コーヒー・ドロップス

砂部岩延

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コーヒーが飲みたい

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 店の扉を開けると、ここしばらくぶりの晴れ間がのぞいていた。
 両脇に植わった紫陽花が青と紫の鮮やかな花を咲かせていた。
 中の常連とマスター夫妻に挨拶して、直之は扉を閉めた。
 さて今日はキャンパスに寄ろうか、まっすぐ帰ろう。
 直之が考えていると、
「高屋さん」
 店の角から例の女の子が姿を見せた。
 今日も来店して、ついさきほど見送ったのだが、もしかしたら、ここで待っていたのだろうか。
 やや固い調子の声と表情に、直之の緊張も高まった。
 予感があった。
 そう遠くないうちに、こんな日が来るに違いないと、心の準備もしてあった。
 目の前の少女は小さく胸を上下させると、真剣な面持ちで、口を開いた。
 そして、そのまま時が止まった。
 丸い瞳は見開かれたまま、直之を通り越して、その背中の向こうを見据えている。
 直之が振り返ると、そこにはそっくり同じ表情をした、女性の姿があった。
 ネルシャツにジーンズ、スニーカーというラフな格好、ファンデーションくらいしかしていないシンプルな化粧、髪の毛は地毛の色そのままに、肩より上でサッパリと切りそろえられていた。
 右手を手刀の形につくって、中途半端に掲げたまま、女性の視線もまた、直之を通り抜けて、向こうの少女に向けられていた。
 直之が何かを言うよりも先に、
「ごめん、邪魔した」
 一目散に逃げ出した。
 すぐさま後を追おうとして、後ろの少女のことを思い出した。
 不安そうな瞳で見つめてくる少女に、直之は歯を食いしばって、頭を下げた。
「ごめん」
 少女がその時、どんな顔をしていたか。
 直之にそれを知るすべは、もうない。
 顔をあげることなく、振り返ることなく、直之は走りだした。
 遠く坂の向こうに先輩の後ろ姿が小さく見えた。
 人混みの中を右に左に避けながら、驚くべき速度で遠ざかっている。
 せめて今日くらい、走りづらいヒールとか、スカートを履いてくれていればよかったのにと、勝手な文句を浮かべつつ、直之も必死で追いかけた。
 道は駅に近づくほど人通りを増していった。
 動かない人だかりを前に、小さな背中が右往左往している。
 そのまま動かないでくれ、という直之の願いは虚しく、先輩は横の小道に入り込む。
 直之もまた、付近の地図を頭に思い描きつつ、すぐさま脇道に飛び込んだ。
 角をひとつふたつと折れて、小路の先に先輩の背中を捉えた。
「先輩」
 ビクリと震えた背中が、右に左に迷って、路地のさらに入り組んだ方へと入って行こうとする。
 直之は残りの力を振り絞って、全速力で距離をつめた。
 まさに今、角を曲がろうとした彼女の腕を、すんでのところで掴みとった。
 幸い抵抗はなく、先輩は腕を掴まれたまま、そっぽを向いて、息を荒げている。
 痛む肺に顔を歪めながら、直之が問いかける。
「なんで、逃げるんですか」
「だって、良いとこ邪魔しちゃって、気まずくって」
 顔をそむけたまま、茶化すような声色で言う。
「高屋こそ、こんなところにいていいの。早く戻らないと。ピチピチの女子高生が待ってるよ。カワイイ子で良かったじゃん。性格も良さそうだし、それに」
「先輩」
 矢継ぎ早の言葉を直之が遮る。
「こっち向いて下さい」
「ヤダ」
「いいから」
 掴んだままの腕を引いて、やや強引にこちらを向かせた。
 小さな雫がこぼれた。
 慌てて先輩が空いた腕で顔を隠す。
「うわやばい、鼻水垂れた。今年は花粉症がひどくてやんなっちゃうな。もうずっと垂れ流しだし」
