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彼が初めて笑った日
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いつもと同じ風。いつもと同じ太陽。いつもと同じ鳥の囀り。いつもと同じ街並み。そして、いつもと何も変わらない私。今日、私は高校を卒業した。しかし世界はそんな変化に合わせてくれるはずもなくただいつも通り、何気ない日常を紡いでいた。
ふとイヤホンを耳にさす。選曲を機械に任せると、流れたのは私の大好きな曲だった。なぜこの曲が好きなのか? そう聞かれても返答には困ってしまう。好きなアーティストが歌っているわけではなく、大衆に人気のあるわけでもない。歌詞、曲調、声質、どれをとっても特段優れているわけではなく、ただ登下校中の私の耳には程よく心地いいだけの曲だ。
「なんでこの曲なのだろう。」
そんなことを考えながら歩くと、あっという間に3分43秒が過ぎ、今度は記憶に新しいピアノの旋律が流れ出した。それと同時に、私の脳裏に思い出したくもない数多の記憶が蘇るのだった。
私は生まれてこの方、涙を流したことがない。というより、涙を流せない身体に生まれた。それでも幼いころはこのことを不自由に思ったことはなかった。転んで痛かった時も、兄と喧嘩したときも、引っ越しで幼馴染と離れ離れになった時も、私の瞳から雫が落ちたことはなく、そのたびに私は“強い子”と褒め、慰められた。親からも信頼され過度に干渉されることはなかったため、やりたいことをやり、食べたいものを食べ、部活や進学先なども不自由なく決めさせてもらえた。
しかし、時間と成長は残酷だった。同級生は少しずつ私が泣かないことに疑問を持ち、それはあるとき好奇の対象になった。
小学校の卒業式の日。無論私はその日も涙を流さなかった。周りで号泣し抱き合っている姿に、混ざっていくことはできなかった。「寂しくないわけ?」
ある友達からかけられた一言。傷つかなかったわけではないが何も言えなかった。返す言葉が見つからなかったのだ。
中学2年の体育祭の日のこと。私のクラスは優勝に向け団結力を見せ、最終種目のクラスリレーを迎えた。最下位にさえならなければ優勝は間違いない。そしてバトンはアンカーである私の元へ繋がれた。はずだった。練習で一度もミスのなかったバトンパス。こんな時に限ってバトンが手につかなかった。生憎レースはかなりの混戦であり、このミスが命取りとなりクラスは優勝を逃してしまった。誰もが優勝を信じて疑わなかっただけに、落胆は大きかった。当然私の身には大きな責任がのしかかる。ショックも大きかった。にもかかわらず涙だけは、流れてくれることはなかった。せめて涙さえ流れていれば、慰めの一つや二つはあったことだろう。だから私は教室に帰るのを避けるため、体調不良を訴え保健室に籠った。これが逆効果だったのだろうか、翌日から私はクラスの腫れもの扱いを受けた。それはいじめというには程度が低く、親や教師に相談するほどでもなかった。決して気分がいいものではないが、別に気にするまでもなかった。というよりかは、気にしないふりをするほうが楽だった。
「私は感情のないロボットだ。」
そう言い聞かせ、できる限り対人関係を断つことが、平常でいられるたった一つの道だった。
「おーい、奈美!!」
イヤホン越しでも悠に聞き取れる、この大きくて甲高い声。
歩実であることは疑うまでもなかった。
「なんだ、歩実か。」
そう返すと、
「『なんだ』じゃないでしょ、なんで先に帰っちゃうのよ!」と怒った様子で言われる。
「だってあの場にいてもしょうがないでしょ。別に高校に思い入れなんてないしそれに・・」
「泣けるわけでもないものね。」
言い切る前に、歩実に遮られる。そう、私にとって彼女が唯一の理解者だった。
私たちの出会いはおよそ四年前、中三のクラス替え辺りだっただろうか。
クラス替えは、私の周りの環境になんの影響も及ぼすことはなかった。それどころか私への迫害行為は、拡大する一方であった。
とある日の朝。この日もいつも通り。私が教室に入ると、まるで吹雪でも吹いたように場の空気が凍り付く。もちろん私に声をかけようと近づいてくる人など存在しない。ああ、今日も始まったか。ため息を一つ付き窓際の自分の席に着くと、ポンポンッと後ろから肩をたたかれる。振り向く前に耳元で囁く。「ねえ、あなたいじめられてない?」
とんでもない豪速球だな。と思う気持ちを抑え、
「もう慣れたよ。あなたも私なんかと関わらない方がいいわ。」
そう返すと、
「そんなのだめよ。早く先生に相談するべきじゃない。」
冗談じゃない。そんなことをして大事にでもなれば逆に生き辛くなることは目に見えていた。お節介な女だ。そう思いつつも、私は少しだけ、その気持ちが嬉しくもあった。
「ありがとう、でも本当に大丈夫だから。」久しぶりに、素直な気持ちを曝け出せた気がした。そんな私を見かねたのか、
「そう。でも見て見ぬふりはしたくない。相談したくなったらいつでも言ってね。」
とだけ言い、携帯の画面を見せられる。そこには一ノ瀬歩実というアカウント名と、登録コードが綴られていた。この日、二人は「ともだち」になった。
それからというもの、歩実は毎日のように話しかけてきた。彼女は底抜けに明るい。そして異常なまでに正義感が強い。そんな歩実の気概に根負けしてか、いつしか私たちは行動を共にするようになった。それどころか、いつの間にか私は、彼女の存在を心の拠り所にしていた。
学校生活を楽しめる感覚は久々だった。今まで義務として通った一人ぼっちの通学路は気が付けば、二人の楽しみな時間として、自らの意思で通えるようになった。
久しぶりに訪れた、平穏で楽しいキラキラした学校生活。そんな日々が続くことが私に許されることなんてあるはずはなかった。
ある日の放課後のこと。いつも一緒に帰っている歩実から、予定があるから先に帰っていてくれと頼まれた。不思議に思う由もなく、久々の一人道を歩く。嫌な予感などは全くなかったのだが、こういう時に限って、教室においてきぼりの忘れ物に気付く。大したものでなければ見過ごすこともできたのだが、翌日提出の宿題とあってはそうするわけにもいかず、いつもより多く曲が聞けることだけを楽しみに、学校に戻った。
学校を目前にして、何か嫌な空気が漂う。それを助長するかのように、耳からは暗いバラード調のイントロ。胸騒ぎがして、いつもは行きたがることなどない教室へ急ぐ。
「何するのよ!」
聞こえてきたのは、どんな曲よりも耳になじむ、あの声。
中を覗くことはできないが、その声や物音の様子から、歩実の身に 何か良からぬことが起こっていることは容易に推測できた。
