アナタトワタシ

空想書記

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カオス ( 混沌 )

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「貴様が子供の天使を殺したのだろう!!!」


    天井から吊るされた枷の付いた鎖に両手を拘束されたシドは毎日、毎日、怒号を浴びせられムチで打たれていた…。
悪魔の防御と回復を担うブラックフラッグの力--闇の力を制御するカラクリが施された天枷 (テンカ) と呼ばれる枷はシドの防御と回復を大幅に制御するもので、正に菩薩の言っていた  “ 死なぬ程度の拷問  ”  となっていた…。
ムチ打ちが終わると簡素な食事を与えられ、次は延々と尋問が続く…。
睡魔と生理現象という本能を抑制される尋問は心身を蝕ばむと罪人の間で噂になっていた…。
睡魔に堕ちれば電気ショックを与えられ、尿を漏らせば延々と殴られる…。


「早く吐いてしまえば楽になれるぞ?」


「…俺は…やってねぇ…」


「よく聞けよ?お前が吐けば戦争は終わるんだ…。今、現在も数多の天使や悪魔が殺し合ってるんだ…。お前が殺しているようなものなんだぞ?」


「…そうなの…か…」


    シドの神妙な顔つきに、尋問員は意外に早く堕ちそうだと笑みを浮かべた。


「…そうだ。わかるか?…お前が」


「やったなんて言うわけねぇだろ馬鹿野郎」


「なに?」


「ハッタリをかますな…。俺がこの戦争の重要参考人として、引っ張られてるんだ…。今は休戦してるだろー」


「ふっざけやがって!!」


    シドは普通なら根を上げてしまうような拷問や尋問にもあまり動じなかった。
トイレに行きたいという要望に対して、吐いたら行かせてやるという鉄板の流れには、容赦なくその場で嘲り笑いながら漏らしていた…。
毎回毎回、わざと漏らすシドに対して根を上げたのは尋問員や看守の方で、シドだけは特別措置としてトイレが認められた。
ただ削られる睡眠と、昼夜問わず続く拷問にはかなりの消耗を強いられた…。


「随分、元気が無くなってきたな?おい…どうだ?そろそろ喋りたくなってきたか?」


「…サ」


「さ?」


「…サノヴァ…ビッチ…」


「ふざけやがって!この野郎!」


   シドは敢えて看守や刑務官の神経を逆撫でする言葉を吐いて、必要以上に殴打され続けていた…。
執拗な拷問と空回りな尋問が一ヶ月ほど続いた…。
菩薩はシドとナンシーの真実が暴かれる前に天法裁判にかける為の手続きを急いだが、案件が案件なだけに思いの外、時間を要した。
幸いしたのは休戦協定が結ばれた為、一部での小競り合いはあるものの戦争は膠着状態となっていた事だった。

     シドが執拗な拷問を受け続けている頃、広大な神の宮の最深部に位置する奥宮の玉座では、自らが調合して創ったヘヴンスターと名付ける葉を仕込んだ煙管を吹かす菩薩が、今日から復帰するナンシーを待っていた…。
端正で可愛らしい顔立ちに、腰まではあるであろう長い瑠璃色の髪を結い上げて纏めた髻(もとどり)を入れた宝冠、装飾の付いたネックレス、ブレスレット、アンクレット。
均整のとれた…、それでいて健康的なボディラインをピッタリと覆うように薄手の布を左肩から右脇腹に斜めにかけ、腰から膝上にかけて斜めに巻きスカート状の衣類を纏った出で立ちで玉座に腰掛けた菩薩は煙管 (キセル) を片手に静かに佇む。


「ひとつき振りだな…ナンシー」


「はい。菩薩様」


「戦争は休戦となった故、主は天罰業務に戻るがよい」


「承知いたしました」


    謹慎前はシドの事にあれほど拘っていたが、あれ以来ナンシーは何も言って来なかった。
言い出したら聞かない親譲りの頑なさを心配していたが、杞憂だったかと菩薩は安堵していた。
残酷な話しだが、菩薩はナンシーを護る為にも、シドを人柱にする方向で事を進めるほかなかった。
この天界には悪魔の冤罪を晴らそうなどという考えになる者などそもそも居なかった…。

