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バカな女
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アパートの外に面した階段を上がっていると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
ニンニクに、ソーセージ、タマネギとあとはなんだろう、などと思いつく限り挙げなら廊下に出ると、換気扇が回っているのは直之の部屋だけだった。
この状況で胸の高鳴らない男はきっといないに違いない。
直之は確信に満ちた言い訳を心の内でつぶやきつつ、努めて冷静に、ポケットから鍵を取り出した。
シリンダーに鍵を差して、回す。
開いた扉の向こうに見えたのは、はたして、前髪をちょんまげに結ったジャージ姿のヤンキーみたいな女が、片手で中華鍋をあおる光景だった。
「あ、おかえり。勝手に使わせてもらってるよ」
コンロの上を中華鍋が軽やかに踊り、具材が弧を描いて宙を舞う。
「期待していたのと何か違う」
「え、なんて」
「いえ。手慣れてますね」
「まぁね」
と得意気に笑う。
「お昼、食べるよね」
「もちろん、いただきます」
三和土で靴を脱いで、狭いキッチンを先輩とすれ違う。
どこかで見たジャージだと思っていたら、部屋に入って納得した。押入れが開け放たれて、物取りの後みたいになっている。
「着るのはいいけど、ちゃんと片付けて下さい」
ぼやく声が聞こえたのか聞こえなかったのか、キッチンから何か声がしたが、ついでにガッチャガッチャと中華鍋がコンロに当たる音も聞こえてきた。
直之は小さくため息を漏らして、押入れとちゃぶ台の上を片付ける。
床に腰を下ろして、ベッドにもたれながらちゃぶ台の向こうを眺める。
ちょうど茹で上がったスパゲッティーがトングで隣の中華鍋に移されていた。あのフライパンで2人前を同時に仕上げるのは無理があろうから、慧眼と言えるだろう。普段から料理をしているのは間違いなさそうだ。
直之の眺める先で、先輩は鍋から茹で汁を少し移して、具材と軽く和えた後、業務用の大きなケチャップを逆さにして、大胆に噴射した。それからもう一度、トングでまんべんなく和えて、広めの丸皿二つに盛りつけた。仕上げにペッパーミルから黒胡椒と、オリーブオイルを振りかけて、フォークを添えてちゃぶ台に運んでくる。
「さすがですね」
「これだけ揃ってればね。男の一人暮らしにしては充実しすぎ」
「今、人気急上昇中の自炊男子ですから」
「洗った野菜が小分けでジップロックに入っているのを見た時は、さすがに引いたわ」
「すぐに使えて便利じゃないですか」
先輩は適当に返事をしつつキッチンに引き返すと、両手にマグカップを持って戻ってきた。
かぐわしい湯気が立つ。中身は在庫処分で半額だったインスタントのコーンクリームに違いない。
「いただきます」
二人で手を合わせて、少し遅めの昼食になった。
パスタをフォークで巻いて口に運ぶ。
ケチャップの風味が懐かしい味わいだった。
「トマトがあればもっとちゃんとしたんだけど」
「これはこれで定番ですよ」
具材はソーセージ、タマネギ、ピーマン、キノコときて、味付けがケチャップとなれば、昭和の香り漂う伝統的なナポリタンだ。
「先輩も料理するんですね」
「他に言い方はないわけ」
「超美味いです」
直截な反応を向けられて、先輩は逆にうろたえた顔をする。
「昨日は晩御飯と夜食まで作ってもらったし、今朝もラピュタパンあったし、このままだと女子の沽券に関わると思って」
などと、もごもご言ってから
「でも、高屋のご飯の方が美味しかったな」
と悔しげにパスタを口に運ぶ。
「人が作ったものの方が美味しく感じませんか」
「それはあるかも」
と頷きつつ、
「でも、相手によるわね」
「それはそうですね」
