コーヒー・ドロップス

砂部岩延

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大学生だもの、薔薇色よ

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「適当にくつろいで下さい」
 先に上がった先輩の後ろ姿に声をかけながら、直之は三和土にスニーカーを脱ぎ捨てた。
 聞いているのかいないのか、部屋の中をしげしげと眺めてから、彼女は手にしたバッグを部屋の隅に下ろした。
 直之は1Kの狭いキッチンに立つと、背負った肩掛け鞄からコーヒー豆の袋を取り出して、わずかな逡巡の後に、それを冷蔵庫の棚に仕しまった。代わりに牛乳パックを取り出して、食器棚から取り出した無地のマグカップに注いで、レンジにかける。
 キッチン上の棚からお徳用大入りボトルの蜂蜜と、スーパーの百円シリーズのチョコチップクッキーを取り出す。
 レンジから湯気の立つマグカップを取り出して、蜂蜜を贅沢に注ぎ、小ぶりのスプーンでよくかき混ぜて、クッキーと一緒に部屋に運ぶ。
 狭い六畳間の四分の一近くを占めるベッドと、小さなちゃぶ台の間に挟まれるようにして、先輩は横座りになっていた。
 部屋は和室の畳敷きの上にカーペットを敷き詰めた即席の洋室であるから、どこに座っても座り心地だけは保障されている。
 直之はむき出しの白い太ももに視線を吸い取られないよう苦心しながら、ちゃぶ台にマグカップを置いた。
「ありがとう」
 俯いた彼女のまつ毛はひっくり返した熊手のようにそそり立っていた。濃い目のアイラインによって目の大きさは従来比一・五倍くらいに見える。
「最初、誰だか分かりませんでしたよ」
 ちゃぶ台の向かいに腰を落ち着けながら、直之が言うと、彼女が胡乱な目を向けてきた。
「同じ言葉を返してあげる。なにその格好、シティ・ボーイでも気取ってるの」
「言い方が古臭いですよ」
「うるさい黙れ」
「評判良いんですけどね、垢抜けたって」
「あのマリモみたいな髪と、瓶底みたいな眼鏡をした、オタク感丸出しの高屋は、一体どこへいっちゃったの」
「世を忍ぶ仮の姿ですよ」
「今の姿がね」
「先輩こそ、もっとくつろいでいいんですよ。ほら、その厚塗りの化けの皮を剥がして」
 二人の視線がぶつかって、やがて同時に頬を緩めた。
「中身は変わってないみたいで、安心した」
 しみじみと呟く彼女に、
「俺もですよ」
 直之はほんの少し、本気の色を交えて答えた。
 向かいの先輩が気まずそうに視線を外したが、直之もそれ以上、追求はしなかった。
「冷めないうちにどうぞ」
 手付かずのマグカップを勧めながら、自分の分を手に取った。
 しばらくは二人で無言のまま、カップの中身を啜っていた。
 カップを手にしたまま、部屋の中を順繰り眺めていた彼女が、やがて、
「この部屋って、部室のまんまね」
 とやや呆れたような調子で言った。
 直之も顔を上げて、漫画や小説がぎっちりつめ込まれた本棚や、テレビ台の下に所狭しと並ぶレトロなゲーム機などを目で追って、
「住みよい環境は似通うものですよ」
 したり顔で頷く。
 胡散臭い目をした彼女が、
「そう言えば、部室の模様替えをしたのも高屋だったね」
 と他人事のように呟く。
 今後は直之が非難がましい目をして、
「どこかの部長様が、わがままばっかり言うくせに、ちっとも自分でやらないから」
 一瞬、その視線が泳ぐが、
「ちゃんと手伝ったじゃない」
 と口をへの字にする。
「その発言からして、前提がおかしいんですけど。それも百歩譲ったとして、棚にしまったソフトをまたわざわざ取り出して並び替えるのは、手伝ったうちに入りません」
「大事でしょ、ジャンル別か会社別か。五十音順もいいけど、年代順も趣があって、例えばほら、ここのところシリーズでまとまってるけど、こうして年代順にすると会社の歴史が赤裸々に・・・あ、これ懐かしい」
 さっそく目の前の棚を物色し始めた後ろ姿に、直之が生温かい視線を向ける。
 すると、目を吊り上げて彼女が振り返った。
「ちょっと、コレ、私のじゃないの」
 よれた紙のケースの裏側に稚拙な筆記で、折田裕子、と書かれている。
「ああ、どうりで趣味じゃないのが混じってると思った」
「勝手なことばっか言って。借りパクとか最低なんだけど」
「借りパクじゃないです。今、返したので」
 ああ言えばこう言う、とぷりぷり怒りつつ、棚の物色に戻る後ろ姿に、いつかの後ろ姿が重なって、直之は湧き上がる笑みを禁じ得なかった。
 やがて物色していた先輩がいくつかのソフトを手に、期待の眼差しで振り返る頃には、ゲーム機の本体がテレビに繋げられて、直之の手に古めかしいコントローラーが二つ握られていた。
「ワンコンとツーコン、どっちがいいですか」
「ワンコン」
 即座に返事がやってきた。

