感染

宇宙人

文字の大きさ
上 下
89 / 419

第8部 殺意

しおりを挟む
「......これは、一体どういうつもりだい、田辺君」

 事件が起きてから翌日、早朝、出勤した田辺は、事務所の上座にいた浜岡へ、書類を一枚突き出した。他社の新聞や週刊誌に埋められた整頓されていない机上に置いた書類を見て、浜岡は片眉をあげた。怒気を含んだ物言いに、田辺は少したじろいだが、背筋を伸ばし、毅然とした態度で口を開いた。

「退職届けです。受けてください」

「そんなものは見たら分かる。こんなものを用意して、一体、何がしたいのかと聞いているんだよ!」

 狭い室内に、浜岡の声と机を叩く音が木霊した。簡単に受理されると考えていた田辺の予想とは違う反応だった。思わず身構えてしまう。
 そもそも、浜岡と田辺の志向は、食い違いがあるはずなのだ。
 様々な事件の解決へと歩みを続ける田辺と、事件を明るみにしようとするだけの浜岡、両者の決定的な違いは、浜岡が常々口にしている物事への焦点距離だ。近すぎず、遠すぎずの浜岡と、出来るだけ近づこうとする田辺、二人の対立は必然性をもっているとすら感じていた。
 だからこそ、田辺には理解出来なかった。
 積み重ねた書類が揺れ落ちるのも気にせずに、浜岡は続けた。

「君が一人になって出来ることなんて、たかが知れているよ。鬼が笑うだけだ」

「鬼が笑うだけだろうとも、僕には僕のやり方があります。言うなれば、これは僕の個人的な我儘にすぎません。けれど、浜岡さんは黙認してくれていました。だから、僕は自由に動くことが出来ていましたし、それに関しては感謝しています」

 田辺は、深々と頭を垂れた。だが、浜岡の眉間に刻まれた皺は、一層その深みを増す。
    だが、記者としての矜持だろうか。田辺の次の言葉を待つように、浜岡は沈黙を守っている。有り難いことだ。ここでもしも、遮るように何かしら言われていたら、踵を返していたかもしれない。それは、遺恨だけが残る結果となるだろう。
    だからこそ田辺は、はっきりと言い切った。

「これ以上、浜岡さんや会社のみんなを僕の我儘には付き合わせられません」

 長年の先輩である浜岡に、そう言った。幾度となく、投げ掛けて貰ってきたアドバイス通りなら、田辺はここが引き際だと判断していた。
 野田との対談で、九州地方感染事件に関与している者の中には、十中八九、日本国内における権力者が含まれていることが分かった。下手をすれば、口を塞がれるかもしれない。
 独り身の田辺なら、失うものも最小で収められるが、家族がいる者には、リスクに見合うものは何もない。天秤にかけるまでもなかった。田辺は、もう一度、頭を下げて言った。

「浜岡さん、今までお世話になりました」

 田辺の言葉を最後まで聞ききった浜岡は、静かに溜め息を吐いた。
    どこまでも真面目で真っ直ぐな男だと思う。それ故に、視野が狭い。浜岡は、早く気付かせてやれと、事務所内の古いブラインド越しに、朝の陽気から背中を叩かれているようだった。
    内心、呆れにも似た感情を抱きながら、浜岡は立ち上がった。

「......田辺君、忘れられないだろうけど、君の友人が殺された時のことを覚えているかい?」

 田辺の肩が、伏せている顔の変わりとばかりに震える。しかし、田辺はお辞儀の態勢から動かなかった。降り注ぐ相手の言葉を遮らずに受けとる。それは、十年近く前に、記者として歩み始めた田辺に向けた、浜岡からの最初のアドバイスだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

すべて実話

さつきのいろどり
ホラー
タイトル通り全て実話のホラー体験です。 友人から聞いたものや著者本人の実体験を書かせていただきます。 長編として登録していますが、短編をいつくか載せていこうと思っていますので、追加配信しましたら覗きに来て下さいね^^*

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【1分読書】意味が分かると怖いおとぎばなし

響ぴあの
ホラー
【1分読書】 意味が分かるとこわいおとぎ話。 意外な事実や知らなかった裏話。 浦島太郎は神になった。桃太郎の闇。本当に怖いかちかち山。かぐや姫は宇宙人。白雪姫の王子の誤算。舌切りすずめは三角関係の話。早く人間になりたい人魚姫。本当は怖い眠り姫、シンデレラ、さるかに合戦、はなさかじいさん、犬の呪いなどなど面白い雑学と創作短編をお楽しみください。 どこから読んでも大丈夫です。1話完結ショートショート。

処理中です...