直之も頷きつつ、手を止めることなくパスタを平らげていく。
二人の皿がキレイに片付いたところで、直之が腰を上げた。
「飲み物入れますよ。コーヒー、紅茶、緑茶、ココア、ホットミルク。何が良いですか」
「喫茶店みたいね」
感心半分、呆れ半分の声を上げて、
「やっぱり形式美だし、コーヒー、と言いたいところだけど、紅茶にしようかな」
「苦手ですか、コーヒー」
「ちょっとね。酸っぱかったり、苦かったりして」
困ったように笑って肩をすくめる。
直之は空いた皿を持ってキッチンに戻った。
ケトルに水を入れてコンロに置く。
食器棚から百均の小ぶりなポットと、なるべく口の広いカップを二つ取り出して、流し台に並べた。
ケトルの湯が沸騰したところで火を止めて、ポット、カップと移して温める。
近所の紅茶専門店で買ったお徳用のアッサムをティースプーンで三杯、ポットに計り入れる。
お湯を泡立てるくらいの勢いで注ぎ、ポットにフタをする。
ティーコージーの代わりにハンドタオルでくるんで、三分間ほど蒸らす。
カップの湯を捨てて、茶漉しを使いながら、紅茶を交互に注ぐ。
二杯分、きっかり注ぎきって、カップを手に部屋に戻った。
「さすがにレモンはないですけど、牛乳はありますから」
カップをちゃぶ台に並べて、元の場所に腰を下ろした。
しばらくは二人、無言で紅茶を傾ける時間が続いた。
あっという間に一杯目が空になり、直之が二杯目を入れに行く。今度はミルクも持って戻ってきた。
その間に二人が発した言葉と言えば、
「どうぞ」
「ありがとう」
「おかわりは」
「いる」
くらいのもので、あとは終始無言だった。
二杯目のミルクティーが早くも底を尽きかけた頃、直之の視線がテレビの前の床で止まった。
カーペットの上には昨夜のまま、ゲームソフトが散乱している。
しかし、よく見れば、昨日遊んだ覚えのないものまで増えていた。
「遊ぶのはいいですけど、終わったらしまって下さいよ」
「また遊ぶつもりだったからいいの」
「また遊ぶ時に出して下さい」
「いちいち出したりしまったりめんどい」
「ケースが痛むんですよ」
「細かいなぁ」
文句を言いつつ、全く動こうとしない先輩を見かねて、仕方なく直之が腰を上げた。床に転がっているケースを集めて重ねると、棚に戻し始めた。
その後ろ姿をぼんやりと眺めていた先輩が、
「これだけ充実してると、いくらでも遊べちゃうよね。しばらくは泊まっていこうかな」
と冗談めかして言った。
直之は横目でチラリと伺ってから、
「いいですよ、べつに。でも、バイトの前日とかは、昨日みたいのはもうムリですからね。あと、ベッドは日替わりですよ」
かすかに息を飲む気配がしたが、すぐに、
「そこは女の子に譲りなさいよ」
「女の子って、辞書で引いてみたらいいですよ」
「じゃあ、高屋は紳士って調べなさい」
「あと部屋着くらいは貸しますけど、下着はダメですよ。まさか今、履いてないでしょうね」
「あとで買ってくるに決まってるでしょ」
直之の背中に空のケースが飛んだ。
泊まりとなると、下着の他にも何かと入用なものがある。
ことに女性はそれが多いという。
近所のコンビニでこと足りるのでは、という直之の提案は「ありえない」と冷たい声で一蹴され、やむなく最寄りのデパートまで電車で買い物に行くことになった。
「もういいよ」
背にした引き戸の向こうから呼ばれて、直之は廊下から部屋に入る。
姿見を前に、先輩が自分の格好を確認していた。
さすがに電車に乗るとなると、ジャージ姿では恥ずかしいし、でも昨日の服は着たくない、ということで、急遽、直之の外着から着れそうなものを貸すことになった。
アイボリーのセーターに、黒のダウンを羽織って、下はジーンズというシンプルな出で立ちだった。
セーターとダウンは大きすぎず、しかし男性用とあって着丈はゆったりとしていて、かえってフェミニンな雰囲気が出ていた。ジーンズに至っては、丈を端折っている他は違和感がない。
「ぴったりですね」