「なんであんな女の肩持つような真似するのよ。あの子には人と同じ感情がないの。何したって泣かないのよ。卒業式の日も、運動会で負けた日も、私たちに悪口言われても、無視されても。そんな不気味な子といて気持ち悪くないの? あなたの神経がわからない。あの子はクラスの目の敵。そんな子の味方になんてついて、どうなるかわかっているわよね?」
「関係ないよ。あんたが今言ったこと全部、私が奈美と離れる理由になんてならない。それに彼女に感情がないなんてことあるはずないじゃない。だって彼女は笑うし、怒るし、悲しいときは悲しい。涙を流さないから感情がない? 仲間外れ? 私からしたらそんなことでしか人の価値を測れないあなたたちの方がよっぽど不気味よ。私は奈美が好きだから一緒にいたい。ただそれだけなの。くだらない理由で邪魔をするのはやめて。」
この力強い言葉に、いじめっ子は半ばあきれた様子で教室を去っていった。申し訳ない。こんなに自分のことを思ってくれる人を、助けようとする勇気すらない自分が情けなかった。そんな思いからすぐにその場を離れようとする。二、三歩進むと後ろから
「盗み聞きなんて趣味わるいな~。助けに来てくれたらよかったのに。」
そう聞こえ振り向く。想像とは裏腹、そこには穏やかな表情の彼女がいた。少し腫れぼったい顔面が、彼女がされたことを物語っていた。申し訳なさと逃げ出したい気持ちの天秤の傾く向きなど、考えるまでもなかった。気づいたら歩実を強く抱きしめていた。
「ごめんね、ごめんね。」
私から出てくるのはこの一言だけだった。
今考えてみれば、二人が「友達」になったのはこの時だったのかもしれない。
それからというもの、私たちは二人で過ごす時間も増え、いつしか後にも先にも出会えないほどお互いにとって心地よい、大切な存在となっていた。
こういった間柄を俗に親友と呼ぶのだろう。
「この子だけは他の何を捧げてでも守りたい。」
そんな風に思えたのも彼女が初めてだった。
「何ボーッとしているのよ。昔のことでも思い出していたの?」
なんて勘の鋭い女だ。と思いつつも彼女の声で我に返る。今後の生活に対しては一縷の不安もない。なにせ私の進学先は家の最寄りから乗り換えなしで30分弱と近く、この歩実と同じところに通うことが決まっているからだ。どんなことが待ち受けても二人なら乗り越えられる。そう信じていた。
この平穏な、悪く言えば無色透明な日々が、あんなに鮮やかに時に物悲しく彩られることなど、私たちは知る由もなかった。
卒業を迎えてからの一か月は信じられないほどあっという間に過ぎた。楽しい時間はすぐに過ぎていくというのは本当なのかもしれないなと改めて感じた。とはいえ、楽しいことと言えば家族で行った北陸旅行と、歩実と二、三回遊んだくらいで残りの時間は入学に際した学校の課題に虚しくも削り取られてしまった。
普通なら、新しい環境に飛び込んでいくのには不安や緊張がつきものである。だが対して深く付き合う気もない群衆との出会いには期待も不安もない。そして何より、隣で未だかつて見たことがないほど手足を同時に動かされては、笑いをこらえるのに必死で緊張どころではない。
「何をそんなに緊張しているの?」
少し馬鹿にするように問う。
「あんたね、この出会いが最後のチャンスかもしれないの。第一印象が全てを決めるの。」
目的それかよ。と突っ込みたくもなるがここまで真剣な眼差しを向けられては無下にもできず、
「そうね。」と適当に返しておく。そんなこと初めから期待していない私からすれば、毎朝流れる芸能人の不倫報道と変わらないほどどうでもよかった。
そうこうしているうちに、我が明宵大のシンボルとして有名なカエルともアヒルともとれる謎の銅像の前にたどり着いた。何の所縁があるのかは知らないが、どうやらこの像はアヒルがモチーフらしい。本当は無視してもよいのだが、せっかくだからと写真くらいは撮っておき、数年前に改築されたばかりだという新品さながらの校舎へと向かう。
当たり前だが周りは皆スーツ姿で溢れ返り、何の面白みもない光景だ。することもなく立ち尽くしていると、十人弱ほどの男女グループが目に入る。
そういったグループ、いわゆるスクールカースト上位組は一番苦手だ。皆、高校時代の校則を恨むかの如く髪は金に染まり、体にはいくつかの光る装飾物がつけられている。それがオシャレだと思っているのならばとんだ勘違いではなかろうか、とまで思う。
そんな中に一人、異質な存在を目にしてしまった。髪は純潔の黒。スーツ選びも、彼らとは似ても似つかないほどシンプル、悪く言えば地味。それでも彼はそのグループの一員として確かにそこにいた。これは世にいうギャップ萌えなるものなのだろうか、否。そこには確かな違和感があった。彼からは、どこか私と似たにおいがする。
「ね、あのひと・・・」
「奈美、見てみて、あの人すごくタイプ!彼女いるのかな~。」
ダメだ、こうなった歩実は役に立たない。この場では、ひとまず胸に収めておくことにした。
適当な相槌を打ち躱そうとするも、スイッチを入れた彼女は止まらない。
「あんたも少しくらい興味持ちなよ。それじゃ一生独身よ。」
そんなことを言われても、興味がないのだから仕方ない。私には程遠い話だ。むしろ、このまま一人で生きていく方が自然だとすら感じている。それくらいの覚悟は、とうの昔に出来ていたことなど言うまでもない。
そんな風に思っていたのは、この時までだったのかもしれない。
私の心にわずかな変化がもたらされたのは、それからほんの数週間後のことだ。
あのスクールカースト上位組は、どうやら同じ学部だったようで、蓋を開けてみればほぼ全ての授業を共に受けるという私にとってこれ以上ない惨状であった。とはいえ大学の授業ではほかの生徒との関わりなど皆無であり、そこにはただ私の苦手な空気と、あの時感じたそこはかとない違和感だけが存在していた。この違和感の正体は一体何なのだろうか。それを突き止めるべく、彼らのことを観察してみることにした。教授のよくわからない、つまらない冗談が時折挟まるだけの講義は、そうするのに最適ともいえる環境だ。無論、それぞれの顔と名前など憶えているはずない。ただ、一人だけ信じられないほど教授のギャグへの食いつきがよい男がおり、周りからはタクと呼ばれている。そして、そんな彼とは対照的に、真面目過ぎるほどにレジュメやパワーポイントに向き合い、歯が露出するのは発言時のみ、何を楽しみに生きているのかさえ予測できない男。彼らのいずれかが、私が感じる違和感の起点なのは間違いない。彼ら以外には特段目立った特徴は見当たらないのだ。ただ一つ、忘れてはいけないことがある。そう、そのグループは皆須らく派手な装いなのに対し、一人だけはごくシンプルな、いわば量産型大学生ファッションを身にまとっているのだ。それは、後述した彼だ。