   ・ ・ ・

 顔の横で携帯のバイブが唸っている。
 直之は手探りで携帯を引き寄せると、液晶画面を指でなぞって、アラームを止めた。
 のっそりと顔をあげる。肩から毛布がずり落ちた。
 見慣れない部屋の様子に、一瞬、自分がどこにいるのかを見失う。
 寝不足の眼で部屋を見回してようやく、今、自分が部屋の真ん中で毛布にくるまってカブトムシの幼虫みたいになっていることに気付いた。
 カーテンからこぼれる朝の光の中、テレビ台の前には引っ張りだされた歴代のゲーム機たちが並び、ちゃぶ台の上には食い散らかされた晩飯と夜食の皿がひしめき合っている。
 首を伸ばしてベッドの上を伺う。
 予想通り、そこには羽毛布団にくるまってぬくぬくと丸くなった先輩の姿があった。つるりと血色の良い顔が、枕と布団の合間からのぞいている。
 幸せそうな寝顔に顔が緩むんだのも束の間、直之が身を起こしてベッドを覗き込むと、シーツと枕カバーはこそげた化粧で絵の具のパレットみたいになっていた。
 ため息をかみ殺しつつ、苦笑い半分で立ち上がって、音を立てないように部屋を抜けた。
 キッチンの流し台で顔を洗って、寝不足の頭を奮い起こす。
 寝癖を直して、歯を磨いて、用を足す。あとは着替えれば外出できるだけの支度を整えて、あらためてキッチンに立った。
 冷蔵庫の中身を確かめる。
 使い残しの野菜が目に入ったが、朝から面倒な調理をする気にはなれなかった。安売りの不揃い卵と、ソーセージを手にとって、扉を閉めた。冷凍庫から、カチコチに凍った6枚切り食パンを2枚ばかり取り出して、トースターに並べてタイマーをかける。
 ソーセージを薄切りにして、油を引いたフライパンで軽く焼き目をつけてから、卵を落とし、水を少々、蓋をして、半熟のベーコンエッグならぬソーセージエッグを焼く。
 再び冷蔵庫を開けて、奥からラベルのない大瓶を引っ張りだす。足りない野菜分は、見切りの野菜で漬けておいた簡易ピクルスで補うことにする。
 ステンレスの細口ケトルをコンロの火にかけて、冷蔵庫から昨日もらってきたコーヒー豆を取り出した。
 電動ミルは音が大きいので、仕方なしにキッチンの上の棚から手回しのミルを引っ張りだす。
 豆を保存用のキャニスターに移しつつ、今飲む分だけ挽いて粉にする。
 ドリップは手間なので、今日のところはカフェプレスにした。粉とお湯を注いで、五分ほど蒸らしてからハンドルを押し下げて、コーヒーをカップに注ぐ。
 トースターが鳴った。フライパンの目玉焼きも良い焼き加減だ。
 二つの皿にトーストを載せ、その上にソーセージエッグ、塩と粗挽きにした胡椒を振って、脇にピクルスを添える。
 とりかかりから十分あまり、流し台の上に2セットの朝食が並んだ。
 ひとつは先輩用にラップをかけてとっておくいて、直之はその場で立ったまま朝食をとった。
 空いた皿とカップを流しのタライに入れて、水を張る。
 部屋に戻って着替えると、机の引き出しから大きめの付箋を取り出す。
 朝食のこと、家のものは自由に使ってよいことなどをメモとして書き記しておいた。
 家を出る時の鍵のことも書いておくべきか迷ったが、結局、何も書かずにおいた。
 メモは先輩の鞄の上に、良く見えるように置いておいた。
 いつもの肩かけ鞄を背負い、外出の準備は整った。
 ベッドの上では相変わらず先輩が猫か芋虫のように丸くなっている。
 カーテンの隙間から差す薄明かりの中で、先輩の顔色は、心なしか昨日よりもましに見えた。
 直之は部屋の真ん中に立ち尽くして、その寝顔を眺める。
 時間の流れがゆるやかに過ぎていく。
 部屋の外ではない方に足を踏み出しかけて、直之は我に返った。
 軽く頭を振り、部屋を出る。
 後ろ手に、廊下に続く引き戸を閉めた。