と思わず直之が口走って、鏡越しに睨めつけられた。
「屈辱なんだけど。特にジーンズが」
と忌々しげにもものあたりを撫でさする先輩の姿に、何かフォローをしようと口を開きかけたが、泥沼になりそうなのでやめておいた。
「さて、さっさと行って帰ってきましょう。夕方に近所のスーパーでタイムセールがあるんですよ」
直之は壁掛けのコルクボードから、ピンで留めてあったチラシを手にとる。
「ますます所帯染みてるなぁ」と呆れ声を上げて、先輩は玄関へと向かう。
肩掛け鞄を手にとって後を追おうとしたところで、直之はベッド脇のコンセントに見慣れない携帯が挿したままなのに気付いた。
「先輩、携帯忘れてますよ」
一瞬、その肩が跳ねた。
しかし、振り返った表情はいつも通りで、
「いらないでしょ。遠出でもないし」
どうでも良さそうな声で言った。
「でも、いざって時に困りますよ」
「何よ、いざって」
苛立ちを露わにする先輩に、直之は気遣わしげな表情を向ける。
「迷子センターのお姉さんに、お名前とお年、ちゃんと言えますか」
しばしの沈黙ののち、
「おりたゆうこ、はたちです」
天使のような笑顔で、脛を蹴られた。
・ ・ ・
「じゃあ、ここで待ってて。入ってきたら絶交だから」
「お金をもらったって入りませんよ」
うんざりした顔で、直之はすぐそばの店を控えめに見上げる。
「それはそれでムカつくわね」
「先輩のご要望とあらば」
「絶交ね」
にこやかに答えて、先輩は目の前の下着専門店に入っていった。
その後ろ姿を見守って、直之は少し離れたエスカレーターのあたりまで移動する。
ベンチ代わりのソファに腰を下ろすと、最近のデパートはこんなところにまで良い物を使っていると見えて、泥沼に落ちるように際限なく埋もれていく。座るというよりハマるといった具合で、ようやく直之の尻が落ち着いた。
深いため息が漏れる。
寝不足で働きの鈍い頭に、今日一日、繰り返し浮かんでは消えている問いかけが、再び浮かび上がってくる。
これで良かったのだろうか、と。
結局のところ、直之は何も事情も聞いてはいない。
昨日の涙のワケも、家に帰りたがらない理由も。何も。
察せられることはある。
携帯は持ち歩きたくはない、けれど、充電はして、電源を切らさないようにしている。時折、待機状態を解いて、メールか着信のチェックをしているのも知っている。
結局は当人の問題だ。
話したがらないうちは無理に聞くべきではない。
きちんと向き合うためにも、冷却期間は必要だ。
そのもっともらしい理由たちが、どうしても臆病な言い訳にしか聞こえないのは、何故だろうか。
直之は一層、ソファにもたれかかる。生暖かい微睡みのむこうに沈んでいく。
モールを人が行き交う。
制服姿の少年少女がいる。
肩を並べて、歓談に花を咲かせて、じゃれあいながら歩いていく。
時間が必要なのは、たぶん自分の方だ。
泥沼の底から、泡沫がひとつ、ぷかりと浮かぶ。
事実を目の当たりにするだけの覚悟が、今はまだないのだろう。先輩の悩みを受け止めて、なお、何かを言ったり行ったりできる自信が、まだない。
変わらない。今も昔も。自分は。
今はもう嗅ぎ慣れた、コーヒーの香りがどこからともなく漂ってくる。
変わったのはそれだけ。それも、何の意味もない。
今と、昔と、自己嫌悪のまどろみの底に、直之の意識はどこまでも落ちていく。
脳天に走る鈍い痛みに、引き上げられた。
見上げれば、目の前に仁王立ちする先輩の姿があった。右手が手刀の形で掲げられている。目覚めなければ、二発目を見舞う気だったに違いない。
「もっと優しく起こして下さいよ」
「次はそっと、背後から忍び寄る」
「必殺判定がつくからやめて下さい」
腰を上げて伸びをすると、思ったよりも背筋が強張っていた。
先輩の左手首には複数の店の買い物袋がぶら下がっていた。
「もういいんですか」
「誰かさんが早く帰りたいって言うから」
「さすが先輩」