「なんであの子だけあんなに地味なカッコなのかね。ま、私はあれ嫌いじゃないけど。どこか浮いているよね。」
私の心を見透かすように、歩実が呟いた。やはりこの見た目のミスマッチさこそが、この違和感の正体なのだろう。そう結論付けることにした。もしそうなのならば、なぜ彼はあのグループの一員なのだろうか。その疑問だけを残しこの研究はお開きとなる。はずだった。
それからまた数日後のこと。奈美が休むということで、私は久しぶりに一人でこの憂鬱な一日を乗り越えなければならなくなった。とはいえ一人は慣れっこで、この状況はもはやどこか懐かしく、落ち着く環境ですらある。おしゃべりな奈美が休みとあって、信じられないスピードで片付いた課題。それを横目に今日も、安さだけが取り柄の学食の一番人気、からあげ丼を頬張る。一杯350円で4つのからあげ。ソースが4種類から選べるため毎日飽きること無く楽しめる、学生にはうってつけのメニューだ。さすがに一人での食事はどこか物足りない。何の会話もなく、ただ口に物を運ぶそれは、もはや「作業」であった。
「今日は一人なの?」
後方から、全く耳馴染みのない声。な、何事だ。私なんかに話しかけるなんて、物好きもいるものだ。と思いつつ、「うん。」と目もむけず素っ気なく返す。するとあろうことか、その声の主は私の隣に腰かけた。誰かと思い顔をあげると、そこには地味ファッション違和感ボーイがいた。
「冷たいなあ。いつも同じ授業受けているのに。」
そう呟く彼には目もくれず、二口目に差し掛かろうとしたその時、彼は私の手を取り
「寂しくないの?」と問いかけた。私にとってこれ以上なく核心をつく質問だが、珍しくそこまでの嫌悪感もなく
「別に。慣れてるから。」と返すと、彼はそれ以上詮索しようとはしなかった。あの頃以来、この段階で躓かなかったのは彼と歩実だけだ。いや、歩実は躓きをもろともしなかった強い女だ。とかく、こんなにすんなりと受け入れられそうな雰囲気の人との出会いは久方ぶりだった。
彼は見かけによらず好奇心旺盛で、私を質問攻めにした。しかしそのどれもが、私にとって一切答えづらさを含まないものだった。初めは面倒だったのだが少しずつ、心地よささえ感じる時間となっていった。一つだけ気になることは、会話の弾み具合に見合わない、彼の無表情さだった。
「そういえばさ、いつもあの金髪の子たちと一緒だよね。あの子たちとはどういう?」
ついに私から球を投げる。
「あいつらは高校から一緒。俺にとって唯一の理解者。実は俺、昔少し不登校気味だったんだ。」
その返答には少し驚いた。が、これくらいのことは現代社会においてそう珍しくはない。しかし彼は続けた。
「俺さ、笑ったことないんだよ。それが原因で周りから敬遠されてさ。一時期どうしたらいいかわからずにふさぎ込んでいたんだ。あいつらだけだったよ、家来てまで連れ出そうとしてくれたのは。あいつらがいなかったら俺は今ここにいれてない。あいつらさ、必死こいて毎日俺を笑わそうとしてくるんだよ。笑っちゃうよな。でもほんとに感謝している。」
そう言った彼の顔は真剣だった。でも、私にも伝わるほどに、その表情には嬉しさと幸せが含まれていた。
まさか似たような境遇の人と出会えるなんて、夢にも思わなかった。私は今まで泣くことのできない人生を送ってきた。この辛さは誰にもわからないだろうと自負できる。だが私もまた、笑うことのできない人生を送ってきた彼の辛さをわかってあげることはできないと思った。
だから軽々しく、私も似た境遇にあるのだと告白することはできなかった。そして、彼の痛みだけはわかってあげられる人になりたいと、自分のことは胸の奥にしまい込むことにした。
この一件をきっかけに、私たちは距離を急速に縮めた。いつも奈美と二人だった登下校や空きコマも、彼らの存在が新しい色を付け、想像していたよりも遥かに鮮やかに彩られていった。「彼」は一哉という名前だった。一哉はいつも、タクと行動を共にしていた。そうして自然に、タク、カズ、ナミ、アユ、という実に語感のいい四人組が結成された。
タクとアユは馬が合うのか、端から見たらまるでカップルのようだった。というか、私たちも気づかぬうちに、自然とカップルになっていた。だがそのことが四人の関係性を崩すことはなく、四人でいるときは本当に幸せな時間だった。だが唯一の懸念点は、私の心の中にあった。私は未だに、抱えた闇について打ち明けることができていなかった。普通の友達なら打ち明けるのは簡単なはずだった。嫌われるのが怖くて、先延ばしにしてしまっていた。そうしているうちに、私が彼に抱いていた気持ちは、淡く、切ない恋心へと変わってしまっていた。
もちろん歩実には伝えている。彼女は私の唯一無二で、一番の理解者だ。彼女は決して、私に打ち明けることを強いたりはしなかった。それは彼女のやさしさであった一方で、私にとっては背中を押す存在を失うという残酷な選択にもなってしまっていた。
こうした小さなズレはいずれ人と人との間に大きな歪みを生むのだということを私たちは知らなかった。それ故、私は私の過去と向き合うことから目を背けてしまった。
四人で水族館に行った帰りの日のことだった。その日タクとアユはやけに二人先走り、やや不自然に私とカズを二人きりにしようとした。余計なことを。とも思ったが悪いことではなかった。いつも通り、他愛のない会話を何の邪魔もなく交わせたその時間は、私にとっては幸せをもたらすものでしかなかった。どんな話したかな、なんて思い出していると、アユは唐突に、
「いつ告白するつもりなの?」と聞いてきた。確かに彼のことは好きだが、彼に真実を伝えていない私にその資格があるとは思えなかった。かといって彼に打ち明けるのは怖く、とてもそんな気にはなれなかった。
「そんなことできないよ。」と返す。
「もうさ、打ち明けたらいいじゃない。私たちの仲、そんなことで崩れること無いわ。」そんなことはわかっていた。
「そんな簡単なことじゃないよ。」
「なんでよ、カズだって受け入れてくれるはずよ。」
「そんな保証どこにもないじゃない。」
「でも、このままじゃ前に進めない。このままじゃ嫌でしょ。」
「嫌だよ。そんなことわかるよ。でも私にとってそんなに簡単に決められることじゃないことくらいわかって。」
「十分わかっているつもりよ。」
「何もわかってない。あなたに私の気持ちなんてわからないでしょ!」
つい語尾を強めてしまった。
「そう、そこまで言うならもうあなたなんて知らない。」
