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子爵令嬢リィーナの視点
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こんなことになるなんて思わなかった。
何も見えない深遠の闇の中、リィーナはきつく唇を噛みしめた。
夜会でたまたま出逢った、第一王子のグリーダ。
見目は良いが中身は空っぽだと評判の、それでも王太子候補である男。
こういった男を操るのは、簡単だと思っていた。
裏を読むのが苦手どころか、人の心に裏があるなんて思ってもいない男。ただひたすら好意を示せば、それだけで簡単に落ちる。身分からして正妃は無理だが、側妃にくらいはなれるかもしれない。
そんな野心を抱いて、ただひたすら、彼に付きまとった。
だが彼は自分の婚約者である公爵令嬢に夢中で、彼女も自分を愛しているのだと信じ切っている。
(そんなはずはないって、私にもわかるのに)
美しい公爵令嬢が彼の隣に立つときに浮かべる微笑みは、あきらかに作り笑いだとわかるものだ。彼は、婚約者が王太子である自分のために努力をしていると言っていたが、それはさすがにあり得ない。思い込みもここまで来ると、妄想癖と言いたくなるほどだ。
それでも、ここまでグリーダに関心がないのなら、多少嘘を言ってもばれることはないだろう。
そう思ってつい、魔が差してしまった。
婚約者が自分を愛していると信じ切っているグリーダに、彼が最近傍に置いているリィーナに彼女が嫉妬していると告げた。
嫌味を言われる。
取り巻きの令嬢を使って嫌がらせを受けた。
そう報告すると、グリーダはリィーナに同情してくれた。でも愛しい婚約者が、嫉妬してくれていると勘違いをして、少し嬉しそうにも見えた。
失敗したかもしれない、とそのとき思った。
グリーダはリィーナに同情するよりも、あれほど完璧な令嬢が、自分のためにそんな愚かな行為をしているということに、愉悦を覚えてしまっている。
今日は何をされたのだと毎日のように聞かれ、今さら嘘だなんて言えるはずもなく、どんどん嘘が蓄積されていく。
あの公爵令嬢は、自分の名前どころか存在さえも知らないに違いない。それだけグリーダに関心がないのだ。
何も知らないグリーダは、自分の信じたいことだけを信じている。
騙そうとしたのはリィーナだが、彼の噂を上回る馬鹿さ加減に、とても自分の手には負えないと悟る。
ついには嫉妬に狂った彼女に、階段から突き落とされたという話にまで発展してしまい、これを最後にグリーダからは手を引こうと決意した。
国王の側妃を夢見ていた時期もあったが、これの相手は自分には無理だ。
まるで暴走した馬のように、まったく想定外のところに話が飛躍する。これを自分の思い通りにコントロールして、愛していると思わせることができる公爵令嬢のすごさに、勝手に完敗した。このまま領地に引きこもって、噂が落ち着いた頃に、また玉の輿を探そう。
そう思ったのに、またあの王子が暴走した。
よりによって、公爵令嬢に婚約破棄を言い渡したのだ。
あれだけ彼女に夢中だったのだから、本当に婚約を解消するつもりはないのだろう。
おそらく自分を愛するあまり暴走する彼女に、婚約破棄を突き付けて反省を促すつもりだった。それによって自分が、ただの馬鹿から使えない馬鹿に成り下がるなど、思ってもいなかったに違いない。
彼はもう、王太子候補から外される。
もしかしたら、王族ですらいられなくなるかもしれない。
今すぐに、逃げ出さなくては。
噂では、グリーダがリィーナの名前を出し、彼女に嫌がらせをしていたと責めたらしい。さらに、リィーナを正妃にして、婚約者を側妃にしてやるとまで言ったらしい。
ああ、もう駄目だ。
あの公爵家に睨まれたら、もうこの国では生きていけない。
自分で蒔いた種だとわかっていても、何てことをしてくれたのよ、あの馬鹿は、という言葉しか出てこない。
とにかく逃げなくては。
公爵令嬢は自分のことなど気にも留めないだろうが、彼女の名前を出したことを、彼らが許すはずがない。
リィーナはとにかく自分だけでも逃げようと、実家に駆け込んで金目のものをありったけ集め、すぐに王都を出ようとした。
でも、駆け抜けようとした城門の前にはひとりの男性が立っていて、こちらを見てにこりと笑った。
あの公爵令嬢と同じストロベリーブロンドの、美しい青年。
