遠き道を -儒者 林鳳岡の風景-

深川ひろみ

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五 国史編纂の幕命 -本朝通鑑-

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 その日、御城から帰宅した父は、食事の前に春信と春常を呼んで正座させ、昂揚した様子で告げた。
「史書編纂の幕命が下りた」
 叔父守勝の死から一年半が過ぎた、初秋十月のことだった。
 春常の隣で、兄が膝の上に置いた拳をぎゅっと握ったのが判る。
「ようやくですね」
 父を真っ直ぐに見つめる春信の頬は紅潮している。春常の胸も高鳴った。
 史書編纂事業を「再開」したい。それは父の悲願だった。
 もう何年も前から、春勝は幕閣にずっと訴え続けてきた。十八年前、祖父羅山は幕命を受け、王朝(平安)時代中期、宇多天皇までの歴史を編纂し、三代将軍家光公に提出した。その際 すぐに続編編纂の命が下ったものの、幕閣の関心は低かった。
 宇多天皇までは朝廷が編纂した正史が存在する。だがそれ以降七百年にわたって、修史事業は行われてこなかった。そこから先の歴史を綴ろうとすれば、資料収集から始めなければならない。朝廷からも公家からも、そして勿論全国の武家からも古記録を取り寄せ、一つの歴史としてまとめ上げるのだ。一儒者の力でなし得る事業ではなく、幕閣なり朝廷なり、全国に号令を発する事の出来る存在の協力が不可欠だった。当然、人手も資金も必要になる。
 父羅山が命じられて果たせなかった事業を引き継ぎ、完成させる。それは林家の使命であり、父への「孝」であると春勝は信じた。
 それが、ようやく認められた。
「春信、春常」
 改まった口調でそう呼びかけて、春勝は視線を宙へ投げた。
「明朝、忍岡に行く。支度をして待ちなさい」
 はい、と春常は兄と共に答えた。
 何のために、と問う必要はなかった。祖父羅山と、そして叔父守勝に、この事を報告に行くのだった。
 そしてこの年の暮れ、十九歳の春信は剃髪した。登城して学問料を賜り、幕府の儒臣としての一歩を踏み出した。
 春常は、まだ俗体である。父に従い、従容として髷を落とし僧衣をまとった兄を、眩しいような、腹立たしいような思いで見つめた。
「つね」
 そんな春常に向かい、春信は頭を掻きながら、
「冬に髪など剃るものじゃないな」
と苦笑してみせた。
「寒いよ」
「早く頭巾をお召し下さい」
 つい、春常も苦笑してそんな言葉を返していた。うん、と兄は笑って頷いた。


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