わかりやすくおだててみたが、非難がましい視線が、さらに密度を増したばかりだった。
「今日は肉が特売ですよ」
「晩御飯はステーキかしら」
「トンテキで我慢して下さい」
「しょうがねえな」と不敵に笑う先輩と、並んで歩き出す。
平日の夕時だが、モールの人通りは少なくなかった。
場所柄もあって、年若い女性か、カップルの姿が目立った。
はた目に見れば自分たちもそう見えるのだろうか。
そう考えかけて、直之は頭を振った。
さっきまでの思考がまだ尾を引いているらしい。
そこでようやく、隣りに先輩の姿がないことに気付いた。
足を止めて振り返ると、道の半ばで立ち尽くしたまま、ぼんやりと視線を明後日に向けていた。
戻って隣りに立つ。
視線は少し離れたブティックに向けられているらしかった。
店先では同じくらいの若い男女が肩をくっつけて、女性用の服を選んでいる。
女性がひとつを手にとって姿見の前に立つと、男性が横から別の服を差し出す。
「えー」と声を上げつつも、肩を合わせて、最初の方を棚に戻していた。
「バカな女」
ぽそりと、声がした。
能面のような横顔には何の感情も浮かんでいない。
ブティックから件のカップルが寄り添って出てくる。彼氏の腕をとりつつ歩く女性の顔には、何の不満の色も見えない。
「バカじゃないですよ」
直之が言った。
「好きな人に喜んでもらいたい。そう思うのは、バカなことじゃない」
先輩はしばらく件のカップルを目で追ってから、本当に小さく「そうかもね」と呟いた。
「どこか寄って帰りますか」
直之の問いかけに、先輩が振り向く。
「タイムセールは」
「夜の見切り品に期待しますよ」
直之が肩をすくめて答える。
先輩は少し考えて、
「ゲーセン、行きたい。もうしばらく行ってないし」
「知ってますか、先輩。今のゲーセンは全部、ソシャゲみたいにプレイ無料で、ゲーム内課金なんです」
「え、ウソ。まさか時代はそこまで」
「もちろんウソですけど」
ふくら脛を蹴られた。
「だったら良いな、と。実はあんまり手持ちがなくて」
「見るだけでもいいじゃん。帰ったらまたリベンジするんだし」
「もう徹夜はイヤですよ」
「私が勝つまでは寝かさない」
二人並んで、街をぶらついてから帰った。
ニンニクに、ソーセージ、タマネギとあとはなんだろう、などと思いつく限り挙げなら廊下に出ると、換気扇が回っているのは直之の部屋だけだった。
この状況で胸の高鳴らない男はきっといないに違いない。
直之は確信に満ちた言い訳を心の内でつぶやきつつ、努めて冷静に、ポケットから鍵を取り出した。
シリンダーに鍵を差して、回す。
開いた扉の向こうに見えたのは、はたして、前髪をちょんまげに結ったジャージ姿のヤンキーみたいな女が、片手で中華鍋をあおる光景だった。
「あ、おかえり。勝手に使わせてもらってるよ」
コンロの上を中華鍋が軽やかに踊り、具材が弧を描いて宙を舞う。
「期待していたのと何か違う」
「え、なんて」
「いえ。手慣れてますね」
「まぁね」
と得意気に笑う。
「お昼、食べるよね」
「もちろん、いただきます」
三和土で靴を脱いで、狭いキッチンを先輩とすれ違う。
どこかで見たジャージだと思っていたら、部屋に入って納得した。押入れが開け放たれて、物取りの後みたいになっている。
「着るのはいいけど、ちゃんと片付けて下さい」
ぼやく声が聞こえたのか聞こえなかったのか、キッチンから何か声がしたが、ついでにガッチャガッチャと中華鍋がコンロに当たる音も聞こえてきた。
直之は小さくため息を漏らして、押入れとちゃぶ台の上を片付ける。
床に腰を下ろして、ベッドにもたれながらちゃぶ台の向こうを眺める。
ちょうど茹で上がったスパゲッティーがトングで隣の中華鍋に移されていた。あのフライパンで2人前を同時に仕上げるのは無理があろうから、慧眼と言えるだろう。普段から料理をしているのは間違いなさそうだ。