    良心の呵責に苛まれた菩薩は異端であり…、シドは冤罪だと進言したナンシーもまた異端であった。
至って平和な日々が続いたとある日…。菩薩は遠く離れた温泉へ湯治に行くことになった。
戦争が始まって以来、延びに延びていた湯治だ…。
戦争は休戦となり、天法裁判を待つばかりで、漸くとれた暇という時間を迎えた菩薩はご機嫌な様子で侍女のハイタム、ロータムと共に巨大な飛空艇に乗り込んで神の宮を飛び立って行った…。


   菩薩を見送ったナンシーは一人、シドの捕えられている天獄へと向かった…。
ナンシーの入獄に警備の者や、看守達の空気はピリリと張り詰め、一様に敬礼をする。
シド・ファッキンダムはどこに投獄されているのかというナンシーの問い掛けに、緊張しながら看守は案内した。
厳格な規制の管理体制が敷かれる天獄に顔パスで入れるナンシーは天罰部隊統括とは別に天獄特別拷問官という役職に就いている為だった。


「罪人はどうなんだ?吐いたのか?」


「ナンシー様!!」


「終わったな!!シド・ファッキンダム」


「ナンシー様の拷問は凄まじいんだ…」


   この天獄に於いて、ナンシー様が拷問した囚人は全て自白しているんだと看守達は高らかに笑い、拷問官として名を馳せているナンシーの異名を声高に言った。


「爆乳拷問官ナンシー」


「サディスト爆乳ナンシーさん」


「ドS爆乳ナンシー」


    その異名を聞いたシドは乳ばっかじゃねぇかと半ば呆れた様子で、白に金の縁取りが施されたレオタードスーツに身を包むナンシーの身体を上から下まで眺める。
身体にピッタリと張りつくレオタードスーツはナンシーの妖艶な身体のラインを忠実に現しており、鎖骨から下の二つの揺れ動く巨大なモノの主張は嫌でも目に入る。


「…確かに…すげぇ乳だな」


   そんなにジロジロ見ないで欲しい…。恥ずかしい…。シドに見つめられると体温の上昇を感じてしまうナンシーは自分の心にある感情にはまだ気付けていなかった…。


「ナンシー様の胸は…いや、拷問はなぁ、貴様の想像を遥かに超えるぞ!!わはははははは!!」


   高らかに笑う看守達を横目に、気恥ずかしさを抑えながらナンシーは右手でシドの下顎に手を添えて下目遣いで見下ろす。


「ほう…下衆な顔だな…。覚悟するんだな…ファッキンダム」


「ほう…でっかい乳だな…。揉み心地は良さそうだな…ナンシー」


「貴様!!ふざけた事をぬかした上にナンシー様を呼び捨てにするとは!!」


「…ん、んん。コイツは…私に任せて、お前達は他の業務にあたってくれ」


「わかりました!!では我々はモニタールームにて待機しております」


    看守達はそう言いつつも、その場を離れようとはしなかった…。
それはいつもの事でナンシーが振るうムチによって悲痛な叫びを上げる囚人を一目見たいからだった…。
致し方なくナンシーは右太股に巻き付けた革のベルトに装備している格納式のムチを取り出した。
音速を超える一振で石壁を抉りとるナンシーのムチは、きつく編み込んだ革に鉄粉とガラス繊維が練り込んである強靭な創りで、長さも通常8メートルよりも長い10メートルほどの長さの特別製だ。
ナンシーはスマンと思いつつ看守達の手前、鞭を思い切り振るった。


「覚悟しろ…貴様」


「いいっでぇえええぁああああああ!!!」


   その一振で肉片を抉り、あまりの痛みに悶絶するシドを見た看守達は高笑いをしながら、モニタールームへと消えて行った。
怪しまれないようにナンシーが鞭を振るい続ける度に、シドの絶叫が木霊している…。
看守達が遠退いた事を確認したナンシーはムチの一振りで、この独房のカメラ2基を破壊した。


