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【三】望郷

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 長尾から関、古所から剃金へと海へ向かって起伏の少ない平坦な道が続く。
 果てしなく続く田圃の間にひと塊になった雑木林が点々とのぞく。そこを超えるとまた延々と田圃。そんな風景が続いた。

 この地域独特の風景ではある。
 外房は遠浅の地形であるため山がない。その結果海からの潮風を直接受けることになるが、これは稲作にとって良好な環境とは言い難い。
 海からの風は、夏場には二里以上陸地側まで潮風を運んでくることさえある。
 そこで田圃の中に雑木林を配置することによって、防風・防塩林として機能させているのである。
 地元民はこうした林のことを平坦地でありながら「どこそこの山」「だれそれの山」と呼ぶようになっていた。

 そんな風景の先は九十九里浜だ。
 約三里半を一刻半(約三時間)近くかかっていた。子連れではどうしても足が遅くなるのはやむを得ない。

 小八郎の腕の中で与一が喉も裂けよと泣き叫んでいた。

「坊主の腹の虫がもう限界みたいだぜ」苦りきった顔で歩きながら小八郎がぼやく。しばらくはあやしたりして誤魔化していたが、無駄とわかると黙々と歩くことに専念した。
「じきに集落がござんすよ」文十が前をむいたまま言う。少し足を速める。

 川沿いの道に出た。月明かりがあるのが救いだ。
 遠くに二十数戸の板葺きの人家が見えてきた。南白亀《なばき》の集落だ。


 一件の戸を控えめに叩いた。しばらく間があってから心張りを外す音がして戸が二寸ほど開き、闇の中から胡乱気な男の顔が覗く。
 小八郎が泣いている与一を抱いたまま腰を低くして頭を下げる。
「夜分遅くに大変申し訳ございやせん。訳あって子連れで旅をしている者でございますが、子が腹を減らせて難儀をしておりやす。どなたさんか、この子に乳を恵んでくださる方をご存知ねえでしょうか。お礼はいたしやす」

 男の目が素早く小八郎の頭上から足先までをざっと見る。

 鼻先でぴしゃっと音を立てて戸が閉まった。

 建物の陰に隠れていた文十が前に出る。小八郎がじろりと文十の顔を見た。
「なんで俺がこんなことしなけりゃなんねえんだ」口を曲げる。
「あっしがやったらうまくいくとでも?」文十に表情はない。
「次行こう次」

 三件の家に同じ対応をされた。
 四件目の家は腰の曲がった年寄りが表まで出てきてくれたので小八郎はほっとした。

「おう。そらあ難儀じゃ。この先の胡助んとこのお杉は乳のみ子がいるべえな。乳が張って困っとるちゅうからちょうどええじゃろ。案内してやっぺえ」
 外した心張り棒を杖替わりにして歩き出す。少し離れたら月夜の闇に溶けてしまいそうな後姿だった。
 二人が歩き出して十分に距離を開けたところで文十が物陰から出てそっと歩き出す。

 渡世人というだけで蛇蝎のごとく忌み嫌われることが多い世間だった。
 乳を恵んでもらうには無用な揉め事は極力避けなければならない。

 一件の家に老人と小八郎が入って行くのを見届け、離れた位置にあった二本並んだ松の木の陰に身を隠した。

 中空の月を見上げる。

 自分は何をしているのだろう、と文十は思った。この足でどこかへ行ってしまえば、それで終わりになるはずの話なのだ。なぜいつの間にか連れまで拵えて意に添わぬ場所へ行く話になっているのか。
 ぼんやりと考える。
 だが、じきにやめた。無駄だ、と思った。

