112 / 419
第5話
しおりを挟む
訥々と、違う、そうじゃない、あたしじゃない、と繰り返す。
田辺が向けた憐憫の眼差しに晒され、九重は、ギョロリとした面を上げ、おもむろに立ち上がる。嫌な予感がした。その瞳に映ることにすら嫌悪を抱く。
「お前らのせいだ......あたしから、研究を奪ったお前らのせいだ!あたしじゃない!あたしのせいじゃない!」
逃れる場所を失った精神が崩れようとしていた。ここにいたら、自分の身に危険が迫るかもしれない。
田辺は、九重から目を離さずに、後ろ手にドアノブを確認した。
「違います、九重さんのせいではありません!これは、九重さんの志を奪った人間が起こした悲劇です!どうか、気を保って下さい!」
「黙れ!アンタらは世間知らずだ!世の中から疎まれる恐ろしさを知らないだろう!居場所を奪われる恐怖を知らないだろう!あたしの研究が元で、こんな事件が起きたと知ったらどうなる!世間はこう言うだろうさ!あいつがあんな研究をしなければって!」
「そんなことは僕らがさせません!」
「あんたらに何が出来るってんだ!もう、遅いんだよ!何もかもが!」
九重は、踵を返して部屋の奥に消えた。乾いた風に吹かれたように胸がざわつく。
田辺は、土足のまま部屋に入り、両手で握り締めた包丁の刃先を向ける九重を見付けた。玄関までは、僅か数歩の距離だが、九重のギラついた双眸に見据えられ、両足が竦んでしまう。
「こ......九重さん、落ち着いて......落ち着いて僕の話を聞いて下さい」
田辺は、これほど心の底から落ち着けという言葉を使ったことはなかった。緊迫した状況は、人間から言葉と動き、思考を奪う。
宥めるように突き出した田辺の両手を目掛けて、横凪ぎに包丁を振るった九重は、狂乱した声で叫んだ。
「あたしは、もう終わりだ!これから先、生きていく希望すらない!」
「そんなことはありません!まずは、僕の話を聞いて......」
「この世界で一番恐ろしいのは人間だ!もう、あたしは誰も信じられない!」
九重は、包丁を頭上へと持ち上げる。その矛先が降ろされる箇所は、間違いなく一ヶ所だけだろう。田辺は渾身の力で叫喚する。
「やめろおおおおおおおおおおお!」
田辺は、生涯、この光景と、ピンと張った布を貫くような音を忘れることはないだろう。
九重は、自らの腹部に包丁の刃先を沈めた。吐血の量は、臓器の損傷を田辺に告げ、両足が弛緩し、田辺はその場にへたりこみ、九重の恨めしそうな両目と目線が重なる。尻餅をついたまま後ずさり、壁に背中がぶつかった。
近隣の住民が連絡したのか、騒ぎを聞き付けた警察が到着するまでの十分間、田辺は、瞼を落とすことなく見開かれた九重の眼球に見据えられ続けた。まるで、光が注がれない深い穴に放り込まれたような気分だった。
九州地方だけに限られた問題ではない。九重は、世間を恐れ、世間に殺された。
死とは、一体、誰のものなのだろうか。
田辺が向けた憐憫の眼差しに晒され、九重は、ギョロリとした面を上げ、おもむろに立ち上がる。嫌な予感がした。その瞳に映ることにすら嫌悪を抱く。
「お前らのせいだ......あたしから、研究を奪ったお前らのせいだ!あたしじゃない!あたしのせいじゃない!」
逃れる場所を失った精神が崩れようとしていた。ここにいたら、自分の身に危険が迫るかもしれない。
田辺は、九重から目を離さずに、後ろ手にドアノブを確認した。
「違います、九重さんのせいではありません!これは、九重さんの志を奪った人間が起こした悲劇です!どうか、気を保って下さい!」
「黙れ!アンタらは世間知らずだ!世の中から疎まれる恐ろしさを知らないだろう!居場所を奪われる恐怖を知らないだろう!あたしの研究が元で、こんな事件が起きたと知ったらどうなる!世間はこう言うだろうさ!あいつがあんな研究をしなければって!」
「そんなことは僕らがさせません!」
「あんたらに何が出来るってんだ!もう、遅いんだよ!何もかもが!」
九重は、踵を返して部屋の奥に消えた。乾いた風に吹かれたように胸がざわつく。
田辺は、土足のまま部屋に入り、両手で握り締めた包丁の刃先を向ける九重を見付けた。玄関までは、僅か数歩の距離だが、九重のギラついた双眸に見据えられ、両足が竦んでしまう。
「こ......九重さん、落ち着いて......落ち着いて僕の話を聞いて下さい」
田辺は、これほど心の底から落ち着けという言葉を使ったことはなかった。緊迫した状況は、人間から言葉と動き、思考を奪う。
宥めるように突き出した田辺の両手を目掛けて、横凪ぎに包丁を振るった九重は、狂乱した声で叫んだ。
「あたしは、もう終わりだ!これから先、生きていく希望すらない!」
「そんなことはありません!まずは、僕の話を聞いて......」
「この世界で一番恐ろしいのは人間だ!もう、あたしは誰も信じられない!」
九重は、包丁を頭上へと持ち上げる。その矛先が降ろされる箇所は、間違いなく一ヶ所だけだろう。田辺は渾身の力で叫喚する。
「やめろおおおおおおおおおおお!」
田辺は、生涯、この光景と、ピンと張った布を貫くような音を忘れることはないだろう。
九重は、自らの腹部に包丁の刃先を沈めた。吐血の量は、臓器の損傷を田辺に告げ、両足が弛緩し、田辺はその場にへたりこみ、九重の恨めしそうな両目と目線が重なる。尻餅をついたまま後ずさり、壁に背中がぶつかった。
近隣の住民が連絡したのか、騒ぎを聞き付けた警察が到着するまでの十分間、田辺は、瞼を落とすことなく見開かれた九重の眼球に見据えられ続けた。まるで、光が注がれない深い穴に放り込まれたような気分だった。
九州地方だけに限られた問題ではない。九重は、世間を恐れ、世間に殺された。
死とは、一体、誰のものなのだろうか。
0
お気に入りに追加
68
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
意味がわかると怖い話
邪神 白猫
ホラー
【意味がわかると怖い話】解説付き
基本的には読めば誰でも分かるお話になっていますが、たまに激ムズが混ざっています。
※完結としますが、追加次第随時更新※
YouTubeにて、朗読始めました(*'ω'*)
お休み前や何かの作業のお供に、耳から読書はいかがですか?📕
https://youtube.com/@yuachanRio
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
10秒で読めるちょっと怖い話。
絢郷水沙
ホラー
ほんのりと不条理な『ギャグ』が香るホラーテイスト・ショートショートです。意味怖的要素も含んでおりますので、意味怖好きならぜひ読んでみてください。(毎日昼頃1話更新中!)
【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】
絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。
下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。
※全話オリジナル作品です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる