遠き道を -儒者 林鳳岡の風景-

深川ひろみ

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六 兄の大望

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 亥の刻(午後十時頃)近くになり、春常はそろそろ休もうと、その前に小用を足しに廊下に出た。
 編纂が始まってから、そろそろ一年半になろうとしている。春常は二十三歳になった。三月も半ばを過ぎ、弘文院山荘の桜も八分咲きまで開いた。朧月の柔らかな光が庭を照らす、暖かい晩だった。
 外を見ると、兄が生活する離れには、まだ灯りがともっている。
 両親と春常は弘文書院に暮らし、春信だけは小さな離れを与えられてそこで生活をしていた。祖父羅山が「詩仙堂」とつけていたものを、父が詩経から取って「六義堂」と改めたものだ。
 春常は草履を履いて庭に降り、六義堂へ向かった。風もなく暖かい夜のことで、部屋は開け放たれ、春信が灯りをともして熱心に書き物をしているのが庭からも見えた。春常はしばらくその場に佇み、兄の整った横顔を見つめた。その手が止まったところを見計らって、春常はそっと声を掛けた。
「兄上」
 春信は顔を上げる。
「つね」
 筆を置き、春常を見て頬笑んだ。
「どうした。眠れないのか」
 からかう口調に、春常は苦笑する。
「寝ようと思ったんですが。兄上こそそろそろお休み下さい。亥の刻を過ぎましたよ」
 濡れ縁に腰を下ろし、春常は言った。
「灯火での作業は控えるようにと、先日もお医者さまから言われていたではありませんか。また目を痛めます」
 春信はわずかに目線を落とす。
「………そうだな」
 苦笑を浮かべてぽつりと呟く。
 編纂事業が始まって一年が過ぎた頃から、春信は時折目の痛みを訴えるようになっていた。目の奥が痛み、酷いときには開けていられなかった。数日休むと少しよくなるが、無理をすればまたぶり返す。
 いや、「無理をすれば」というよりも、春信は常に目を酷使していて、無理がむしろ「常態」であるとさえ言えた。月に五日の休暇日以外、辰の刻(午前八時)から申の刻(午後四時)までは国史館での勤めがあるのだから、それ以外のことを成そうとすれば、早朝と日暮れ時の短い時間を除けば、灯火を用いるより他なかった。
「明日の講義の準備ですか」
 春信は国史館での作業を終えた申の刻から、日を決めて学塾での講義を担当するようになっている。
 春常の問いに、春信は少し弟の顔色を窺うような、決まり悪げな表情をした。
「いや―――それはこれから、」
「はあ?」
 思わず声を上げた春常に、春信は苦笑した。
「怖い顔をしないでくれ。そんな時刻になっているとは思わなかった。明日の朝にするよ。読み慣れている部分だし、それほど改めて用意することもないんだよ」
「………兄上」
 呆れた。
 今から寝て、夜明けに講義の準備をして、国史館で編纂の仕事をしてから学塾で講義をして。そんな生活を続けたら、また眼疾がぶり返すに決まっている。春常はそう思うのだが、父春勝に全く危機感がないのが困ったところだった。勿論医師に診せはするし、薬や灸治といった治療も受けさせている。だが根本的な部分、「春信は体質的に目が弱い」という点に対する理解がない。
 何しろ祖父羅山は昼も夜も、家にいても移動の時も、自宅が火事になって籠で避難するときでさえその中で書を読んでいる、という途方もない読書家であった。父は常に「自分は父にとても及ばない」と言いつつ努力を重ね、息子たちにもそうあって欲しいと願っている。それでは、父に忠実で、嫡子としての責任感の強い春信が、身体の不調を押して無理をしがちなのも当然だった。
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