直之の眺める先で、先輩は鍋から茹で汁を少し移して、具材と軽く和えた後、業務用の大きなケチャップを逆さにして、大胆に噴射した。それからもう一度、トングでまんべんなく和えて、広めの丸皿二つに盛りつけた。仕上げにペッパーミルから黒胡椒と、オリーブオイルを振りかけて、フォークを添えてちゃぶ台に運んでくる。
「さすがですね」
「これだけ揃ってればね。男の一人暮らしにしては充実しすぎ」
「今、人気急上昇中の自炊男子ですから」
「洗った野菜が小分けでジップロックに入っているのを見た時は、さすがに引いたわ」
「すぐに使えて便利じゃないですか」
先輩は適当に返事をしつつキッチンに引き返すと、両手にマグカップを持って戻ってきた。
かぐわしい湯気が立つ。中身は在庫処分で半額だったインスタントのコーンクリームに違いない。
「いただきます」
二人で手を合わせて、少し遅めの昼食になった。
パスタをフォークで巻いて口に運ぶ。
ケチャップの風味が懐かしい味わいだった。
「トマトがあればもっとちゃんとしたんだけど」
「これはこれで定番ですよ」
具材はソーセージ、タマネギ、ピーマン、キノコときて、味付けがケチャップとなれば、昭和の香り漂う伝統的なナポリタンだ。
「先輩も料理するんですね」
「他に言い方はないわけ」
「超美味いです」
直截な反応を向けられて、先輩は逆にうろたえた顔をする。
「昨日は晩御飯と夜食まで作ってもらったし、今朝もラピュタパンあったし、このままだと女子の沽券に関わると思って」
などと、もごもご言ってから
「でも、高屋のご飯の方が美味しかったな」
と悔しげにパスタを口に運ぶ。
「人が作ったものの方が美味しく感じませんか」
「それはあるかも」
と頷きつつ、
「でも、相手によるわね」
「それはそうですね」
直之も頷きつつ、手を止めることなくパスタを平らげていく。
二人の皿がキレイに片付いたところで、直之が腰を上げた。
「飲み物入れますよ。コーヒー、紅茶、緑茶、ココア、ホットミルク。何が良いですか」
「喫茶店みたいね」
感心半分、呆れ半分の声を上げて、
「やっぱり形式美だし、コーヒー、と言いたいところだけど、紅茶にしようかな」
「苦手ですか、コーヒー」
「ちょっとね。酸っぱかったり、苦かったりして」
困ったように笑って肩をすくめる。
直之は空いた皿を持ってキッチンに戻った。
ケトルに水を入れてコンロに置く。
食器棚から百均の小ぶりなポットと、なるべく口の広いカップを二つ取り出して、流し台に並べた。
ケトルの湯が沸騰したところで火を止めて、ポット、カップと移して温める。
近所の紅茶専門店で買ったお徳用のアッサムをティースプーンで三杯、ポットに計り入れる。
お湯を泡立てるくらいの勢いで注ぎ、ポットにフタをする。
ティーコージーの代わりにハンドタオルでくるんで、三分間ほど蒸らす。
カップの湯を捨てて、茶漉しを使いながら、紅茶を交互に注ぐ。
二杯分、きっかり注ぎきって、カップを手に部屋に戻った。
「さすがにレモンはないですけど、牛乳はありますから」
カップをちゃぶ台に並べて、元の場所に腰を下ろした。
しばらくは二人、無言で紅茶を傾ける時間が続いた。
あっという間に一杯目が空になり、直之が二杯目を入れに行く。今度はミルクも持って戻ってきた。
その間に二人が発した言葉と言えば、
「どうぞ」
「ありがとう」
「おかわりは」
「いる」
くらいのもので、あとは終始無言だった。
二杯目のミルクティーが早くも底を尽きかけた頃、直之の視線がテレビの前の床で止まった。
カーペットの上には昨夜のまま、ゲームソフトが散乱している。
しかし、よく見れば、昨日遊んだ覚えのないものまで増えていた。
「遊ぶのはいいですけど、終わったらしまって下さいよ」
「また遊ぶつもりだったからいいの」
「また遊ぶ時に出して下さい」
「いちいち出したりしまったりめんどい」
「ケースが痛むんですよ」
「細かいなぁ」