歩実はそう言って、来た道を戻っていった。すぐに引き止めれば間に合う距離だったが、私にはそれができなかった。
最低だ。全部自分が悪いのに。出会ったあの時から、ずっと傍で支えてくれた人に対して放つべき言葉ではないことくらいわかっている。だから余計自分に腹が立った。自分は恋愛なんてしていい人間じゃなかったのだ。また少し、自分を嫌いになった。行き場のない怒りと悲しみをどうしていいかわからず、気付いたら私は海岸にたどり着いていた。こんな時に限って星はよく見え、タイミング悪く月も満ちていた。私の心と真逆の空模様に、また少し絶望感が増す。いっそこのまま海に、なんて考えもしたが、そんな勇気があるわけもなく、ただそこには悲しみが積もるだけだった。
「ナミ! おいナミ! 何してるのそんなとこで?」
ああ、今一番聞きたくなかった声だ。逃げだしたい気持ちは山々だったがそうするわけにもいかない。涙さえ流していない私がこの状況で何をしているのか、私の身に何が起きたのかなど彼に推測できるはずはない。
彼には何の非もないことは確かだが、アユとのいざこざの発端も、まごうことなく彼であった。どちらも私にとっては大切な人だ。だから今だけは、その事から目を背けたかった。
「何しているんだよ、そんなところで。」
彼がこの場に現れてしまった以上、そういうわけにもいかない。何も悟られることのないよう、気丈に振る舞うよう努めた。これが私に今できる全てだった。だが、語るまでもなく当たり前だった光景の変化に伴う違和感は、そう簡単に拭いきれるものであるはずがなかった。
「そういえば、アユは? 一緒にいないなんて珍しいな。」
この一言をやり過ごす術は私には残されていない。彼もまた、私たちの親友の一人だ。意を決し、私は語る。
「今まで言ってなかったことがある。私ね、泣いたことがないの。人生で一度も。というか、泣けない身体に生まれてきてしまったみたい。それが原因で、今まで数えきれないほどの人たちから遠ざけられてきた。アユだけは唯一、私の味方でいてくれた。そしてみんなと出会えたの。アユは私の背中を押してくれたの。『カズならわかってくれる』って。でも私が臆病だったから、勇気が出せなかったから、アユの言うことを信じてあげられなかったの。」
こんな時でさえ流れてくることのない涙に半ば呆れ、「こんな時くらい…」と呟く。
「そんなことで悩んでいたのか。俺には言ってくれてもよかったじゃないか。俺、ナミの気持ち痛いほどわかるよ。俺、今なら自信持って言える。どんな環境で育とうが、できないことがあろうが、その人がその人であることは変わらない。ナミはそのままでいい。もしそれを知ったって、ナミが生きていることの価値は変わらない。ナミが泣きたいときは俺が代わりに泣いてやる。だからこれからは、俺が楽しい時、俺の代わりに笑っていてくれよ。タクなら大丈夫だ。俺を助けてくれた男だぜ?」
嬉しかった。そうだ、この悩みを抱えているのは私だけじゃない。そう思えただけで生きる希望が湧いてきた。明日、ちゃんとアユに謝ろう。そして、アユと仲直りした後、ちゃんと彼に思いを伝えよう。
それから数日後、四人はすっかり日常を取り戻していた。そして、この何気ない日常がどれだけ尊いものなのか嫌でも実感させられた。結局、未だに彼に思いを告げることは出来ていない。それは私の勇気云々の問題ではなかった。なんて間の悪さだろうか。だがタイミングがないとあってはどうすることもできずただ過ぎ去っていく毎日を見送ることしか出来なかった。
最もヤキモキしていたのは言うまでもなくアユであった。
タイミングというのは突然やってくる。授業の関係上、カズと唯一二人きりになることが出来るのは木曜日。そしてそれは今日だった。幸い彼も今日ばかりは予定がなく、食事を共にできることになっていた。
相も変わらず大学生らしい、なんの他愛もない会話が長々続く。いつもは心地よくあるこの空気感も今日ばかりは煩わしいものでしかなかった。
「あのさ。」意を決し切り出す。何も知らない彼は驚いたようだがそんなことは気にしていられない。
「あんたあの時、『ナミの代わりに俺が泣く、俺の代わりに笑ってくれ』って言ったよね。あれ、お断りする。私はあんたと一緒に泣きたい。一緒に笑いたい。これから先もっと色々な人、景色、感情に出会えると思うの。それ全部、あんたと共有したい。」
「でも…」
「あんたが笑えないとか、私が泣けないとか、そんなこと関係ない。私はあんたにいっぱい助けられた。色んな物を与えてもらった。だからこれからは、私が少しずつ返していきたい。ずっと傍にいて、いつか私があんたを助けてあげたい。こんな気持ちになったのは初めてなの。それくらい、一哉のことが大好きなの。」
全部言い切った。正面の彼は、かつてない真剣な表情を浮かべていた。そして、
「強くなったね。嬉しい。今ナミがくれた言葉全部。そしてそれを真っ直ぐ伝えてくれたこと。後出しでカッコ悪いけど、俺も同じ気持ちだよ。」
嬉しかった。そして何より驚いた。それは彼が私と同じ気持ちだったことではない。
今まで感じたことのない温もりが頬を伝っていた。そしてその驚きは、彼もまた感じていた。
「え、ナミ、泣いてる、泣いてる!」
私の初めての涙を自分のことのように喜んでくれる彼が何より愛おしかった。そして彼もまた、今まで浮かべたことのない素敵な笑顔を見せた。
「カ、カズも…笑ってる。」彼がそうだったように、私も自分のことのように嬉しかった。そして私たちは、笑顔とも泣き顔ともとれる表情で見つめあう。
「ちゃんと言うね。奈美のことが好き。俺と付き合おう。そして、ずっと一緒にいてください。」
「はい。」
こうして二人はかけがえのないパートナーとなった。そして、四人の仲は結婚した今でも変わることはない。アミとタクは相変わらず明るく二人らしい家庭を築き、私たちもまた、人並みに幸せな日々を過ごしていた。こんな今があるのも、全てはみんなに出会えたからだった。
アミはいつも側にいた。どん底の私に手を差し伸べ、温かく見守り続けてくれた。出会えていなかったらと思うとゾッとする。タクはいつも私たちを笑わせてくれた。彼がいなかったら私の大学生活での笑顔は半分になるだろう。そしてカズ。彼に出会えて私は沢山の知らない感情に出会えた。彼との出会いを境に、無機質だったはずの世界が鮮やかに色づいていった。彼と出会っていなければ、痛みを共有できる人には一生出会えなかったかもしれない。間違い探しの正解の方では、きっと出会えなかったと思う。この三人と出会えたことは、私の数少ない誇りだ。彼らと刻んだ数々の思い出は、私のかけがえのない宝物だ。
