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第8部 殺意
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「......これは、一体どういうつもりだい、田辺君」
事件が起きてから翌日、早朝、出勤した田辺は、事務所の上座にいた浜岡へ、書類を一枚突き出した。他社の新聞や週刊誌に埋められた整頓されていない机上に置いた書類を見て、浜岡は片眉をあげた。怒気を含んだ物言いに、田辺は少したじろいだが、背筋を伸ばし、毅然とした態度で口を開いた。
「退職届けです。受けてください」
「そんなものは見たら分かる。こんなものを用意して、一体、何がしたいのかと聞いているんだよ!」
狭い室内に、浜岡の声と机を叩く音が木霊した。簡単に受理されると考えていた田辺の予想とは違う反応だった。思わず身構えてしまう。
そもそも、浜岡と田辺の志向は、食い違いがあるはずなのだ。
様々な事件の解決へと歩みを続ける田辺と、事件を明るみにしようとするだけの浜岡、両者の決定的な違いは、浜岡が常々口にしている物事への焦点距離だ。近すぎず、遠すぎずの浜岡と、出来るだけ近づこうとする田辺、二人の対立は必然性をもっているとすら感じていた。
だからこそ、田辺には理解出来なかった。
積み重ねた書類が揺れ落ちるのも気にせずに、浜岡は続けた。
「君が一人になって出来ることなんて、たかが知れているよ。鬼が笑うだけだ」
「鬼が笑うだけだろうとも、僕には僕のやり方があります。言うなれば、これは僕の個人的な我儘にすぎません。けれど、浜岡さんは黙認してくれていました。だから、僕は自由に動くことが出来ていましたし、それに関しては感謝しています」
田辺は、深々と頭を垂れた。だが、浜岡の眉間に刻まれた皺は、一層その深みを増す。
だが、記者としての矜持だろうか。田辺の次の言葉を待つように、浜岡は沈黙を守っている。有り難いことだ。ここでもしも、遮るように何かしら言われていたら、踵を返していたかもしれない。それは、遺恨だけが残る結果となるだろう。
だからこそ田辺は、はっきりと言い切った。
「これ以上、浜岡さんや会社のみんなを僕の我儘には付き合わせられません」
長年の先輩である浜岡に、そう言った。幾度となく、投げ掛けて貰ってきたアドバイス通りなら、田辺はここが引き際だと判断していた。
野田との対談で、九州地方感染事件に関与している者の中には、十中八九、日本国内における権力者が含まれていることが分かった。下手をすれば、口を塞がれるかもしれない。
独り身の田辺なら、失うものも最小で収められるが、家族がいる者には、リスクに見合うものは何もない。天秤にかけるまでもなかった。田辺は、もう一度、頭を下げて言った。
「浜岡さん、今までお世話になりました」
田辺の言葉を最後まで聞ききった浜岡は、静かに溜め息を吐いた。
どこまでも真面目で真っ直ぐな男だと思う。それ故に、視野が狭い。浜岡は、早く気付かせてやれと、事務所内の古いブラインド越しに、朝の陽気から背中を叩かれているようだった。
内心、呆れにも似た感情を抱きながら、浜岡は立ち上がった。
「......田辺君、忘れられないだろうけど、君の友人が殺された時のことを覚えているかい?」
田辺の肩が、伏せている顔の変わりとばかりに震える。しかし、田辺はお辞儀の態勢から動かなかった。降り注ぐ相手の言葉を遮らずに受けとる。それは、十年近く前に、記者として歩み始めた田辺に向けた、浜岡からの最初のアドバイスだった。
事件が起きてから翌日、早朝、出勤した田辺は、事務所の上座にいた浜岡へ、書類を一枚突き出した。他社の新聞や週刊誌に埋められた整頓されていない机上に置いた書類を見て、浜岡は片眉をあげた。怒気を含んだ物言いに、田辺は少したじろいだが、背筋を伸ばし、毅然とした態度で口を開いた。
「退職届けです。受けてください」
「そんなものは見たら分かる。こんなものを用意して、一体、何がしたいのかと聞いているんだよ!」
狭い室内に、浜岡の声と机を叩く音が木霊した。簡単に受理されると考えていた田辺の予想とは違う反応だった。思わず身構えてしまう。
そもそも、浜岡と田辺の志向は、食い違いがあるはずなのだ。
様々な事件の解決へと歩みを続ける田辺と、事件を明るみにしようとするだけの浜岡、両者の決定的な違いは、浜岡が常々口にしている物事への焦点距離だ。近すぎず、遠すぎずの浜岡と、出来るだけ近づこうとする田辺、二人の対立は必然性をもっているとすら感じていた。
だからこそ、田辺には理解出来なかった。
積み重ねた書類が揺れ落ちるのも気にせずに、浜岡は続けた。
「君が一人になって出来ることなんて、たかが知れているよ。鬼が笑うだけだ」
「鬼が笑うだけだろうとも、僕には僕のやり方があります。言うなれば、これは僕の個人的な我儘にすぎません。けれど、浜岡さんは黙認してくれていました。だから、僕は自由に動くことが出来ていましたし、それに関しては感謝しています」
田辺は、深々と頭を垂れた。だが、浜岡の眉間に刻まれた皺は、一層その深みを増す。
だが、記者としての矜持だろうか。田辺の次の言葉を待つように、浜岡は沈黙を守っている。有り難いことだ。ここでもしも、遮るように何かしら言われていたら、踵を返していたかもしれない。それは、遺恨だけが残る結果となるだろう。
だからこそ田辺は、はっきりと言い切った。
「これ以上、浜岡さんや会社のみんなを僕の我儘には付き合わせられません」
長年の先輩である浜岡に、そう言った。幾度となく、投げ掛けて貰ってきたアドバイス通りなら、田辺はここが引き際だと判断していた。
野田との対談で、九州地方感染事件に関与している者の中には、十中八九、日本国内における権力者が含まれていることが分かった。下手をすれば、口を塞がれるかもしれない。
独り身の田辺なら、失うものも最小で収められるが、家族がいる者には、リスクに見合うものは何もない。天秤にかけるまでもなかった。田辺は、もう一度、頭を下げて言った。
「浜岡さん、今までお世話になりました」
田辺の言葉を最後まで聞ききった浜岡は、静かに溜め息を吐いた。
どこまでも真面目で真っ直ぐな男だと思う。それ故に、視野が狭い。浜岡は、早く気付かせてやれと、事務所内の古いブラインド越しに、朝の陽気から背中を叩かれているようだった。
内心、呆れにも似た感情を抱きながら、浜岡は立ち上がった。
「......田辺君、忘れられないだろうけど、君の友人が殺された時のことを覚えているかい?」
田辺の肩が、伏せている顔の変わりとばかりに震える。しかし、田辺はお辞儀の態勢から動かなかった。降り注ぐ相手の言葉を遮らずに受けとる。それは、十年近く前に、記者として歩み始めた田辺に向けた、浜岡からの最初のアドバイスだった。
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