グリーダの婚約者であった、公爵令嬢の兄。
ロザーナ公爵家嫡男の、アルノルドだ。
見た目は優男風だが、彼が恐ろしい策略家であることは、広く知られている話だ。
彼はリィーナを見て、誰もが見惚れるに違いない美しい笑顔を浮かべる。でもリィーナにとっては、死神の微笑みにしか見えない。
「ひぃっ」
思わず引き攣った悲鳴を上げて後退するリィーナに、彼は穏やかな声で語りかけた。
「さすがに君も、あの男がここまで愚かだったとは思わなかったのだろう?」
声を出すこともできず、リィーナはこくこくと頷く。
「だが、愛する妹の名を出したことは、許せないな。君にはそれなりの罰を受けてもらうよ」
気が付けば彼の護衛騎士に囲まれ、逃げ場はなくなっていた。
「ゆ、許してください。ほんの出来心だったんです。まさか、あそこまでだとは、思わなくてぇ……」
涙を零しながら許しを請うが、アルノルドはリィーナを見ない。ただ穏やかに優しく微笑んでいるだけだ。
その微笑みが、何よりも恐ろしい。
真っ青になって震えるリィーナに、彼は優しく言った。
「そんなに怯えなくてもいいよ。いくら未来の王妃の名誉を穢したからといって、処刑まではするつもりはない。拷問もしないよ。ただ少し、私の実験に付き合ってくれたらそれでいい」
「……実験、ですか?」
痛いことはないと聞いて、リィーナの心も少し落ち着く。
「ああ。さっそく、向かおうか」
何をされるかわからずに怖かったが、一度実験に参加すれば許してくれるという彼の言葉を信じて、おとなしく従う。
だが彼に連れてこられたのは、灯りのまったくない地下牢だった。
「……ここは」
怯えて足が竦む。でも、護衛騎士に背後から思いきり突き飛ばされて、牢の中に押し込まれた。
「な、何ですかここは。何の実験を……」
「人は、灯りのない暗闇に閉じ込められたら、何日で気が狂うのか。その実験だよ」
残酷な声が、固く閉ざされた地下牢の向こう側から聞こえた。
「そ、そんな……。嫌よ、許してええ」
どんなに叫んでも、答えはなかった。
やがて遠ざかる足音。
リィーナは自分の手も見えない深遠の闇の中で、ただひたすら、こんなことになるなんて思わなかったと呟き続けた。
※書きたいシーンが増えたので、全三話から全五話に変更しました。いつも想定より長くなるのはなぜだ…。
何も見えない深遠の闇の中、リィーナはきつく唇を噛みしめた。
夜会でたまたま出逢った、第一王子のグリーダ。
見目は良いが中身は空っぽだと評判の、それでも王太子候補である男。
こういった男を操るのは、簡単だと思っていた。
裏を読むのが苦手どころか、人の心に裏があるなんて思ってもいない男。ただひたすら好意を示せば、それだけで簡単に落ちる。身分からして正妃は無理だが、側妃にくらいはなれるかもしれない。
そんな野心を抱いて、ただひたすら、彼に付きまとった。
だが彼は自分の婚約者である公爵令嬢に夢中で、彼女も自分を愛しているのだと信じ切っている。
(そんなはずはないって、私にもわかるのに)
美しい公爵令嬢が彼の隣に立つときに浮かべる微笑みは、あきらかに作り笑いだとわかるものだ。彼は、婚約者が王太子である自分のために努力をしていると言っていたが、それはさすがにあり得ない。思い込みもここまで来ると、妄想癖と言いたくなるほどだ。
それでも、ここまでグリーダに関心がないのなら、多少嘘を言ってもばれることはないだろう。
そう思ってつい、魔が差してしまった。
婚約者が自分を愛していると信じ切っているグリーダに、彼が最近傍に置いているリィーナに彼女が嫉妬していると告げた。
嫌味を言われる。
取り巻きの令嬢を使って嫌がらせを受けた。
そう報告すると、グリーダはリィーナに同情してくれた。でも愛しい婚約者が、嫉妬してくれていると勘違いをして、少し嬉しそうにも見えた。
失敗したかもしれない、とそのとき思った。
グリーダはリィーナに同情するよりも、あれほど完璧な令嬢が、自分のためにそんな愚かな行為をしているということに、愉悦を覚えてしまっている。
今日は何をされたのだと毎日のように聞かれ、今さら嘘だなんて言えるはずもなく、どんどん嘘が蓄積されていく。
あの公爵令嬢は、自分の名前どころか存在さえも知らないに違いない。それだけグリーダに関心がないのだ。
何も知らないグリーダは、自分の信じたいことだけを信じている。
騙そうとしたのはリィーナだが、彼の噂を上回る馬鹿さ加減に、とても自分の手には負えないと悟る。