私たち夫婦には結婚記念日より、お互いの誕生日より、何より大切にしている日がある。それは、私が人生で初めて告白をした日。私たちが付き合い始めた日。彼が初めて「好き」だと言ってくれた日。私が人生で初めて涙を流した日。
それはすなわち、彼が初めて笑った日。
ふとイヤホンを耳にさす。選曲を機械に任せると、流れたのは私の大好きな曲だった。なぜこの曲が好きなのか? そう聞かれても返答には困ってしまう。好きなアーティストが歌っているわけではなく、大衆に人気のあるわけでもない。歌詞、曲調、声質、どれをとっても特段優れているわけではなく、ただ登下校中の私の耳には程よく心地いいだけの曲だ。
「なんでこの曲なのだろう。」
そんなことを考えながら歩くと、あっという間に3分43秒が過ぎ、今度は記憶に新しいピアノの旋律が流れ出した。それと同時に、私の脳裏に思い出したくもない数多の記憶が蘇るのだった。
私は生まれてこの方、涙を流したことがない。というより、涙を流せない身体に生まれた。それでも幼いころはこのことを不自由に思ったことはなかった。転んで痛かった時も、兄と喧嘩したときも、引っ越しで幼馴染と離れ離れになった時も、私の瞳から雫が落ちたことはなく、そのたびに私は“強い子”と褒め、慰められた。親からも信頼され過度に干渉されることはなかったため、やりたいことをやり、食べたいものを食べ、部活や進学先なども不自由なく決めさせてもらえた。
しかし、時間と成長は残酷だった。同級生は少しずつ私が泣かないことに疑問を持ち、それはあるとき好奇の対象になった。
小学校の卒業式の日。無論私はその日も涙を流さなかった。周りで号泣し抱き合っている姿に、混ざっていくことはできなかった。「寂しくないわけ?」
ある友達からかけられた一言。傷つかなかったわけではないが何も言えなかった。返す言葉が見つからなかったのだ。
中学2年の体育祭の日のこと。私のクラスは優勝に向け団結力を見せ、最終種目のクラスリレーを迎えた。最下位にさえならなければ優勝は間違いない。そしてバトンはアンカーである私の元へ繋がれた。はずだった。練習で一度もミスのなかったバトンパス。こんな時に限ってバトンが手につかなかった。生憎レースはかなりの混戦であり、このミスが命取りとなりクラスは優勝を逃してしまった。誰もが優勝を信じて疑わなかっただけに、落胆は大きかった。当然私の身には大きな責任がのしかかる。ショックも大きかった。にもかかわらず涙だけは、流れてくれることはなかった。せめて涙さえ流れていれば、慰めの一つや二つはあったことだろう。だから私は教室に帰るのを避けるため、体調不良を訴え保健室に籠った。これが逆効果だったのだろうか、翌日から私はクラスの腫れもの扱いを受けた。それはいじめというには程度が低く、親や教師に相談するほどでもなかった。決して気分がいいものではないが、別に気にするまでもなかった。というよりかは、気にしないふりをするほうが楽だった。
「私は感情のないロボットだ。」
そう言い聞かせ、できる限り対人関係を断つことが、平常でいられるたった一つの道だった。
「おーい、奈美!!」
イヤホン越しでも悠に聞き取れる、この大きくて甲高い声。
歩実であることは疑うまでもなかった。
「なんだ、歩実か。」
そう返すと、
「『なんだ』じゃないでしょ、なんで先に帰っちゃうのよ!」と怒った様子で言われる。
「だってあの場にいてもしょうがないでしょ。別に高校に思い入れなんてないしそれに・・」
「泣けるわけでもないものね。」
言い切る前に、歩実に遮られる。そう、私にとって彼女が唯一の理解者だった。
私たちの出会いはおよそ四年前、中三のクラス替え辺りだっただろうか。
クラス替えは、私の周りの環境になんの影響も及ぼすことはなかった。それどころか私への迫害行為は、拡大する一方であった。
とある日の朝。この日もいつも通り。私が教室に入ると、まるで吹雪でも吹いたように場の空気が凍り付く。もちろん私に声をかけようと近づいてくる人など存在しない。ああ、今日も始まったか。ため息を一つ付き窓際の自分の席に着くと、ポンポンッと後ろから肩をたたかれる。振り向く前に耳元で囁く。「ねえ、あなたいじめられてない?」
とんでもない豪速球だな。と思う気持ちを抑え、
「もう慣れたよ。あなたも私なんかと関わらない方がいいわ。」
そう返すと、
「そんなのだめよ。早く先生に相談するべきじゃない。」
冗談じゃない。そんなことをして大事にでもなれば逆に生き辛くなることは目に見えていた。お節介な女だ。そう思いつつも、私は少しだけ、その気持ちが嬉しくもあった。
「ありがとう、でも本当に大丈夫だから。」久しぶりに、素直な気持ちを曝け出せた気がした。そんな私を見かねたのか、
「そう。でも見て見ぬふりはしたくない。相談したくなったらいつでも言ってね。」
とだけ言い、携帯の画面を見せられる。そこには一ノ瀬歩実というアカウント名と、登録コードが綴られていた。この日、二人は「ともだち」になった。
それからというもの、歩実は毎日のように話しかけてきた。彼女は底抜けに明るい。そして異常なまでに正義感が強い。そんな歩実の気概に根負けしてか、いつしか私たちは行動を共にするようになった。それどころか、いつの間にか私は、彼女の存在を心の拠り所にしていた。
学校生活を楽しめる感覚は久々だった。今まで義務として通った一人ぼっちの通学路は気が付けば、二人の楽しみな時間として、自らの意思で通えるようになった。
久しぶりに訪れた、平穏で楽しいキラキラした学校生活。そんな日々が続くことが私に許されることなんてあるはずはなかった。
ある日の放課後のこと。いつも一緒に帰っている歩実から、予定があるから先に帰っていてくれと頼まれた。不思議に思う由もなく、久々の一人道を歩く。嫌な予感などは全くなかったのだが、こういう時に限って、教室においてきぼりの忘れ物に気付く。大したものでなければ見過ごすこともできたのだが、翌日提出の宿題とあってはそうするわけにもいかず、いつもより多く曲が聞けることだけを楽しみに、学校に戻った。
学校を目前にして、何か嫌な空気が漂う。それを助長するかのように、耳からは暗いバラード調のイントロ。胸騒ぎがして、いつもは行きたがることなどない教室へ急ぐ。
「何するのよ!」
聞こえてきたのは、どんな曲よりも耳になじむ、あの声。
中を覗くことはできないが、その声や物音の様子から、歩実の身に 何か良からぬことが起こっていることは容易に推測できた。
「なんであんな女の肩持つような真似するのよ。あの子には人と同じ感情がないの。何したって泣かないのよ。卒業式の日も、運動会で負けた日も、私たちに悪口言われても、無視されても。そんな不気味な子といて気持ち悪くないの? あなたの神経がわからない。あの子はクラスの目の敵。そんな子の味方になんてついて、どうなるかわかっているわよね?」
