、と応じようとして、不覚にもどっと涙が溢れた。
『浮屠と先聖先師の前には立てぬ』
 耳に残るかれの声は、どれも鋭く厳しかった。僧形で幕府に仕え、漢文読み坊主のように扱われている林家の有り様を、糾弾されているように感じた。
『つね』
 兄上。
『つね、駄目だ』
 林家を背負って立とうとしていた兄は、春常がこの人に惹かれるのを好まなかった。兄から読んでいる書を咎められたことなど、叔父の死後にこの人の書を読んでいたあの時以外、一度たりともなかった。
「し、失、失礼を―――」
 滂沱ぼうだと溢れる涙は止まらない。俯いたまま、春常は必死で声を絞り出した。無様に引きつった涙声だった。悔やみを述べたとはいえ突然泣き出されて、相手はさぞ困惑しているだろう。そう思ったが、どうすることも出来ない。しゃくり上げながら春常は泣き続けた。
 兄がいれば、林家は安泰だと信じていた。次男坊である春常は、叔父守勝がそうだったように、世間から一歩引いた場所で、父や兄を、微力ながら支えてゆければそれでいい。学問を捨てることは考えられなかったが、遁世する程度の自由はあると思っていた。もし春常が世の無理解にうんざりし、世を逃れ隠れ住みたいと訴えたとしても、兄はその度量と優しさで、苦笑しながらも自分を受け入れてくれるだろう。それでも兄を助けることぐらいはできるだろうと思っていたのだ。
 甘ったれていた。幼い頃からずっと甘ったれの次男坊のまま、ただ許されていた。
 兄を失った悲しみも、急にのしかかってきた「家」の重みも、春常には底なしの恐怖だった。叔父守勝が逝ったとき、十八歳だった春信は強い使命感を持って、全力で父を支えた。今、期待をかけた嫡子を突然に失った春勝は、絶望と混乱の中にある。葬儀を取り仕切ることもままならず、それは嫡子となった春常の最初の役目となった。兄を失った悲しみを押し殺し、心の内に閉じ込めて、春常は必死で日々を送ってきたのだ。春信の傍らではあれほど涙を流したのに、没後に泣くことはほとんどなかった。
 ごめんよ、と言った兄は、そんな事をも見通していたのだろうか。自分が死んだ後に春常が直面することになる、誰とも分かつことの出来ない、自分一人が担うしかない重みを。甘ったれの弟を傍らに、兄はずっと頬笑みを浮かべながら、ひとりこんな重圧と戦ってきたのか。迫り来る死を見据え、重みに耐えながら、なおも林家の将来を思っていた。その兄が、最期の力で父と林家を頼むと言ったとき、自分は何故応えてやれなかったのか。
 看病も祈りも、人を死の運命から救うことなど出来はしない。
 だが、ただひとり、春常だけは、兄の心を救えたはずではなかったか。たとえほんのわずかでも、死と戦う兄が負っていた重荷を、軽くしてやれたのではなかったか。
 どれ程の時間、そうして向かい合っていたのか判らない。不意に、静かな声で名を呼ばれた。
「林どの」
「はっ、はい」
 春常は鼻をすすり上げ、顔を上げる。涙で濡れた顔を袖で拭った。
 山崎の表情は相変わらず厳しく、そこには同情も労りもなければ、侮りや蔑みも、感情的なものは何一つ窺うことは出来なかった。
「先聖殿を、案内してもらえるか」
 初めて先聖殿を訪れた八年前でさえ、案内は要らない、拝見したいだけだと言い切った男が、何故かそう言った。
「―――はい………」
 春常はまた鼻をすすり、ひび割れた声で応えた。


          ※

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