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しおりを挟む息子が去ってから暫く、私は生きる屍のような有様だった。
正直何も手に付かなかったが、薬作りは流石に「そんな気力は無い」などと言える筈もなく、それなりにやるしかなかった。
精神状態が表れるのか、というより掃除をまともにしないので妥当に汚い為に「前より荒れた?」という顔で見回す客もいたが、客自体も少ないし、世間話をする程親しい人も殆どいないので、面と向かって言われはしなかった。
そして、数年。
流石に一人暮らしだと少しくらいは人恋しいものか、以前よりは世間話をする客も増え……といっても数人だが、そのうちの一人から、ふと耳にした。
「ハスロの町近くの鉱山から魔石が出たらしくて」
ハスロは、ユヴェートが成長してから使っていた大きな町だった。
私は息子を思い出し、思わずテーブルの上に伏してしまった。危うく薬をふっ飛ばしそうになったが、大丈夫だった。
「ハ、ハーカナさん?」
一瞬にしてぐたっとした私に、一番近い村に住む奥さんが慌てて声を掛けてくる。今は少し配合を変えた薬の説明の為テーブルに向かい合っていて、その合間だった。
「はい……生きてます」
「あ、あの、私何か変な事……」
「いえ、何でもないです、良かったら続けて下さい……」
「あ、ええ……その、大した事ではないんですが、その、魔石が出たので、それがかなり希少な物らしく、宮廷魔術師の方が視察に来ているとか何とか……」
「そうですか……宮廷魔術師が来るとは、さぞかし凄い魔石なんですね……」
「え、ええ……その、ハーカナさんも、魔女でいらっしゃるし、魔石に興味あるかなと思ったんですけど……。……無いみたいですね」
「あ、まあ……私の魔力は、出所が……」
息子、なので。
私はまたぐたっとした。
「ハーカナさん……!?」
「いえ、お構いなく……どうぞ」
「その……あとですね、その宮廷魔術師の方が、目を奪うような美男で……」
「なるほど、宮廷魔術師で美男となれば、経済力と外見が兼ね備わって、それは素晴らしい物件ですね……」
「物件……。……いえ、ハーカナさんもそういうお話、もしかして興味あるかなと思ったんですけど……。……無いみたいですね」
「あ、まあ……美男も、特定一名以外興味ないかもしれませんね……」
それは息子です。
しかも美男がどうこうというより、息子がたまたま美男だっただけです。
私はもっとぐたっとした。
「まあ! それは一体どなたかしら!」
奥さんの目が輝いた。
「いえ……その、今はもう会えない……」
私は床に転がりたくなった。
「あ、それは……ごめんなさい……」
奥さんがしゅんとした。
「……いえ……いいんですよ……ふふ……仕方のない事なんです……私が……もっと、色々と気が付いて、ちゃんとしていれば……っ、う」
しまった、泣きそうだ。恥ずかしい事に、数年たってもまだこれだった。
「ご、ごめんなさい……!!」
「いえ、とんでもないです……こちらこそごめんなさい。宮廷魔術師ともなると、きっと色々とすごいんでしょうね」
自分が蒔いた辛気臭い空気を拭おうと、あえてその話を引っぱってみたが、何が色々とすごいのかは良くわかっていない。きっとすごいと思うが。
すると奥さんが掌を合わせて口元に持って行った。可愛い仕草だった。
「あっ! そうそう、後回しになってしまいましたけど、そもそも何でこの話をしたかと言いますとね、その魔術師の方の姓が、『ハーカナ』なんですよ。ユヴェート・ハーカナ」
「えあっ!?」
私はガバッと身を起こした。
「きゃっ」
「本当ですか!? ユヴェート!?」
「同じく魔法を扱われますし、もしかしてご親戚かと思ったんですけど、やっぱりそうでした?」
「えっ。ご、ご親戚というか、確かにそんなような……」
間違いでなければ、息子! です!