「関係ないよ。あんたが今言ったこと全部、私が奈美と離れる理由になんてならない。それに彼女に感情がないなんてことあるはずないじゃない。だって彼女は笑うし、怒るし、悲しいときは悲しい。涙を流さないから感情がない? 仲間外れ? 私からしたらそんなことでしか人の価値を測れないあなたたちの方がよっぽど不気味よ。私は奈美が好きだから一緒にいたい。ただそれだけなの。くだらない理由で邪魔をするのはやめて。」
この力強い言葉に、いじめっ子は半ばあきれた様子で教室を去っていった。申し訳ない。こんなに自分のことを思ってくれる人を、助けようとする勇気すらない自分が情けなかった。そんな思いからすぐにその場を離れようとする。二、三歩進むと後ろから
「盗み聞きなんて趣味わるいな~。助けに来てくれたらよかったのに。」
そう聞こえ振り向く。想像とは裏腹、そこには穏やかな表情の彼女がいた。少し腫れぼったい顔面が、彼女がされたことを物語っていた。申し訳なさと逃げ出したい気持ちの天秤の傾く向きなど、考えるまでもなかった。気づいたら歩実を強く抱きしめていた。
「ごめんね、ごめんね。」
私から出てくるのはこの一言だけだった。
今考えてみれば、二人が「友達」になったのはこの時だったのかもしれない。
それからというもの、私たちは二人で過ごす時間も増え、いつしか後にも先にも出会えないほどお互いにとって心地よい、大切な存在となっていた。
こういった間柄を俗に親友と呼ぶのだろう。
「この子だけは他の何を捧げてでも守りたい。」
そんな風に思えたのも彼女が初めてだった。
「何ボーッとしているのよ。昔のことでも思い出していたの?」
なんて勘の鋭い女だ。と思いつつも彼女の声で我に返る。今後の生活に対しては一縷の不安もない。なにせ私の進学先は家の最寄りから乗り換えなしで30分弱と近く、この歩実と同じところに通うことが決まっているからだ。どんなことが待ち受けても二人なら乗り越えられる。そう信じていた。
この平穏な、悪く言えば無色透明な日々が、あんなに鮮やかに時に物悲しく彩られることなど、私たちは知る由もなかった。
卒業を迎えてからの一か月は信じられないほどあっという間に過ぎた。楽しい時間はすぐに過ぎていくというのは本当なのかもしれないなと改めて感じた。とはいえ、楽しいことと言えば家族で行った北陸旅行と、歩実と二、三回遊んだくらいで残りの時間は入学に際した学校の課題に虚しくも削り取られてしまった。
普通なら、新しい環境に飛び込んでいくのには不安や緊張がつきものである。だが対して深く付き合う気もない群衆との出会いには期待も不安もない。そして何より、隣で未だかつて見たことがないほど手足を同時に動かされては、笑いをこらえるのに必死で緊張どころではない。
「何をそんなに緊張しているの?」
少し馬鹿にするように問う。
「あんたね、この出会いが最後のチャンスかもしれないの。第一印象が全てを決めるの。」
目的それかよ。と突っ込みたくもなるがここまで真剣な眼差しを向けられては無下にもできず、
「そうね。」と適当に返しておく。そんなこと初めから期待していない私からすれば、毎朝流れる芸能人の不倫報道と変わらないほどどうでもよかった。
そうこうしているうちに、我が明宵大のシンボルとして有名なカエルともアヒルともとれる謎の銅像の前にたどり着いた。何の所縁があるのかは知らないが、どうやらこの像はアヒルがモチーフらしい。本当は無視してもよいのだが、せっかくだからと写真くらいは撮っておき、数年前に改築されたばかりだという新品さながらの校舎へと向かう。
当たり前だが周りは皆スーツ姿で溢れ返り、何の面白みもない光景だ。することもなく立ち尽くしていると、十人弱ほどの男女グループが目に入る。
そういったグループ、いわゆるスクールカースト上位組は一番苦手だ。皆、高校時代の校則を恨むかの如く髪は金に染まり、体にはいくつかの光る装飾物がつけられている。それがオシャレだと思っているのならばとんだ勘違いではなかろうか、とまで思う。
そんな中に一人、異質な存在を目にしてしまった。髪は純潔の黒。スーツ選びも、彼らとは似ても似つかないほどシンプル、悪く言えば地味。それでも彼はそのグループの一員として確かにそこにいた。これは世にいうギャップ萌えなるものなのだろうか、否。そこには確かな違和感があった。彼からは、どこか私と似たにおいがする。
「ね、あのひと・・・」
「奈美、見てみて、あの人すごくタイプ!彼女いるのかな~。」
ダメだ、こうなった歩実は役に立たない。この場では、ひとまず胸に収めておくことにした。
適当な相槌を打ち躱そうとするも、スイッチを入れた彼女は止まらない。
「あんたも少しくらい興味持ちなよ。それじゃ一生独身よ。」
そんなことを言われても、興味がないのだから仕方ない。私には程遠い話だ。むしろ、このまま一人で生きていく方が自然だとすら感じている。それくらいの覚悟は、とうの昔に出来ていたことなど言うまでもない。
そんな風に思っていたのは、この時までだったのかもしれない。
私の心にわずかな変化がもたらされたのは、それからほんの数週間後のことだ。
あのスクールカースト上位組は、どうやら同じ学部だったようで、蓋を開けてみればほぼ全ての授業を共に受けるという私にとってこれ以上ない惨状であった。とはいえ大学の授業ではほかの生徒との関わりなど皆無であり、そこにはただ私の苦手な空気と、あの時感じたそこはかとない違和感だけが存在していた。この違和感の正体は一体何なのだろうか。それを突き止めるべく、彼らのことを観察してみることにした。教授のよくわからない、つまらない冗談が時折挟まるだけの講義は、そうするのに最適ともいえる環境だ。無論、それぞれの顔と名前など憶えているはずない。ただ、一人だけ信じられないほど教授のギャグへの食いつきがよい男がおり、周りからはタクと呼ばれている。そして、そんな彼とは対照的に、真面目過ぎるほどにレジュメやパワーポイントに向き合い、歯が露出するのは発言時のみ、何を楽しみに生きているのかさえ予測できない男。彼らのいずれかが、私が感じる違和感の起点なのは間違いない。彼ら以外には特段目立った特徴は見当たらないのだ。ただ一つ、忘れてはいけないことがある。そう、そのグループは皆須らく派手な装いなのに対し、一人だけはごくシンプルな、いわば量産型大学生ファッションを身にまとっているのだ。それは、後述した彼だ。
「なんであの子だけあんなに地味なカッコなのかね。ま、私はあれ嫌いじゃないけど。どこか浮いているよね。」
