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六 兄の大望

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 春信は弟の呆れ顔をどこか楽しげな表情で見ていたが、「つね」と呼びかけて、卓上の紙を取った。
「これを見てくれ」
 紙と灯りを手に縁に出てきて、春常の前に紙を広げた。墨の香りがふわりと漂う。
 そこに書かれていたのは、文章ではなかった。紀伝道、明経みょうぎょう道、国士、太学たいがくといった単語が目についた。
「父上は、酒井大老方はこの『本朝通鑑』の編纂が完了したら、学校を作って、父にその運営を任せようと言ってくれたと話されていた。編纂事業はまだ先が見えていないし、どこまで本気で取り組んで下さるものかと苦笑してもおられたけれど」
 春信の口調が熱を帯びた。
「でも、それなら今から「学校」のあるべき形について、話が来たらすぐに応じられるだけの用意はしておくべきだ。幸い、編纂のために門生たちは連日ここに足を運んでいるし、読むべき書は大量にある。そして集まってきた書を読めば読むほど、自分の研鑽不足に気づく。今は絶好の機会だと思う」
「学校」
 春常は、一言そう返すのが精一杯だった。
「経典も歴史も、分野ごとに基本的なところから一つ一つ階梯かいていを踏んで学んでいく場、それが学校という場所の役割だ。中華で唐代に置かれた国子監こくしかんでは、儒学と法律、書と算学を教えた。それを模した我が国の大学寮は、儒学、史学、法律、算学の四科目だ。残念ながら今、算学を扱う余裕はないだろうけど………。科を選定して、それぞれに初級から上級まで等級を定めて、実力で公正に評価をする。一人がいくつの科を学んでも構わない。むしろそうでなければいけない。儒学は上級だけど、法律は初級から一歩ずつ、それでいい。そして全ての科で上級となれれば、儒者として一人前ということだ。政事まつりごとの役にも立てる」
 春信は顔を上げる。その眼差しは、庭の木立を突き抜け、どこか遠くを見ていた。
「海の向こう、科挙の難関をくぐり抜けた朝鮮や中華の儒者たちにも伍していける。林家が、そんな学校を作る」
 春常は灯火の下、広げられた紙をまじまじと見つめた。
 学校を作る。
 確か唐の「国子監」では、長官である祭酒の下に六つの学校が置かれ、数千人の学生たちが学んだと読んだ記憶がある。王朝時代に置かれた大学寮は、長官として大学頭だいがくのかみが、教授として博士が置かれ、そこで学ぶ学生は最盛期で数百人というところだっただろうか。学んだのは貴族の子弟のみで、彼らが力を失うと共に廃絶した。
 今、弘文館で学んでいる門生は、およそ三十人というところだ。
 意気や壮、ではあるが、あまりにも飛躍しすぎではないか。
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