 そう言う間にも、顎から雫が次々と落ちていく。
 直之がもう一方の手で顔を隠す手を除けようとすると、先輩は身を捩って抵抗した。
「やめてよ。バカ、ヘンタイ、チカン、サイテイ」
 周囲に人がいれば誤解されてもおかしくない単語をわめく。
 直之は構わず、掴んだ腕を無理矢理引き下ろした。
 挑むような瞳が、直之を正面から射抜いた。
 鬼のような形相だった。
 釣り上がった両の瞳が、直之を睨みつけている。眼尻からは今も涙が流れて、頬のファンデーションに薄っすらと跡を刻んでいく。噛み締めた口唇の合間から、形の良い犬歯がのぞいていて、唸り声まで聞こえる。鼻水も、たしかにちょっと出ていた。
「ひどい顔ですね」
「ほっといて。放して」
 身を捩って逃れようとする両の腕を、直之は離すまいと力いっぱい握りしめた。
「先輩」
「なによ」
「好きです」
 抵抗が止んだ。
 鋭角につり上がっていた眼尻が、今度は逆に落ちた。無言で首を横に振っている。
「ダメですか」
 また大きく首を横に振る。
「じゃあ、付き合ってくれますか」
 首を横に振りかけて、俯き、絞りだすようなうめき声を上げた。
「分かんない。今は好きとかそういうの、分かんない」
「わかりました。それなら、いいです」
 先輩がはっと顔をあげた。
「好きとか嫌いとか、それはこの際、どうでもいい。俺は先輩と一緒にいたい。先輩の一番近くにいたい。それはダメですか」
 見つめた瞳が、右に左に揺れて、それからポツリと、
「でも、好きって言った」
「好きですよ、死ぬほど。でも、べつにいい。先輩が俺のこと好きじゃなくてもいい。一緒にいられるなら、何だって」
 視界の先で口唇がわなないていた。
 つぶった瞼の両端から、新たな雫がいくつも落ちる。犬歯をむき出しにして、唸り声をあげている。
「そんなんだったら、私だってそうだよ」
 震える唇で叫ぶように、
「一緒に遊んで、出かけて、ケンカして、四六時中だって一緒にいたいよ」
「だったら、それでいいじゃないですか」
 あっけらかんと、直之が言った。
「一緒にいて下さい。今だけでも、いいですから」
 ほんのりと、寂しさを口元に浮かべた。
 それを見て、目の前の鬼は一際鋭い唸り声を上げると、直之の胸に頭突きを食らわせた。
 う、と呻く直之に、何度も頭突きをぶつける。掴まれた手で服の袖を握り返して、何度も額をぶつけた。
 最後は顔を埋めたまま、声をあげて泣き始めた。
 雑居ビルとライブハウスとラブホに囲まれた狭い路地裏で、二人は立ち尽くした。
 薄曇りの合間から差す日の光は、狭い路地裏までは届かないが、身を寄せ合った二人の間は、十分なほどに温かかった。
 日が差して、陰って、また差して。
 幾度か路地裏の光景が変わった後に、先輩の泣き声は止んでいた。
「花粉症、治まりましたか」
 すすり上げるつむじに、直之が尋ねる。
「高屋の服で鼻水拭いてやった」
 先輩は顔を隠したまま、リュックサックからティッシュを取り出して、鼻を噛んだ。
「喉かわいた。コーヒー飲みたい」
 泣き涸れたしゃがれ声で言う。
「店まで戻りますか」
 先輩は首を横に振った。
「高屋のコーヒーが飲みたい」
 顔を上げて、きれいな八重歯をのぞかせた。

   ・ ・ ・

 陰り始めた春の陽の下で、少女はひとり、立ち尽くしていた。
 想い人の走り去った坂の先をにじむ瞳で見つめていた。
 彼のために通った喫茶店の扉を振り返る。
 やがて力なく、少女は歩き出した。
 雑踏の中に小さな背中が消えていく。
 その後ろ姿を追う、少年の姿があった。

(おわり)
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