私の心を見透かすように、歩実が呟いた。やはりこの見た目のミスマッチさこそが、この違和感の正体なのだろう。そう結論付けることにした。もしそうなのならば、なぜ彼はあのグループの一員なのだろうか。その疑問だけを残しこの研究はお開きとなる。はずだった。
それからまた数日後のこと。奈美が休むということで、私は久しぶりに一人でこの憂鬱な一日を乗り越えなければならなくなった。とはいえ一人は慣れっこで、この状況はもはやどこか懐かしく、落ち着く環境ですらある。おしゃべりな奈美が休みとあって、信じられないスピードで片付いた課題。それを横目に今日も、安さだけが取り柄の学食の一番人気、からあげ丼を頬張る。一杯350円で4つのからあげ。ソースが4種類から選べるため毎日飽きること無く楽しめる、学生にはうってつけのメニューだ。さすがに一人での食事はどこか物足りない。何の会話もなく、ただ口に物を運ぶそれは、もはや「作業」であった。
「今日は一人なの?」
後方から、全く耳馴染みのない声。な、何事だ。私なんかに話しかけるなんて、物好きもいるものだ。と思いつつ、「うん。」と目もむけず素っ気なく返す。するとあろうことか、その声の主は私の隣に腰かけた。誰かと思い顔をあげると、そこには地味ファッション違和感ボーイがいた。
「冷たいなあ。いつも同じ授業受けているのに。」
そう呟く彼には目もくれず、二口目に差し掛かろうとしたその時、彼は私の手を取り
「寂しくないの?」と問いかけた。私にとってこれ以上なく核心をつく質問だが、珍しくそこまでの嫌悪感もなく
「別に。慣れてるから。」と返すと、彼はそれ以上詮索しようとはしなかった。あの頃以来、この段階で躓かなかったのは彼と歩実だけだ。いや、歩実は躓きをもろともしなかった強い女だ。とかく、こんなにすんなりと受け入れられそうな雰囲気の人との出会いは久方ぶりだった。
彼は見かけによらず好奇心旺盛で、私を質問攻めにした。しかしそのどれもが、私にとって一切答えづらさを含まないものだった。初めは面倒だったのだが少しずつ、心地よささえ感じる時間となっていった。一つだけ気になることは、会話の弾み具合に見合わない、彼の無表情さだった。
「そういえばさ、いつもあの金髪の子たちと一緒だよね。あの子たちとはどういう?」
ついに私から球を投げる。
「あいつらは高校から一緒。俺にとって唯一の理解者。実は俺、昔少し不登校気味だったんだ。」
その返答には少し驚いた。が、これくらいのことは現代社会においてそう珍しくはない。しかし彼は続けた。
「俺さ、笑ったことないんだよ。それが原因で周りから敬遠されてさ。一時期どうしたらいいかわからずにふさぎ込んでいたんだ。あいつらだけだったよ、家来てまで連れ出そうとしてくれたのは。あいつらがいなかったら俺は今ここにいれてない。あいつらさ、必死こいて毎日俺を笑わそうとしてくるんだよ。笑っちゃうよな。でもほんとに感謝している。」
そう言った彼の顔は真剣だった。でも、私にも伝わるほどに、その表情には嬉しさと幸せが含まれていた。
まさか似たような境遇の人と出会えるなんて、夢にも思わなかった。私は今まで泣くことのできない人生を送ってきた。この辛さは誰にもわからないだろうと自負できる。だが私もまた、笑うことのできない人生を送ってきた彼の辛さをわかってあげることはできないと思った。
だから軽々しく、私も似た境遇にあるのだと告白することはできなかった。そして、彼の痛みだけはわかってあげられる人になりたいと、自分のことは胸の奥にしまい込むことにした。
この一件をきっかけに、私たちは距離を急速に縮めた。いつも奈美と二人だった登下校や空きコマも、彼らの存在が新しい色を付け、想像していたよりも遥かに鮮やかに彩られていった。「彼」は一哉という名前だった。一哉はいつも、タクと行動を共にしていた。そうして自然に、タク、カズ、ナミ、アユ、という実に語感のいい四人組が結成された。
タクとアユは馬が合うのか、端から見たらまるでカップルのようだった。というか、私たちも気づかぬうちに、自然とカップルになっていた。だがそのことが四人の関係性を崩すことはなく、四人でいるときは本当に幸せな時間だった。だが唯一の懸念点は、私の心の中にあった。私は未だに、抱えた闇について打ち明けることができていなかった。普通の友達なら打ち明けるのは簡単なはずだった。嫌われるのが怖くて、先延ばしにしてしまっていた。そうしているうちに、私が彼に抱いていた気持ちは、淡く、切ない恋心へと変わってしまっていた。
もちろん歩実には伝えている。彼女は私の唯一無二で、一番の理解者だ。彼女は決して、私に打ち明けることを強いたりはしなかった。それは彼女のやさしさであった一方で、私にとっては背中を押す存在を失うという残酷な選択にもなってしまっていた。
こうした小さなズレはいずれ人と人との間に大きな歪みを生むのだということを私たちは知らなかった。それ故、私は私の過去と向き合うことから目を背けてしまった。
四人で水族館に行った帰りの日のことだった。その日タクとアユはやけに二人先走り、やや不自然に私とカズを二人きりにしようとした。余計なことを。とも思ったが悪いことではなかった。いつも通り、他愛のない会話を何の邪魔もなく交わせたその時間は、私にとっては幸せをもたらすものでしかなかった。どんな話したかな、なんて思い出していると、アユは唐突に、
「いつ告白するつもりなの?」と聞いてきた。確かに彼のことは好きだが、彼に真実を伝えていない私にその資格があるとは思えなかった。かといって彼に打ち明けるのは怖く、とてもそんな気にはなれなかった。
「そんなことできないよ。」と返す。
「もうさ、打ち明けたらいいじゃない。私たちの仲、そんなことで崩れること無いわ。」そんなことはわかっていた。
「そんな簡単なことじゃないよ。」
「なんでよ、カズだって受け入れてくれるはずよ。」
「そんな保証どこにもないじゃない。」
「でも、このままじゃ前に進めない。このままじゃ嫌でしょ。」
「嫌だよ。そんなことわかるよ。でも私にとってそんなに簡単に決められることじゃないことくらいわかって。」
「十分わかっているつもりよ。」
「何もわかってない。あなたに私の気持ちなんてわからないでしょ!」
つい語尾を強めてしまった。
「そう、そこまで言うならもうあなたなんて知らない。」
歩実はそう言って、来た道を戻っていった。すぐに引き止めれば間に合う距離だったが、私にはそれができなかった。