何故いきなり宮廷魔術師になど就職しているのかわからないが、昔聞いた話から察するユヴェートの魔力ならおかしな話ではない。身元がどうのという展開にならないのかと疑問もあるが、上手くやろうと思えば溢れる魔力でどうにか出来るものかもしれない。
「い、今……ハスロに居るんですか……?」
「ええ。まだご滞在中と聞いてますけど」
「あの、どの宿に……」
「一番大きな、フィルップラだそうですけど」
一人になって考えた。
息子は、今更私になんて会いたくないかもしれない。
ユヴェートは私に、「最後」と言った。それは二度と会う気はないという意思表示かもしれない。
でも。
会いたい。私が会いたい。たまらなく会いたい。健やかに暮らしていると確認したい。確認するまでも無いかもしれないし、そうして何かが変わる訳でも無いけれど、顔が見たい。すごく見たい。「安心した」と言って笑い掛けたい。……いや、泣き崩れるかも知れないけれど、それは全ての精神力を掻き集めて避けたい。
「ユヴェート……」
懐かしい。あの十年間以外、私は半分死んでいるようなものだった。もうそれは……あの子が、決めた事なら仕方ないけれども……また半分死んだまま人生を終えるのも、もうそれはそれでと思うけれど、会えるなら。
会いたい。
これは我儘なんだと思う。こういった風の噂を伝え聞いて、確信はなくても「そうか」と思って、元気に暮らしているならと、そっとしておければ理想的だろう。
でも私は、理想的な母親とは程遠い。息子の都合も考えず、「会いたい会いたい」と心の中で駄々を捏ねている。
「どうしよう……」
懊悩し、私はまたテーブルに突っ伏した。
その夜はほぼ眠れないまま、翌日、結局……駄目な母親の私は我慢しきれなかった。せめてあまりみすぼらしくない格好をと考え、数年前に購入した淡いブルーのドレスを着て出掛けた。体型が変わって無くて良かったが、流行うんぬんについてまでは気にしていられない。
それでもまた一頻り悩んだ為に夜になってしまった。
ついに到着した宵闇に聳え立つフィルップラの前で、再度思い悩んだ。状況のせいで、歴史あるホテルの威圧が半端な威力ではなかった。普段高級な場所に足を踏み入れ慣れていないというのもあるのだろう。
突っ立っていると、不審に思ったかドアマンが声を掛けてきた。
「どうかされましたか?」
「えっ」
少し飛び上がってしまった。
「あああの、こちらにご滞在の……宮廷魔術師の方の、母いや親戚なのですが」
「ああ、然様でございますか……」
ドアマンが困っている様子だった。宮廷魔術師といえば、素晴らしい物件と私ですら言うだけに、急に親戚や知人が増えたりしそうだ。
こんな事を言われても困って当然だ。しかもドアマンの人だ。せめてフロントで言えという話でもある。
「あ、いえ、駄目でしたら帰りますので、ちょっとフロントに行ってきます……」
頭を下げて扉を開けてくれるドアマンの横を通り過ぎて、私は中に入った。
豪奢な内装というのは、慣れない者にとってやはりかなりの威圧を放ってくるが、すっ転んだりもせずにとりあえずフロントに辿り着き、用件と名を告げた。
すると、受付の上品なおねえさんが少し考える様子を見せて、奥に引っ込んだ。代わりに出てきたのは地位の高そうな中年男性だった。
「ルル・ハーカナ様ですね」
「は、はいそうですが……?」
「お通しするように伺っている、という事ではございませんが……」
「はい……?」
一体どういった事なのか??
「お名前は存じております」
「え。何故でしょう??」
「何とも申し上げられませんが、少々お待ち下さいませ。ただ今お部屋にいらっしゃいますので」
中年男性は最新鋭の魔法機器とおぼしき謎の塊から一部品を取り上げ、耳に当てた。知らない間にどんどん世の中は進歩しているようだった。
「失礼致します、ハーカナ様。フロントにルル・ハーカナ様がお見えになっておられますが」
その言葉の後、暫くの時間が経った。
やがて、「畏まりました」と中年男性は頷いた。
フィルップラは魔法設備の導入が進んでいるらしく、各階へは転送装置で向かう形だった。これはセキュリティも高い。流石高級ホテルと誉めそやしたい気分だった。
しかし、来客への普通の対応かもしれないが、ボーイに案内されてしまった庶民な私の居心地の悪さを推して知って欲しい。
そして。
スイートではないようだが、一般の客室よりも立派そうな部屋に通された。宮廷魔術師すげえ。
それはともかく。
目前に、長身のユヴェートが佇んでいた。
あまりにも久しぶりだった。
身に纏う衣服は高級げだったが、そんな事はどうでも良かった。
変わっていない。暫く離れていたが、こうしているとやはり、側に居る事の方が自然に感じる。込み上げる感情に涙が浮かびかけて、必死に奥歯を噛み締めた。
