遠き道を -儒者 林鳳岡の風景-

深川ひろみ

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四 天、予を喪せり

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 誰もが「いつものこと」だと思っていた。
 守勝は、前日には書庫に本を取りに出てきていたぐらいだったので、家族も特に様子を見に行ったりもしていなかった。体調が優れないときには、煩わせずそっとしておくのが思いやり―――守勝はそういう人柄だった。食事の時間に春常が様子を伺いに行く。今までは、それで十分だった。
 父は、前日は忍岡の学塾の定例の講義の日に当たっていた。講義の後は門人の質問に答えたりして遅くに帰宅しており、寝る前に守勝の部屋を訪れて少し話したのが最後で、今朝は顔さえ見ていなかった。
 あれほどの病状の急変は、誰一人予想していなかったのだ。
 四十歳で父羅山を失い、林家を背負うことになった春勝は、六歳年少の弟守勝を公私ともに片腕と頼みにしていた。春勝は早くから嗣子としての自覚のもとで育ち、父の号「羅山」にちなみ「鵞峰」を名乗った。一方守勝は「書を読み田を耕す」生き方を理想とし、「読耕斎」と号した。史書を好み、勤勉な儒臣として生きる社交的な春勝と、詩文に耽溺し、退隠の生活を夢見た守勝。まるで肌合いの異なる兄弟だったが、それだけに互いの長短を補い合い、まさに林家の車の両輪としてあったのだ。
 五年前に母を、四年前に父を送り、今弟を失って、林家は、四十四歳の父一人の双肩にかかることになった。守勝の遺した一男二女の養育も父の責務となった。三児を産んだ守勝の妻は既に亡くなっており、後妻との間に子はない。彼女は実家に戻ることになった。
「しん」
 涙の跡も乾かぬ疲れた顔で、春勝は十八歳の息子を呼んだ。
「靖に、おくりなを撰んでくれ。―――皆と」
 皆、とは門人たちのことだ。
 諡号しごうを撰ぶ。若くしてそんな役目を任せられるほど、春信は既に父の信頼を得ていた。
「はい」
 春信は一言、力強くそう応じて、早速春常や他の年長の門人たちを集めて書を繙
ひもと
いた。
 春勝の嘆きは深く激しかったが、喪主を務める守勝の長男は八歳になったばかりだ。家長として、また弟に対する兄としての責任感が、辛うじて春勝を支えた。また春信も春常も父を助け、来客の応対や遺児たちの世話に追われた。
 「貞毅先生」―――それが守勝の諡号となった。温和な外見の内に、潔癖さと強い意志を秘めた人だった。


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