最低だ。全部自分が悪いのに。出会ったあの時から、ずっと傍で支えてくれた人に対して放つべき言葉ではないことくらいわかっている。だから余計自分に腹が立った。自分は恋愛なんてしていい人間じゃなかったのだ。また少し、自分を嫌いになった。行き場のない怒りと悲しみをどうしていいかわからず、気付いたら私は海岸にたどり着いていた。こんな時に限って星はよく見え、タイミング悪く月も満ちていた。私の心と真逆の空模様に、また少し絶望感が増す。いっそこのまま海に、なんて考えもしたが、そんな勇気があるわけもなく、ただそこには悲しみが積もるだけだった。
「ナミ! おいナミ! 何してるのそんなとこで?」
ああ、今一番聞きたくなかった声だ。逃げだしたい気持ちは山々だったがそうするわけにもいかない。涙さえ流していない私がこの状況で何をしているのか、私の身に何が起きたのかなど彼に推測できるはずはない。
彼には何の非もないことは確かだが、アユとのいざこざの発端も、まごうことなく彼であった。どちらも私にとっては大切な人だ。だから今だけは、その事から目を背けたかった。
「何しているんだよ、そんなところで。」
彼がこの場に現れてしまった以上、そういうわけにもいかない。何も悟られることのないよう、気丈に振る舞うよう努めた。これが私に今できる全てだった。だが、語るまでもなく当たり前だった光景の変化に伴う違和感は、そう簡単に拭いきれるものであるはずがなかった。
「そういえば、アユは? 一緒にいないなんて珍しいな。」
この一言をやり過ごす術は私には残されていない。彼もまた、私たちの親友の一人だ。意を決し、私は語る。
「今まで言ってなかったことがある。私ね、泣いたことがないの。人生で一度も。というか、泣けない身体に生まれてきてしまったみたい。それが原因で、今まで数えきれないほどの人たちから遠ざけられてきた。アユだけは唯一、私の味方でいてくれた。そしてみんなと出会えたの。アユは私の背中を押してくれたの。『カズならわかってくれる』って。でも私が臆病だったから、勇気が出せなかったから、アユの言うことを信じてあげられなかったの。」
こんな時でさえ流れてくることのない涙に半ば呆れ、「こんな時くらい…」と呟く。
「そんなことで悩んでいたのか。俺には言ってくれてもよかったじゃないか。俺、ナミの気持ち痛いほどわかるよ。俺、今なら自信持って言える。どんな環境で育とうが、できないことがあろうが、その人がその人であることは変わらない。ナミはそのままでいい。もしそれを知ったって、ナミが生きていることの価値は変わらない。ナミが泣きたいときは俺が代わりに泣いてやる。だからこれからは、俺が楽しい時、俺の代わりに笑っていてくれよ。タクなら大丈夫だ。俺を助けてくれた男だぜ?」
嬉しかった。そうだ、この悩みを抱えているのは私だけじゃない。そう思えただけで生きる希望が湧いてきた。明日、ちゃんとアユに謝ろう。そして、アユと仲直りした後、ちゃんと彼に思いを伝えよう。
それから数日後、四人はすっかり日常を取り戻していた。そして、この何気ない日常がどれだけ尊いものなのか嫌でも実感させられた。結局、未だに彼に思いを告げることは出来ていない。それは私の勇気云々の問題ではなかった。なんて間の悪さだろうか。だがタイミングがないとあってはどうすることもできずただ過ぎ去っていく毎日を見送ることしか出来なかった。
最もヤキモキしていたのは言うまでもなくアユであった。
タイミングというのは突然やってくる。授業の関係上、カズと唯一二人きりになることが出来るのは木曜日。そしてそれは今日だった。幸い彼も今日ばかりは予定がなく、食事を共にできることになっていた。
相も変わらず大学生らしい、なんの他愛もない会話が長々続く。いつもは心地よくあるこの空気感も今日ばかりは煩わしいものでしかなかった。
「あのさ。」意を決し切り出す。何も知らない彼は驚いたようだがそんなことは気にしていられない。
「あんたあの時、『ナミの代わりに俺が泣く、俺の代わりに笑ってくれ』って言ったよね。あれ、お断りする。私はあんたと一緒に泣きたい。一緒に笑いたい。これから先もっと色々な人、景色、感情に出会えると思うの。それ全部、あんたと共有したい。」
「でも…」
「あんたが笑えないとか、私が泣けないとか、そんなこと関係ない。私はあんたにいっぱい助けられた。色んな物を与えてもらった。だからこれからは、私が少しずつ返していきたい。ずっと傍にいて、いつか私があんたを助けてあげたい。こんな気持ちになったのは初めてなの。それくらい、一哉のことが大好きなの。」
全部言い切った。正面の彼は、かつてない真剣な表情を浮かべていた。そして、
「強くなったね。嬉しい。今ナミがくれた言葉全部。そしてそれを真っ直ぐ伝えてくれたこと。後出しでカッコ悪いけど、俺も同じ気持ちだよ。」
嬉しかった。そして何より驚いた。それは彼が私と同じ気持ちだったことではない。
今まで感じたことのない温もりが頬を伝っていた。そしてその驚きは、彼もまた感じていた。
「え、ナミ、泣いてる、泣いてる!」
私の初めての涙を自分のことのように喜んでくれる彼が何より愛おしかった。そして彼もまた、今まで浮かべたことのない素敵な笑顔を見せた。
「カ、カズも…笑ってる。」彼がそうだったように、私も自分のことのように嬉しかった。そして私たちは、笑顔とも泣き顔ともとれる表情で見つめあう。
「ちゃんと言うね。奈美のことが好き。俺と付き合おう。そして、ずっと一緒にいてください。」
「はい。」
こうして二人はかけがえのないパートナーとなった。そして、四人の仲は結婚した今でも変わることはない。アミとタクは相変わらず明るく二人らしい家庭を築き、私たちもまた、人並みに幸せな日々を過ごしていた。こんな今があるのも、全てはみんなに出会えたからだった。
アミはいつも側にいた。どん底の私に手を差し伸べ、温かく見守り続けてくれた。出会えていなかったらと思うとゾッとする。タクはいつも私たちを笑わせてくれた。彼がいなかったら私の大学生活での笑顔は半分になるだろう。そしてカズ。彼に出会えて私は沢山の知らない感情に出会えた。彼との出会いを境に、無機質だったはずの世界が鮮やかに色づいていった。彼と出会っていなければ、痛みを共有できる人には一生出会えなかったかもしれない。間違い探しの正解の方では、きっと出会えなかったと思う。この三人と出会えたことは、私の数少ない誇りだ。彼らと刻んだ数々の思い出は、私のかけがえのない宝物だ。
私たち夫婦には結婚記念日より、お互いの誕生日より、何より大切にしている日がある。それは、私が人生で初めて告白をした日。私たちが付き合い始めた日。彼が初めて「好き」だと言ってくれた日。私が人生で初めて涙を流した日。
それはすなわち、彼が初めて笑った日。
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