感染

saijya

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第9話

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    扉の勢いに押され、強かに背中と後頭部を壁に打ち付けた。しかし、走る鈍痛に相手が構うはずもなく、片手に持った包丁を振りかざす。壁に身体が当たったことが幸をなし、倒れてしまうことは避けられたお陰で、達也は、咄嗟に両手で迫る刃物を止めることが出来た。
    だが、もう一方の腕が、達也の喉を捕らえる。急な激痛と息苦しさで、徐々に全身から力が抜けていく。
    容赦のない殺意に襲われ、恐怖が達也の目に表れ始め、眼球の奥が熱を帯び始めた達也は、強く瞼を瞑った。

「死ね!死ね!死ねえええええ!」

 それを好機とみたのか、相手は、発狂気味に叫び始める。
    刃先が見れなかった。見たくなかった。
 力を込められた腕が、少しずつ達也の眉間に近づいていく。
 玄関では、ついに、鏡張りの部分が破られていた。暴徒が侵入を開始するまで、あと数分もないだろう。
    そして、破られた音が聞こえた時、達也の脳内では、走馬灯のように思い出が去来した。知り合った人間や、思い出深い風景、友達、次々と映像が切り替わっていく。

 死にたくねぇ!

 達也は、かっ、と両目を見開いた。
    先程までの動揺が嘘のように、相手がよく見える。白衣に身を包んだ自分と同じ年頃であろう女性だった。
    命を救うはずの女医が、命を奪おうとしている現実、そんな感傷に浸っている場合ではない。
 歯を食い縛り、有らん限りの力を使い、達也は女医の身体ごと押し返すも、抗う女医は、更に体重を乗せてくる。
    不利な態勢にあることを瞬時に理解すると、ある賭けにでた。できる限り、刃先と距離がある今なら出来るかもしれない。
 達也は、包丁を止めていた両手を離したのだ。面食らったような女医の表情を窺う余裕すらなく、尻餅でもつく勢いで床に座り込めば、頭上で包丁が壁に激突し、折れた刃先が足元に落ちてきた。女医の全体重をかけた攻撃に、包丁が耐えきれなかったのだ。
 すかさず、足を払い、今度は包丁ではなく、女医自身の顔面が、壁に激突する。その隙に達也は立ち上がり、傷みに悶える姿を俯瞰するように見下ろす。
    その双眸には、例えきれない憤怒の念が込められていた。
 達也は、無言で女医に股がると、包丁を握りしめていた両手を強引に重ねさせ、その掌をナイフで貫き、女医が痛苦の絶叫をあげる様を眺めながら、ナイフを引き抜いた。
    今、達也の頭は、殺意には殺意で返さなければ、自分が殺されるという思考で満たされている。
 外に群がっていた暴徒が、女医の悲鳴に対し、歓喜の雄叫びにも似た唸りをあげている中、達也は立ち上がり、女医の胸ぐらを掴みあげ、階段へと引き摺っていく。両手の深手が影響してか力も入っておらず、抵抗は無意味に終わる。
    達也は、女医の胸ぐらを掴んだまま、階段へと突き落とそうとしたが、女医は必死の形相で達也の腕を捕まえた。

「や......やめて......お願い......助けて......」

 玄関が、とうとう完全に破られた。
 先頭にいた暴徒の集団は、やはり、段差に躓き後続を巻き込んで倒れた。その光景に、女医が恐怖の悲鳴をあげる。うぞうぞと蠢いていた暴徒の一人が顔をあげ、その何も映らない瞳で女医を捉えた。

「違うの!あいつらだと思ったの!私も必死だった!死にたくなかった!ねえ!協力しましょう!一人じゃきっと生き残れないわ!私はきっと、あなたの役にたつから!私の全てを貴方に捧げても良いから!だから、お願い!早く引き上げて!」

 後続の暴徒の重みに、下半身を潰された一人が階段を這い上がってきていた。低い呻き声をあげながら、半身を階段へ投げ出された女医へ手を伸ばす。
 女医は涙を流しながら、訴え続けていたが、達也の耳には何も入ってはいなかった。
    ただ、一言、達也はこう呟いた。

「悪い......浩太......」

 暴徒が女医の垂れた白衣を掴むと、達也は、自分の腕を握る女医の手首をナイフで切りつけた。
 絶望に染まった女医の表情を達也は二度と忘れられないだろう。
 女医は、階段の手摺を一度は捕らえたが、掌に走った熱と傷み、引き寄せる暴徒によって階段を転がり落ちていった。
壁にぶつかると、同時に暴徒が数名、女医の肉体を埋め尽くした。
 耐え難い苦痛に混じり、女医は最後の断末魔のように咆哮をあげる。

「お前さえ!お前さえ、ここに来なければ、私は......私はぁぁぉぉぁ!!」

 そこから先、女医の口内は血溜まりとなり、肺が空気を押し出し、海で溺れたような声にならない声だけが響いた。
 達也は、女医の最後を見届けることなく、開いた部屋の窓から外に出ると、地獄のような世界から逃げ出すように、屋根をつたって隣の民家へと飛び移った。
    その間、達也は、自分自身で気付かない間に、涙を流していた。
    殺意を向けられた恐怖、殺意を人に向けてしまった恐ろしさを洗い流す為の涙なのか、それとも、拭いきれない罪に耐えきれずに、流れ出した涙なのか、それは本人にも分からなかった。 
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