「あ~あ、またカメラ壊しちゃったよナンシーさん」


「ナンシーさんの拷問時間はいつも二時間だから、二時間後には部屋もアイツもボロボロだな…」


    この間に一服するのが通例になっていて、特に怪しむ事もなく看守達は昼寝でもするかと眠り出した。


「スマン…。痛かったか?シド」


「め、滅茶苦茶痛かった…」


「シド…お前を助けに来た」


「…しかし…本当に…乳でかいな、お前」


「話しを聞け!!胸ばかり見るな!!時間が限られてるのだ」


「やめておけ…。お前が罪に問われるだろう。もうどうにもならねぇよ…。最期に元気そうなお前の顔が見れて良かったよ」


「…馬鹿を言うな。お前は命の恩人だ…。何としてもここから逃がす」


「どうする気なんだ。こんな要塞みたいな監獄から…」


「光の刻印が刻まれるが…構わぬか?」


     ナンシーの言葉を理解したシドはそういう事かと頷いた。体力と闇の力さえ戻ればどうとでもなる…。今の階級になど未練も興味もないと返したシドはこの厄介な手枷も外してくれと頼んだ。


「天枷 (テンカ)は闇の力を大幅に減少させる働きがあるからな…。力を制御された闇の者には絶対に外せない」


  そう言いながら天枷をいとも簡単に外したナンシーはシドの怪我を腕の一振りで治癒した。
同時にシドの背中には天使の羽根と円環を象った刺青のようなモノが現れた。
拘束が解かれた腕を振り、大きく伸びをしたシドは天井から吊るされている天枷を恨めしそうに見据える。


「全く厄介な代物だな…。こんな物は地獄には無い」


「悪魔達は…光の者を捕えた場合はどう拘束するのだ…」


「光食獣っていう、光エネルギーを食べてしまう触手の化け物に襲わせるんだ…。捕まったら最後、女の天使なんか力を吸い取られながら自我崩壊するまで延々と慰み物にされるんだ…」


    そっちの方がどう考えても厄介だろう…。これだから悪魔はとナンシーは思ったが、シドがソレを行っているわけではないので、言うのをやめた。


「ともあれ、助かったよナンシー…じゃあな。あとは自分でなんとかするよ」


「馬鹿を言うな…。お前が無事に逃げられるまで私も同行する」


「お前をこれ以上、巻き込めないよ…。力さえ戻れば楽勝だぜ」


「いや…。この天獄はそんなに甘くはない。天枷(テンカ)と同じ効果のある床、壁が所々に仕掛けてあるんだ。私が出口まで案内するからついて来てくれ」


「…なんでそこまで」


「お前と同じだ…」


「何が?」


「助けるのに…理由など要らない。お前は…そう言ってただろう」


「いや…俺はそんな善人でもない。お前だから助けたいと思っただけだ」


「それなら…私もだ」


   ニッコリと微笑んだナンシーは行こうと駆け出した。シドはナンシーのすぐ後ろを走りながら「コイツが天使じゃなかったらなぁ」と残念そうに呟いていた…。


「しっかし…」


「なんだ」


「相変わらずスッゲェ乳だな…弾みまくってる。乳がロックンロールだ」


「うるさい!!お前は私に乳以外の興味はないのか!?」


「そんな事ないぜナンシー!!お前は綺麗で可愛いし、優しいし、何より温かい…。天使ってヤツはもっと冷酷だと思ってた。俺はお前に興味津々だ。もっと早く会っていたかったってのが本音だ」