ついには嫉妬に狂った彼女に、階段から突き落とされたという話にまで発展してしまい、これを最後にグリーダからは手を引こうと決意した。
国王の側妃を夢見ていた時期もあったが、これの相手は自分には無理だ。
まるで暴走した馬のように、まったく想定外のところに話が飛躍する。これを自分の思い通りにコントロールして、愛していると思わせることができる公爵令嬢のすごさに、勝手に完敗した。このまま領地に引きこもって、噂が落ち着いた頃に、また玉の輿を探そう。
そう思ったのに、またあの王子が暴走した。
よりによって、公爵令嬢に婚約破棄を言い渡したのだ。
あれだけ彼女に夢中だったのだから、本当に婚約を解消するつもりはないのだろう。
おそらく自分を愛するあまり暴走する彼女に、婚約破棄を突き付けて反省を促すつもりだった。それによって自分が、ただの馬鹿から使えない馬鹿に成り下がるなど、思ってもいなかったに違いない。
彼はもう、王太子候補から外される。
もしかしたら、王族ですらいられなくなるかもしれない。
今すぐに、逃げ出さなくては。
噂では、グリーダがリィーナの名前を出し、彼女に嫌がらせをしていたと責めたらしい。さらに、リィーナを正妃にして、婚約者を側妃にしてやるとまで言ったらしい。
ああ、もう駄目だ。
あの公爵家に睨まれたら、もうこの国では生きていけない。
自分で蒔いた種だとわかっていても、何てことをしてくれたのよ、あの馬鹿は、という言葉しか出てこない。
とにかく逃げなくては。
公爵令嬢は自分のことなど気にも留めないだろうが、彼女の名前を出したことを、彼らが許すはずがない。
リィーナはとにかく自分だけでも逃げようと、実家に駆け込んで金目のものをありったけ集め、すぐに王都を出ようとした。
でも、駆け抜けようとした城門の前にはひとりの男性が立っていて、こちらを見てにこりと笑った。
あの公爵令嬢と同じストロベリーブロンドの、美しい青年。
グリーダの婚約者であった、公爵令嬢の兄。
ロザーナ公爵家嫡男の、アルノルドだ。
見た目は優男風だが、彼が恐ろしい策略家であることは、広く知られている話だ。
彼はリィーナを見て、誰もが見惚れるに違いない美しい笑顔を浮かべる。でもリィーナにとっては、死神の微笑みにしか見えない。
「ひぃっ」
思わず引き攣った悲鳴を上げて後退するリィーナに、彼は穏やかな声で語りかけた。
「さすがに君も、あの男がここまで愚かだったとは思わなかったのだろう?」
声を出すこともできず、リィーナはこくこくと頷く。
「だが、愛する妹の名を出したことは、許せないな。君にはそれなりの罰を受けてもらうよ」
気が付けば彼の護衛騎士に囲まれ、逃げ場はなくなっていた。
「ゆ、許してください。ほんの出来心だったんです。まさか、あそこまでだとは、思わなくてぇ……」
涙を零しながら許しを請うが、アルノルドはリィーナを見ない。ただ穏やかに優しく微笑んでいるだけだ。
その微笑みが、何よりも恐ろしい。
真っ青になって震えるリィーナに、彼は優しく言った。
「そんなに怯えなくてもいいよ。いくら未来の王妃の名誉を穢したからといって、処刑まではするつもりはない。拷問もしないよ。ただ少し、私の実験に付き合ってくれたらそれでいい」
「……実験、ですか?」
痛いことはないと聞いて、リィーナの心も少し落ち着く。
「ああ。さっそく、向かおうか」
何をされるかわからずに怖かったが、一度実験に参加すれば許してくれるという彼の言葉を信じて、おとなしく従う。
だが彼に連れてこられたのは、灯りのまったくない地下牢だった。
「……ここは」
怯えて足が竦む。でも、護衛騎士に背後から思いきり突き飛ばされて、牢の中に押し込まれた。
「な、何ですかここは。何の実験を……」
「人は、灯りのない暗闇に閉じ込められたら、何日で気が狂うのか。その実験だよ」
残酷な声が、固く閉ざされた地下牢の向こう側から聞こえた。
「そ、そんな……。嫌よ、許してええ」
どんなに叫んでも、答えはなかった。
やがて遠ざかる足音。
リィーナは自分の手も見えない深遠の闇の中で、ただひたすら、こんなことになるなんて思わなかったと呟き続けた。
※書きたいシーンが増えたので、全三話から全五話に変更しました。いつも想定より長くなるのはなぜだ…。
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