   ・ ・ ・

「今日はなんだか眠そうねェ」
 直之が今日何度目か分からぬ欠伸を噛み殺した後で、隣りに立つおかみさんがそう言った。声色からして、責めたいわけではなく、純粋に不思議に思っているらしかった。
「すみません、昨日は少し遅くて」
 よもやレトロゲームで夜を明かしました、などと正直に言えるわけもなく、直之はかえってすまなそうに頭を下げた。
 すると少し離れたところのテーブル席で、黄色い声がいくつも上がる。
「若いっていいわねぇ」
「大学生だもの、薔薇色よ」
「私ももう少し若ければ」
 ランチを囲んだ奥様方が、きゃっきゃと騒いでいた。
 平日のランチタイムはハイソでミドルなマダム達の独壇場だ。休日の昼下がりとは客層もまたガラリと変わる。
 直之がはにかむように微笑んでみせると、声のボルテージはうなぎのぼりに上がった。
「同じ大学の子なのかしら」
 マダムの一人が水を向けてくる。
「高校の頃、同じ部活だったんですよ」
 嘘は言っていなかった。
 もちろん、過去から現在に至るどのタイミングを切り取っても、先輩との間には、マダムたちが期待するような甘酸っぱい瞬間など微塵もありはしなかったが、そこは接客の妙というやつで、適度に勘違いしてもらったほうが、彼女らの会話も潤う。
「それじゃあ、ずっとお付き合いが続いているのね」
「実はそうでもなくて、つい先日、ばったりと再会しまして」
 ふたたび黄色い声が上がった。
 ロマンチックね、羨ましいわ、などと内輪でまた会話が盛り上がり始めた。
 彼女らの言うロマンがはたして、横スクロールのアクションゲームから始まり、古今東西の格ゲーを横断した春の永夜にあったかどうかは分からないが、お客様が盛り上がっているのならば、店員としてそれに勝るものはないだろう。
 あるいは、と直之は思った。
 そんなロマンこそが、必要だったのだろうか、と。
 彼女たちの思い描く薔薇色があれば、少しは何かが違ったのだろうか。
 昨日、あるいはそれより以前にも。
 形だけでも求めてみれば、それを手にできたのだろうか。
 洗い物の手を動かしながら、思考の海に埋没していく。
 隣から手が伸びて、水切りカゴから食器を取り上げた。
「無理しちゃだめよ」
 はっとして、顔を上げた。
 隣りに立つおかみさんが、瓶底眼鏡の向こうから、大きな黒目で見据えていた。
 その瞳に、全てが見透かされているような気さえした。
 直之は口元にほんのりと苦味を浮かべると、
「昨日の話の続きなんですけど」
 ふと、そんなことを口にしていた。
「恋に恋して傷付いた女の子は、その後どうなるんでしょうか」
 おかみさんはしばらく思案すると、
「だいたいの場合、次の恋に消極的になるかしら」
「それ以外では」
「最初の失敗を埋め合わせようとして、ろくでもない男に繰り返し引っかかる」
 今度は即座に答えが返ってきた。
 思わず直之の眉間に皺が寄った。
「それって、どうにかならないもんですか」
「誰かがちゃんとした恋愛を教えてあげたらいいんでしょうけど」
 と 横目で直之の様子を伺ってから、
「初恋の焼き直しだから、偶像を追い求めるのよ。そんな面倒な子、まともな男の子なら相手にしないでしょ」
 にべもなく切り捨てた。
 直之の口から、相づちより先に、ため息が漏れる。
 救いがなかった。
 しかし、ひる返って言えば、偶像たり得る人間がきちんと向き合えってくれたなら、何かが変わる余地がある、とも取れる。
 偶像を担えさえすればいい。
 その資格さえあるのなら。
 直之の視線がカウンターの中ほどに向いた。
 マスターが銀色に鈍く光るケトルを手に、ドリップをしているところだ。
 カウンターに据え付けられた木製のドリップスタンドには、ハンドルの付いたネルのドリッパーが置かれている。その先から垂れた暗褐色の液体が、下のコーヒーサーバーに注がれている。
 ごつごつした大きな手が、ケトルを傾ける。
 細く絞られた金属の口から、銀糸が垂れて、琥珀色の山を編む。繊細に、柔らかく、褐色の雫が編み出されていく。
 偶像を担えるなら。誰でも——
「でもね」
 おかみさんの声が、直之の思考を引き戻した。
「それもひとつの恋愛の形なのよ。だって、恋のやり方は人に教えることなんてできないのだもの」
 先ほどとは矛盾したようなことを言う。
「じゃあ、どうすれば」
 瓶底眼鏡の大きな瞳が直之を見据える。
「選ばせるのよ。最後は勝手に、自分で選ぶの」
 託宣にも似た声色だった。
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