「そ、そうか…。わかった…。も、もういいよ…」


「何だよナンシー。ハハハ…。照れてるのか?」


「う、うるさい!!とにかく走れ!!」


    シドの言葉が嬉しかった…。ナンシーも同じ気持ちだった…。瀕死のところを救われ、シドと居た三週間ほどの時間はとても心地良かった…。
この男ともっと早く出逢っていたかった…。
また逢いたい…。そう思っていた。
そうでなければこんな危険を冒してまで助けようなどとは思わない。彼が戦争犯罪人として連行されてきた時は、とにかく生きていた事に涙が溢れそうだった…。
つい先刻、拷問で傷だらけのシドを見た時も冤罪なのにと胸が苦しくなった。
天界には絶対的正義の名の下にという信念が強く、悪と見なした者、敵と見なした者には慈悲の欠片もなく容赦のない所業をする。
ナンシーは天罰部隊統括という役職に就いていながら、天罰を与える対象の魂を見極め、それに相当する罰を与えていた。
慈悲をかけるなど愚かな事だ、天使は神の指示通りに動き、断罪すればよいという者の方が圧倒的多かった…。
菩薩以外に懐かないナンシーは、部下や仲間からの人望はあったが、上層部からは疎ましい存在だった…。
我等こそが至高、我等こそが絶対正義という全てを見下ろすような他種族に冷たい天界の者達より、悪魔のシドのほうがよほど温かく感じた。


「あれ?ナンシー様?」


「早速、お出ましか…」


「シド・ファッキンダム?!なぜお前が!!」


「…殺しはしないから、勘弁しろよ♪」


   そう言って微笑んだシドが手のひらから凍てつく空気を辺りに広めると、冷気を帯びた空間の気温が一瞬で氷点下になっていく。


「大凍界 (ダイトカイ)」


   看守が声を上げたと同時に瞬く間に辺りを氷漬けにし、三人の氷柱が出来上がった。
この業は凍らせた対象を弾けさせて粉々にするモノだが、シドは看守を  ”  敵  “  だとは認識していない事と、ナンシーの顔もあるので、そのままにして横を通りすぎて行った…。


「ありがとう…シド」


「別に…礼を言うことでもないだろう…無益な殺生をする必要もない」


「…そうだな。やっぱりお前は…いい奴だ」


「今頃、気付いたのか?ナンシー。俺はいいヤツだぞ」


「……あのな、少しは謙遜したらどうだ…」


    二人は天獄を駆け抜けながら、証拠映像を残さない為に監視カメラを壊し、時には凍結させて進んだ。そこには証言が取れても映像が無ければという意図があったからだ。
出会った瞬間に凍らされてしまう為、看守達同士の連絡が滞った結果シドとナンシーはしばらくの間は難なく天獄を走り進める事が出来ていたが、次々と映像が途切れる事に不審に思った数人の看守達は様子見に出て息を呑んだ…。
通路は氷漬けにされ、そこには墓標の様に氷柱が点在していた。
その奥から、シドが足止め程度にしか凍結させていない氷柱から自然解凍で動けるようになった看守が酷く狼狽えて別の看守に現状を伝えた。


「シド・ファッキンダムが…ナンシー様と脱獄している」


    その緊急事態に揺れた天獄は厳戒態勢が敷かれ、上を下への大騒ぎとなった。カオスに狂った天獄を嘲笑いながらシドとナンシーは軽快に駆け抜けて行った。


    その頃、菩薩は…。


「…はぁ…やっぱり温泉はいいのう……。日頃の鬱憤も吹き飛ぶ」


「左様にございますね。菩薩様」


    侍女のハイタム、ロータムと共に 、温泉でほっこりしていた。


   ナンシーは菩薩が遠く離れたこの温泉に湯治に来る日を狙っていた。天法裁判までの間で神の宮から菩薩が遠く離れるのはもうこの日しかなかったからだ。


「菩薩様…」


「なんだ…わらわはほっこり中だぞ」


「緊急連絡が入っております」


「…緊急連絡?」


「天獄へ拷問の為に来訪されたナンシー様の手引きにより、重要参考人のシド・ファッキンダムが脱走しました」


「な?!、何だとぉおおおおおおおおおお!!!」


   あまりの報せに湯船から驚いて立ち上がった菩薩から煌めくように弾けとんだ水滴が七色に反射して、艶やかな身体を映し出した。
水滴を帯びた二つの柔らかなモノはブルンとゼリーのように揺れ動いている…。