会いたかった。元気そうで良かった。これで思い残す事は無……いや、まだ死ぬ予定はない。
駆け寄って窒息するほど抱き締めてやりたかっ……いや、殺す予定も無いが。
ああもう、何が何だかわからないくらい嬉しい。
「ユヴェート……!」
ボーイが去ると、私は上ずった声で呼びかけていた。
「久し振り……! いきなり来てごめんね、会えて良かった」
「久し振り」
ユヴェートの声は淡々としていた。
一瞬、ぐ、と胸が痛くなったが、ベクトルは親から子へ向いているのが普通だろうし、こんなものだろう。
「フロントに私の事言ってくれた……?」
「いや。近いからもしかしてと思って言い掛けたが、やめた。言い掛けた程度の名を覚えているとは、このホテルの従業員はすごいな」
「そ、そうだね……」
あ。何だろう。距離は……私だけが変わっていないと思っているけれど、本当は……。
寂しいとは思った。一人前になって息子が離れるっていうのはこういう事なんだな、と感じた。
私だけが子離れしていなくて、子の方はとっくに離れている。いや、もうあの瞬間にこの子はちゃんと離れて、ずるずると付き纏っているのは私なんだろうな……。
「ええと……元気?」
「ああ」
「そう……良かった。ちゃんと食べてる?」
「食べてなければ、元気ではないと思う」
「そ、そうだね……」
素っ気ない会話だった。
でも、以前のような感じを期待する私が愚かだとわかっている。時間も経っているし、息子は宮廷魔術師なんてすごいものになっていて、完全に私の手を離れていて……「さよなら」と言われたのに、向こうが望んでいないのに都合も考えないで、予定を聞きもしないで、いきなりこうして押し掛けてきて……仕事が忙しくて、休息が必要かもしれないのに、邪魔をしている。
ああそもそもこの子は、私を母親だと思っていなかった。すっかり忘れていた……。
私だけが、息子だと思っていたんだった。
育ててもらった義理があるからとりあえずは母親扱いしてくれているという事で、だから門前払いはしなかったというだけだったのかもしれない。
なのに。
「……お邪魔してごめんね。顔が見られて良かった。元気そうで安心した。これからも、無理しないで頑張ってね。宮廷魔術師は大変だと思うけど、無理しないで……」
嫌になったら帰っておいで、と言い掛けたが、それは多分……一方的な感情の押し付けな気がしてやめた。あの家はもう、この子にとって帰る場所ではないのだろう。悲しいが。
「……ああ」
短い応え。
「じゃあその……」
帰るね、と言えばいいのに、去りがたい。もしかして、もう二度と会う機会は無いかもしれない。いや、押し掛けて行けば、会ってはくれるだろう。今のように。
でも、息子は会いたいと思ってもいないのに、私の我儘で時間を潰すのは迷惑な筈だ。
この子から私に会いに来てくれる事は無いと思う。だから、二度と会えないかもしれない。だから……だから、ああ、未練たらしい。元気に暮らしているとわかればそれだけで良いだろうに。私はそれで満足するべきだ。それが正しい。その成功を喜んで、幸せを願っていればそれで十分だ。
だから……
「母さん」
呼び掛けられて、目を大きく開いて見返してしまった。
そう呼んでもらえたのが、想像以上に嬉しかった。
「な、なあに?」
声が弾みかける。
「俺が宮廷魔術師だって知って、来たんだよな?」
「うん? まあそうだね」
そんな目立つ職業でなければ、動向など知りようも無かった。そんな仕事を選んでくれて、変な言い方だが、有難かった。
息子は相変わらず淡々と、一定の口調で言葉を続けた。
「何なら、援助しようか」
言われた意味を把握するのに時間が掛かった。
「え?」
変な半笑いの顔になってしまった。
「別に、母さんがそういう目的で来たんじゃないとは思うけど。そう出来るから。育ててもらった恩があるし」
頭を巨大な鈍器で殴られたような気がした。
まるで、育てた事自体を、金銭に換算して返済したいと提案された気がした。返済というものは、終わったらゼロに戻る。息子である事まで返済したいと言われている気がした。
「な……なんで……」
「何で?」
「そんな事……言うの」
単なる親孝行とは受け取れない私がおかしいのだろうか。被害妄想だろうか。離れていた時間がそうさせたのか、既に思い知ってはいる特殊な親子関係のせいかもわからないが、私にはどうしても素直に受け取ることが難しかった。
「そんなつもりであんたを育てたんじゃない!!」
しかも、口からは金切声と形容するのに相応しいものが迸ってしまっていた。
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