文句を言いつつ、全く動こうとしない先輩を見かねて、仕方なく直之が腰を上げた。床に転がっているケースを集めて重ねると、棚に戻し始めた。
その後ろ姿をぼんやりと眺めていた先輩が、
「これだけ充実してると、いくらでも遊べちゃうよね。しばらくは泊まっていこうかな」
と冗談めかして言った。
直之は横目でチラリと伺ってから、
「いいですよ、べつに。でも、バイトの前日とかは、昨日みたいのはもうムリですからね。あと、ベッドは日替わりですよ」
かすかに息を飲む気配がしたが、すぐに、
「そこは女の子に譲りなさいよ」
「女の子って、辞書で引いてみたらいいですよ」
「じゃあ、高屋は紳士って調べなさい」
「あと部屋着くらいは貸しますけど、下着はダメですよ。まさか今、履いてないでしょうね」
「あとで買ってくるに決まってるでしょ」
直之の背中に空のケースが飛んだ。
泊まりとなると、下着の他にも何かと入用なものがある。
ことに女性はそれが多いという。
近所のコンビニでこと足りるのでは、という直之の提案は「ありえない」と冷たい声で一蹴され、やむなく最寄りのデパートまで電車で買い物に行くことになった。
「もういいよ」
背にした引き戸の向こうから呼ばれて、直之は廊下から部屋に入る。
姿見を前に、先輩が自分の格好を確認していた。
さすがに電車に乗るとなると、ジャージ姿では恥ずかしいし、でも昨日の服は着たくない、ということで、急遽、直之の外着から着れそうなものを貸すことになった。
アイボリーのセーターに、黒のダウンを羽織って、下はジーンズというシンプルな出で立ちだった。
セーターとダウンは大きすぎず、しかし男性用とあって着丈はゆったりとしていて、かえってフェミニンな雰囲気が出ていた。ジーンズに至っては、丈を端折っている他は違和感がない。
「ぴったりですね」
と思わず直之が口走って、鏡越しに睨めつけられた。
「屈辱なんだけど。特にジーンズが」
と忌々しげにもものあたりを撫でさする先輩の姿に、何かフォローをしようと口を開きかけたが、泥沼になりそうなのでやめておいた。
「さて、さっさと行って帰ってきましょう。夕方に近所のスーパーでタイムセールがあるんですよ」
直之は壁掛けのコルクボードから、ピンで留めてあったチラシを手にとる。
「ますます所帯染みてるなぁ」と呆れ声を上げて、先輩は玄関へと向かう。
肩掛け鞄を手にとって後を追おうとしたところで、直之はベッド脇のコンセントに見慣れない携帯が挿したままなのに気付いた。
「先輩、携帯忘れてますよ」
一瞬、その肩が跳ねた。
しかし、振り返った表情はいつも通りで、
「いらないでしょ。遠出でもないし」
どうでも良さそうな声で言った。
「でも、いざって時に困りますよ」
「何よ、いざって」
苛立ちを露わにする先輩に、直之は気遣わしげな表情を向ける。
「迷子センターのお姉さんに、お名前とお年、ちゃんと言えますか」
しばしの沈黙ののち、
「おりたゆうこ、はたちです」
天使のような笑顔で、脛を蹴られた。
・ ・ ・
「じゃあ、ここで待ってて。入ってきたら絶交だから」
「お金をもらったって入りませんよ」
うんざりした顔で、直之はすぐそばの店を控えめに見上げる。
「それはそれでムカつくわね」
「先輩のご要望とあらば」
「絶交ね」
にこやかに答えて、先輩は目の前の下着専門店に入っていった。
その後ろ姿を見守って、直之は少し離れたエスカレーターのあたりまで移動する。
ベンチ代わりのソファに腰を下ろすと、最近のデパートはこんなところにまで良い物を使っていると見えて、泥沼に落ちるように際限なく埋もれていく。座るというよりハマるといった具合で、ようやく直之の尻が落ち着いた。
深いため息が漏れる。
寝不足で働きの鈍い頭に、今日一日、繰り返し浮かんでは消えている問いかけが、再び浮かび上がってくる。
これで良かったのだろうか、と。
結局のところ、直之は何も事情も聞いてはいない。
昨日の涙のワケも、家に帰りたがらない理由も。何も。