   わらわの湯治を…狙うたのか…ナンシー…。それほどまでに…あの男を…


「菩薩様…如何がなされました?」


「緊張事態だ…。戻るぞ!ハイタム、ロータム」


「…かしこまりました」


     菩薩は湯船から上がると足早に着替えながら、ミカエルに電話をかけた。その間に腰まで伸びている艶やかな瑠璃色の髪をハイタムとロータムが慌てて乾かしながら結い上げて髻を創り、宝冠を菩薩の頭上に被せている。


「あれ?今日は湯治ではなかったか」


「緊急事態だミカエル…。極秘に主に頼みたい」


    菩薩はシドとナンシーの地獄での経緯をくれぐれも極秘でと念を押した上でミカエルに話した。
経緯を聞いたミカエルは困惑した様子で、お人好しな悪魔も居たもんだと返し、天法裁判に絡んでいる阿弥陀如来には伝えるのかと訊いた。


「言えるわけなかろう。ナンシーを罪人にはできぬ」


「ま…悪魔の命など私にとっては塵以下だ、シド・ファッキンダムに人柱になってもらうというのが上策であろうな…」


「すまぬ。わらわも今から戻る故…。こんな事は主にしか頼めぬ」


「分かってる…。騒ぎになるのは避けられないが、シド・ファッキンダムとナンシーの経緯は絶対に漏れないようにするよ」


   ミカエルとの通話を終わらせた菩薩は祈るような思いで飛空艇に乗り込んだ。


   …妙に素直だと思うていた…。ナンシーは始めからこの日を狙うていたのか…。…わらわの湯治の日を…狙うて…。

   ナンシーを護る為にシドの冤罪を晴らす何かをする事を選択せず、安易に人柱にしようとした事が裏目に出てしまった…。もう少しナンシーときちんと話しをするべきだったかと菩薩は後悔していた。


「行くぞハイタム、ロータム」


「かしこまりました」


「全速力で如何ほどかかる」


「二時間でございます」


「天獄に直行だ」


「かしこまりました」


(…ナンシー…早まった事を…)


「…頼むぞ…ミカエル。…なんとしてもシドを捕え、ナンシーを止めてくれ…」


    唸りを上げた菩薩の飛空艇は77万馬力の出力を遺憾なく発揮し、マッハ17ほどの速度で天獄を目指した。


「止まれ!!シド・ファッキンダム!!」


「止まれと言われて、止まるようなら悪魔じゃねぇだろ」


   そう言ってシドは死に至らない程度の冷気で看守達達を次々と氷漬けにしていった。
通路から様々な武器を携えた看守達が待ち伏せしていた。
その中の一人が威嚇のつもりで掲げたロケットランチャーを発射してしまい、唸りと白煙を上げながらシド達に向かっていく。


「ナンシー危ねぇ」


    ナンシーに覆い被さったシドにロケット弾が直撃した。
立ち上る白煙と崩れる瓦礫からケホケホと噎せながらシドはshit!!と舌打ちをする。


「こんな至近距離で撃ちやがって。大丈夫かよナンシー」


「…う、うん」


    ロケット弾一発如きでは大した事はないのだが、咄嗟に護ってくれたシドの行為にナンシーは胸が高鳴った…。
どうしたと言うのだ…。胸がドキドキする…。近い…シドの顔が…。
これは…。こんな非常事態に何を考えてるのだ…。シドを逃がすためにここに居るのに…もう逢えないのかと思うと胸が苦しくなった。