 明日一日を生きていけるかどうかでさえ確信はないのが自分という存在だった。
 どうなろうと所詮なるようにしかならない。

 それだけで生きてきた文十だった。

 ややあって、与一を抱いた小八郎が戸口から姿を現した。老人が後に続く。扉を閉め、小八郎が何かを老人に手渡しているのが遠目に見えた。
 文十の眉が少し動いた。

 老人が十分に離れたところで、木の陰から出て小八郎に近寄った。
 泣き疲れたところで腹が満たされたせいなのか、与一は眠っていた。
 ほれ、と言って小八郎が布の束を文十に渡した。文十がわずかに首をひねる。
「替えのおしめだよ。今の家で分けてもらった。おめえが持ってろ。ちなみに糞洗うのもおめえの仕事な。こんだけやらされてんだ、文句は言わせねえぜ」
 憮然として言った。
「よく気がつきやすね」
「昔駆け出しの頃、おやぶ――親方に子守をさせられたことがあるんでな。おめえもやるか。勉強になるぜ」
 黙って布の束を懐にねじ込んだ。小八郎が北の方を向く。
「だいぶ離れちゃいるが、まだここいらは仁兵衛の縄張内に近い。坊主が泣き止んでる間に夜道をかせぐしかねえか」
「そういうことになりやすね」

 黙々と歩き出した。

 四天木から海側を離れ、回り込んで山側へ足を向ける。真亀から延々と続く田畑を抜け、東金の街はずれについた時にはもう丑の刻に近くなっていた。
 上り坂を山の方へ向かうと杉木立の向こうに小さなやしろがあった。ひと気はないようだ。

 二人が足を止める。小八郎にもさすがに疲れの色が見えた。
「こんなとこが手ごろかな、どうでえ」
「いいんじゃねえですかね」 
「夜が明けたら街へ出れば坊主も俺たちも飯にありつけるだろ」

 社の中へもぐりこんで、板張りの床に道中合羽を広げ、与一の寝床を拵えた。





「女の骸はありやしたが、あん時声がしたはずの赤んぼがいやせん」
 甚吾が仁兵衛に顔を寄せて小声で言った。
「あの辺り、野犬が多かったな。犬にでも食われたか」
「丸ごと持っていくとは思えやせんが」仁兵衛の目が動く。
「連中が持って行ったのか」
「流れもんと渡世人ですぜ。仏心起こすような連中には見えやせんでしたが」
 ふむ、と首を捻った。
「――それよりもあの女、なりは百姓でやすが玉かんざしを挿してやした」
 ほう、と声を出す。
「それは手掛かりになるな。――どこの女かだな」
「海側は縄張内なんで山側じゃねえかと思いやすが……子連れで来たとするとそう遠い場所じゃねえんじゃねえですかね」
「山側の近場だと柴名か太田、いいとこ大沢ぐれえが関の山だ。――朝一から手分けして当たらせろ」
「へい」





「ほう薬屋さんですかい。景気はどんなもんで」
 床几しょうぎに腰を下ろした男が、風呂敷包みを床に置いて隣に座った男に声をかけた。
「この春はまあぼちぼちですかな。昨年暮れには腹患いが多くて和中散やら一粒丸やらようけ売れましたがな」
 薬屋は頭の上に乗せた手拭をはずすと額にうっすらと浮いた汗を拭いた。
「ほう、そらまたなんでですかい」男は茶を啜った。
「昨年秋の颶風ぐふうのせいで水が濁りましたでしょう。そのせいでしょうなあ」
 ほほう、と男が顔を上げた。隣の床几に座った三度笠の渡世人が目に入ったはずだが、気にした様子はない。
「あれはひどかったそうですな。上総の海側は特にひどかったとか」
 薬屋が頷く。
「一宮から南は安房まで未曾有の大風と大雨でほとんどの村が全滅しましてねえ、田んぼも潮でやられたせいでわずかに生き残った人も逃散したとかで、今もまだ大部分が無人の村のままだそうで。――離散したのは百箇村に及ぶとか聞きましたなあ」
「それじゃあ彼の地は当分立ち直れないでしょうなあ」

 無言で芋煮を口にしていた渡世人がわずかに動きを止めた。


 振り返ることなどありはしない。
 振り返るものなどありはしない。

 遥か彼方に捨ててきたものがあるだけだ。
 記憶と一緒に。

 だが、その記憶は時として己を苛《さいな》んだ。
 鈍い痛みと共に。


 ――すべてが失われたのであるのなら。
 それもまた失われて然るべきだ。

 目の当たりにすれば、それは共に失われるのではないか。

 かなわぬ思いと訣別することができるのではないか。



 渡世人の足は市原ごおりの低い山々へ向かったのだった。




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