察せられることはある。
携帯は持ち歩きたくはない、けれど、充電はして、電源を切らさないようにしている。時折、待機状態を解いて、メールか着信のチェックをしているのも知っている。
結局は当人の問題だ。
話したがらないうちは無理に聞くべきではない。
きちんと向き合うためにも、冷却期間は必要だ。
そのもっともらしい理由たちが、どうしても臆病な言い訳にしか聞こえないのは、何故だろうか。
直之は一層、ソファにもたれかかる。生暖かい微睡みのむこうに沈んでいく。
モールを人が行き交う。
制服姿の少年少女がいる。
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時間が必要なのは、たぶん自分の方だ。
泥沼の底から、泡沫がひとつ、ぷかりと浮かぶ。
事実を目の当たりにするだけの覚悟が、今はまだないのだろう。先輩の悩みを受け止めて、なお、何かを言ったり行ったりできる自信が、まだない。
変わらない。今も昔も。自分は。
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変わったのはそれだけ。それも、何の意味もない。
今と、昔と、自己嫌悪のまどろみの底に、直之の意識はどこまでも落ちていく。
脳天に走る鈍い痛みに、引き上げられた。
見上げれば、目の前に仁王立ちする先輩の姿があった。右手が手刀の形で掲げられている。目覚めなければ、二発目を見舞う気だったに違いない。
「もっと優しく起こして下さいよ」
「次はそっと、背後から忍び寄る」
「必殺判定がつくからやめて下さい」
腰を上げて伸びをすると、思ったよりも背筋が強張っていた。
先輩の左手首には複数の店の買い物袋がぶら下がっていた。
「もういいんですか」
「誰かさんが早く帰りたいって言うから」
「さすが先輩」
わかりやすくおだててみたが、非難がましい視線が、さらに密度を増したばかりだった。
「今日は肉が特売ですよ」
「晩御飯はステーキかしら」
「トンテキで我慢して下さい」
「しょうがねえな」と不敵に笑う先輩と、並んで歩き出す。
平日の夕時だが、モールの人通りは少なくなかった。
場所柄もあって、年若い女性か、カップルの姿が目立った。
はた目に見れば自分たちもそう見えるのだろうか。
そう考えかけて、直之は頭を振った。
さっきまでの思考がまだ尾を引いているらしい。
そこでようやく、隣りに先輩の姿がないことに気付いた。
足を止めて振り返ると、道の半ばで立ち尽くしたまま、ぼんやりと視線を明後日に向けていた。
戻って隣りに立つ。
視線は少し離れたブティックに向けられているらしかった。
店先では同じくらいの若い男女が肩をくっつけて、女性用の服を選んでいる。
女性がひとつを手にとって姿見の前に立つと、男性が横から別の服を差し出す。
「えー」と声を上げつつも、肩を合わせて、最初の方を棚に戻していた。
「バカな女」
ぽそりと、声がした。
能面のような横顔には何の感情も浮かんでいない。
ブティックから件のカップルが寄り添って出てくる。彼氏の腕をとりつつ歩く女性の顔には、何の不満の色も見えない。
「バカじゃないですよ」
直之が言った。
「好きな人に喜んでもらいたい。そう思うのは、バカなことじゃない」
先輩はしばらく件のカップルを目で追ってから、本当に小さく「そうかもね」と呟いた。
「どこか寄って帰りますか」
直之の問いかけに、先輩が振り向く。
「タイムセールは」
「夜の見切り品に期待しますよ」
直之が肩をすくめて答える。
先輩は少し考えて、
「ゲーセン、行きたい。もうしばらく行ってないし」
「知ってますか、先輩。今のゲーセンは全部、ソシャゲみたいにプレイ無料で、ゲーム内課金なんです」
「え、ウソ。まさか時代はそこまで」
「もちろんウソですけど」
ふくら脛を蹴られた。
「だったら良いな、と。実はあんまり手持ちがなくて」