「危ねぇな馬鹿野郎!!ナンシーに当たったらどうするんだ!!」


「お前がナンシー様から離れろよ!!!」


   そこに居合わせた看守達は口を揃えて叫ぶようにシドに返した。
確かにそうだと他人事の様に頷いたシドはナンシーを抱え上げて軽快に駆け出して行く。


「オラ!撃ってみろ!!お前等」


「お、下ろせ!バカ!!」


「なんて卑怯なヤツなんだ(汗)」


「卑怯結構、勝てば官軍」


    あらゆる武器を携帯した看守達の横をすり抜けていく二人を呆然として見送っていた看守の一人はは「ナンシー様…。何か…楽しそうだったな…」と呟いていた。


「お、おいシド」


「抱かれ心地はどうですか?姫」


「わ、悪くは…ない…よ」


「ナンシー」


「な、なんだ」


「俺が、子供の天使を殺したのかは…訊かないんだな…」


「訊くまでもない…。お前はやっていない。これは冤罪だ…。だから私はお前を逃がす事にしたんだ」


「…嬉しいぜ。ナンシー」


「こんな事を言うのもなんだが…、菩薩様も…お前は冤罪だと見抜いていた…。だが…」


「…お前を護る為なんだろ?デカ女の判断も間違ってはいないさ…。大体の事情は…わかってるつもりだ…。お前が信じてくれてるだけで、それだけで充分だ」


    通路に設置されたカメラにナンシーが映り込まないようにシドは常に壁を凍らせながら出口を目指した。


「ゴキゲンだぜ」


「シド・ファッキンダムとナンシー様を止められません!!」


    シドはナンシーを抱え上げ、時には担ぎ上げ、手を繋ぎ、常に密着しながら移動していた為に看守達は思うように手が出せず、多少の弊害はあった物の、容易く出口に出る事が出来た。
手を繋いで外に出た二人を二十人ほどの天使達が待ち構えていた。その中で一際、背が高くスラリとした長髪の天使を見たナンシーは足が止まった。


「ミカエル!!!」


「ゲームオーバーだ…。ナンシー」


    流れるような直毛の金髪に端正な顔立ち、キリリとした眉、二重瞼と透き通るような瞳、ハリのある肌艶から中性的な色気を醸し出しているミカエルが、虫ケラでも見下ろすが如くシドを見据える。


「箸にも棒にもかからぬ落ちこぼれの悪魔だと訊いていたのだが…。この天獄をこれだけ氷漬けにするとは…大したものだな」


「コイツが…ミカエルか…」


「…コイツ?フフ…。随分と頭の悪い物言いだな…シド・ファッキンダム…」


「…何か言いたそうだな…」


「ナンシーにヒプノタイズ(魅惑の催眠術)をかけたのだろう…」


「さぁ?どうだろうな。お前がナンシーにかけられてるんじゃねぇのか?」


   揶揄するようなシドの言葉にミリミリと怒りを滾らせるミカエルが、神気を解放し出すことに危機を感じたナンシーはミカエルを絶対に本気にさせてはならないと狼狽えて声を上げた。


「待ってミカエル…。私は魅了などかけられてはいない!!私は自分の意思でシドを助け出した!!」


   馬鹿馬鹿しいといった素振りで右手で長く美しい金髪をかき上げたミカエルは、重要参考人のシド・ファッキンダムの案件は既に証拠となる肉声は提出されていたが、本人が呪言を飲まされたと関与を否定。
菩薩の恩情であと一回、自白を取るという指示の下、尋問に赴いたナンシー・ヴェイカントに卑劣な催眠術をかけて脱獄を手伝わせた。
その後の調べで呪言は虚言だと判明し、シド・ファッキンダムは天使殺しの罪、この度の大戦を引き起こした戦争犯罪人としても立証され、拷問刑777年魂滅却の刑に処す。これが紛れもない天界の見解であり事実だと宣った。


「…そんなの…嘘ばかりではないか…」


「ここに居る天使も、看守も…全員が証言するさ…。戦争を終わらせたいからな…。ナンシーも戦争は終わらせたかっただろう?無益な殺戮はもうたくさんだと言っていたではないか」


