婚約者は義妹の方が大切なので、ふたりが結婚できるようにしてあげようと思います。

櫻井みこと

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 翌日から、アデラはティガ帝国に関する勉強を開始した。
 教えてくれるのは、テレンスである。
 ずっとティガ帝国に留学していただけあって、かなり詳しかった。
 アデラが質問を繰り返しても、嫌な顔せずに丁寧に答えてくれるので、とても勉強しやすかった。
 父は最初、きちんとした家庭教師を選ぼうとしてくれた。
 だが王弟派と思われる者が、何人かこちらに侵入しようとした形跡に気が付いたらしい。今は外部の人間を屋敷の中に入れるのは危険だと、テレンスに依頼してくれたようだ。
(何だが、すごいことになってしまったわね……)
 アデラも、侯爵家の人間だという自覚はある。
 けれど父は権力よりも領地の運営に力を入れていたし、女性は政治に関わらない国である。だからまさか自分が、王位が絡んだ争いに巻き込まれるなんて思ったこともなかった。
「ティガ帝国の皇太子殿下と、どこで知り合ったの?」
 勉強の合間にそう尋ねる。
 たとえティガ帝国に留学していても、そう簡単に会えるような存在ではないはずだ。
「皇太子殿下とは同学年だったからね。留学生だからか、色々と気に掛けてくれた」
「そうだったの」
 テレンスはそう言ったが、ティガ帝国には、各国から留学生が集まるという。
 いくら同学年で留学生だったとはいえ、よほど優秀でなければ、皇太子殿下の目に留まることはないと思われる。
 それほど優秀なテレンスを、この国に留めてよかったのだろうかと、つい考えてしまう。
 この国ではまだ身分の壁は厚く、どんなに優秀でも、要職に就ける家柄は決まっている。王太子も彼を評価してくれているようだが、ティガ帝国の方が、自由に生きられたのではないか。
「アデラ?」
 そんなことを考えていたせいで、気が削がれていた。不思議そうに名前を呼ばれて、我に返る。
「ごめんなさい。もう時間がないから、頑張らないと」
 ティガ帝国に行くのは、五日後と決まっていた。
 礼儀作法やダンスは問題ないが、帝国語にはまだ少し不安があった。
「それにしても、わざわざお父様が家庭教師を探してくれるとは思わなかったわ」
 ティガ帝国に行くのは、おそらくこの一度きり。
 この国とは違い、女性も政治や外交に関わる国だと聞いていたが、テレンスの婚約者として挨拶に行くだけだ。
「ああ、それは私が王太子殿下に、いずれ外交を任せたいと言われたせいだろう」
「……え?」
 思いがけない言葉に、アデラは参考書から顔を上げてテレンスを見た。
 王太子は自分が即位した際には、彼を外交官に任命するつもりなのだろうか。
 たしかにテレンスならば、ティガ帝国の皇太子とも親しい。
 しかもあの国には、各国からたくさんの優秀な人物が留学をしている。その中には、学友として親しくしていた者もいたかもしれない。
(テレンスはいずれ、この国の外交官に?)
 もし彼がオラディ伯爵家当主のままなら、いくら優秀でも難しかっただろう。
 でもアデラと結婚することによって、テレンスはリィーダ侯爵家を継ぐことになる。
 身分的にも、彼の父と異母弟が起こした醜聞から遠ざかる意味でも、最適な選択だったのではないか。
(よかった……)
 自分との結婚がテレンスの将来を閉ざすのではなく、むしろ後押しできると知って、アデラは安堵した。
「でも、それがどうして私の家庭教師の話に?」
「この国で、政治に参加できる女性は王妃陛下と外交官の妻だけだ。とくにティガ帝国では、外交でも夫婦同伴が求められる。アデラはこれから、何度もあの国を訪問することになるだろう」
「えっ」
「それとライド公爵に、ティガ帝国から戻ったら、一度アデラを連れて屋敷に来るように言われている」
「ま、待って」
 困惑しながらも、アデラは必死に状況を理解しようとした。
 王太子はテレンスに、自分が即位したあとに外交を任せようとしている。
 そして外交官の妻は、夫の仕事に同行しなければならないこともある。とくにティガ帝国では、夫婦同伴が求められる場面も多いらしい。
(つまりテレンスと結婚したら、私も外交の仕事をするってこと?)
 ライド公爵は現在の外交官で、高齢なのでそろそろ引退するのではないかと言われていた。その公爵夫人は若い頃から評判の才女で、外交官の夫をよく支えている。
 そのふたりに呼び出されたということは、もうテレンスが彼の後継者になるのは決まっているようなものだ。
 それなら、父がきちんとした家庭教師を探そうとした意味も理解できる。
 それにアデラが外交官の妻になるために勉強をしていれば、王弟派に対する牽制にもなる。
「私は、何も聞いてなかったわ。いつから決まっていたことなの?」
 さすがに、ここ最近の話ではないだろう。
 そう思ってテレンスに尋ねると、彼はそれを否定する。
「いや。私はティガ帝国に行くつもりだったよ。そのための準備もしていた。今回のことは、アデラが婚約を承知してくれたからこそ、進んだ話だ」
「私が?」
「そう。アデラのお陰だ。それに私もアデラと一緒なら、この大役も果たせるのではないかと思っている」
 外交官の妻など、自分には無理ではないかと思っていた。
 けれど、女性は何もできないこの国の政治に、少し不満を持っていたのも事実だ。
 学ぶことも嫌いではない。
 それに、これほど優秀なテレンスと一緒なのだ。
「うん。私も、テレンスと一緒なら頑張れる気がする」
 そう言うと、テレンスは嬉しそうに笑みを見せる。
「ああ。ふたりで頑張っていこう」
 テレンスが、アデラの手を握る。
(あ……)
 エスコートのときは何とも思わなかったのに、今はその温もりを意識してしまう。
 ライド公爵夫妻は、大恋愛の末に結ばれたのだと聞いたことを思い出す。
 公爵夫人が、子爵家の長男だった彼の優秀さと人柄に惚れ込んで、何年も掛かって周囲を説得し、婿として迎え入れたのだと。
 まるで自分たちのようだと思ってしまい、それを慌てて否定する。
(私たちは恋愛結婚じゃないから……)
 恥ずかしくなって俯いた。
「アデラ、どうした?」
 不思議そうに聞かれてしまい、何でもないと、笑顔で答える。
「私たちはライド公爵夫妻のような関係ではないけれど、仕事上のパートナーとして、頑張っていこうと思って」
 ふたりの関係を表すには、一番ふさわしい言葉だと思った。
 けれど、それを聞いたテレンスの顔が曇る。
「アデラ」
「……うん」
 何か変なことを言ってしまったのだろうか。
 そう思って慌てるアデラの手が、先ほどよりも強く握られる。
「私は、家族の愛を知らない。父も母も、異母弟も愛していないし、愛されたこともなかった」
 アデラは黙って頷いた。
 テレンスの事情を知れば、それは無理もないと思ってしまう。
 彼が冷酷だと言われていたのも、その家庭環境のせいだ。
 それを知らずに、テレンスを冷たい人間だと思っていたことを、今では後悔している。
「だがその分、普通の家族に対する強い憧れがあった。ライド夫妻のような、仲睦まじい夫婦を羨ましいと思う。たしかにこれは、契約結婚のようなものだろう。だから、愛してほしいなどと言うつもりはない。それでも、私がアデラを愛することだけは、許してくれないか?」
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