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第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。
◇◇◇◇
飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。
仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。
退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。
他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。
おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。
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失われた君の音を取り戻す、その日まで
新野乃花(大舟)
ライト文芸
高野つかさの恋人である朝霧さやかは、生まれた時から耳が全く聞こえなかった。けれど彼女はいつも明るく、耳が聞こえない事など一切感じさせない性格であったため、つかさは彼女のその姿が本来の姿なのだろうと思っていた。しかしある日の事、つかさはあるきっかけから、さやかが密かに心の中に抱えていた思いに気づく。ある日つかさは何のけなしに、「もしも耳が聞こえるようになったら、最初に何を聞いてみたい?」とさかかに質問した。それに対してさやかは、「あなたの声が聞きたいな」と答えた。その時の彼女の切なげな表情が忘れられないつかさは、絶対に自分がさかやに“音”をプレゼントするのだと決意する。さやかの耳を治すべく独自に研究を重ねるつかさは、薬を開発していく過程で、さやかの耳に隠された大きな秘密を知ることとなる…。果たしてつかさはいつの日か、さやかに“音”をプレゼントすることができるのか?
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【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら
瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。
タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。
しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。
剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。
私たちは、お日様に触れていた。
柑実 ナコ
ライト文芸
《迷子の女子高生》と《口の悪い大学院生》
これはシノさんが仕組んだ、私と奴の、同居のお話。
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梶 桔帆(かじ きほ)は、とある出来事をきっかけに人と距離を取って過ごす高校2年生。しかし、バイト先の花屋で妻のために毎月花を買いにくる大学教授・東明 駿(しのあき すぐる)に出会い、何故か気に入られてしまう。お日様のような笑顔の東明に徐々に心を開く中、彼の研究室で口の悪い大学院生の久遠 綾瀬(くどお あやせ)にも出会う。東明の計らいで同居をする羽目になった2人は、喧嘩しながらも友人や家族と向き合いながら少しずつ距離を縮めていく。そして、「バカンスへ行く」と言ったきり家に戻らない東明が抱えてきた秘密と覚悟を知る――。
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