「…そうだけど…これは…違う」


「何も違わない…。この悪魔が人柱になるだけだ。冤罪だろが無かろうが…大した問題ではない」


「…なんてこと」


「悪魔の命など…我々にとっては塵以下だ…」


「ミカエル!!!」


「よく考えるんだっ!!!ナンシー!!!菩薩の思いを…私の思いを…ここに居る皆の思いを…」


「………」


「…脱獄不可能だと言われる天獄をこうもすんなりと脱獄出来たのは何故だと思う…」


「………」


「今ならまだ間に合う…。催眠術にかけられたお前を誰も咎めやしない…。シド・ファッキンダムを引き渡せ」


「おいナルシスト」


「なんだ…チンピラ」


「ナンシーは…罪に問われないんだろうな…」


「当然だ」


「シド…すまない…」


「謝るなよ…ナンシー」


「私には…もう」


    ナンシーは下唇を噛み締めて、ボロボロと涙を溢した…。
繋いだ手に力が込められるのは今生の別れという意思だと受け取ったシドは優しい瞳でナンシーに微笑みかける。


「いいんだ…。これで戦争も終わる…俺は…喜んで人柱になるよ」


「私には…もうこれしか…出来ない」


   そう言ったナンシーは繋いだシドの手を引き寄せて、力強く抱きついた。突然の事に戸惑ったシドだったが、その行動がなにを意味しているのかを直ぐに察知した。


周囲の音が消え、空気の流れが変わった…。


シドと同時に気付いたミカエルはそんなまさかと目を見開いた。


「おい!!ナンシー!!」


「ナンシー!!やめろ!!やめるんだ!!」


「もうたくさんだ!!こんな嘘だらけの天界など…私は…私はもう…堪えられない…」


   ナンシーの頬から零れ落ちた涙が地面に落ちたその時、辺りの空気が渦を巻き出した…。
その渦がゆっくりと淀み出すと同時に漆黒の粒子が立ちのぼり、ナンシーを取り囲むように覆っていく…。


「…堕天だ…堕天が…始まる」


「ナンシーから離れろ!!巻き添えで堕心になってしまう!!( アナタトワタシ 呪言 ) 誰もナンシーに触れてはならん!!」


   シドに抱きついたまま涙を溢すナンシーの身体を中心に渦を巻く淀んだ闇の力が驚異的に増大していく…。
強大な闇のエネルギーが自分にも流れ込み、己の壊力が大幅に増大していくのをシドは強烈に感じた…。その力の流れはナンシーの堕天が着実に進んでいる事を意味していた…。
シドは酷く狼狽えてナンシーの両肩に手を添えて声を上げる。


「やめろ!!やめるんだ!!ナンシー!!まだ間に合う!!堕天をやめるんだ!!!」


「シドは…シドは!!命をかけて私を助けてくれた!!今度は私が!私が!!シドを助ける!!」


「…なんと…いう…事だ」


「…ナンシー様!!!お止めください!!!」


    ミカエルに同行してきた数人の天使と、天獄の関係者達は催眠術にかけられたままの堕天は有り得ないため、なぜナンシーが自らの意思で堕天までしてシドを助けるのか分からなかった…。
堕天するナンシーを見据え、ある者は呆然と立ち尽くし、ある者は悲鳴を上げ、ナンシーを慕う者は涙を溢してやめてくださいと懇願している。

    ミカエルは、なんたる失態だと酷く狼狽えてスマートフォンを取り出し、菩薩に現状を伝える。


「落ち着いて聞け…菩薩」


「なんだミカエル…。まさか、シドを取り逃がしたのか…」


「…ナンシーが…」


「ナンシーが?!」


「……ナンシーが……シド・ファッキンダムを逃す為に…」


「……何」


「……堕天…した」


「…なん…だ…と」





……続く。




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日本の田舎で平凡な会社員だった松田理奈は、不慮の事故で亡くなり10歳のマグダリーナに異世界転生した。転生先の子爵家は、どん底の貧乏。父は転生前の自分と同じ歳なのに仕事しない。二十五歳の青年におまるのお世話をされる最悪の日々。転生チートもないマグダリーナが、美しい魔法使いの少女に出会った時、失われた女神と幻の種族にふりまわされつつQOLが爆上がりすることになる――

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