転生したら棒人間

空想書記

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涙 2

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    死神シドの力によって取り出された蓮華の魂の色が染み込んだシドチェーンの南京錠…。
それを開けて真一郎から取り外せば忘れてしまった記憶を取り戻すこともないだろう…。


…これで…終わり


そう心の中で思った蓮華はシドチェーンの先にある南京錠に手を添えて鍵を差し込んだ…。


さよなら…棒君…


   鍵を右に回そうとした蓮華の手を真一郎は静かに握りしめた…。
温かい…。彼の手はこんなにも温かい…。何度も触れ合った彼の体温、感触が蓮華の動きを止めてしまう。
これを回してシドチェーンを外してしまえば、私の魂の一部を宿した南京錠を外してしまえば彼は私の事は思い出せない…。それが永遠の別れになってしまう…。回さなければ…回さなければ…。
真一郎に添えられた右手に蓮華は指先に力を込めて右へ回す…。



「無駄ですよ」


「………」


「この部屋に…ボクは一年も蓮華さんと一緒に居たんですね」


    真一郎の言葉に蓮華はハッとして顔を上げた…。
相当の決心で鍵を外して真一郎の記憶を封じ込めようとしていた事が、涙に濡れる蓮華の顔が物語っていた…。


「…あ…あ」


「もう二度と…二度と君を忘れない」


    ハラハラと涙が頬を伝っていく…。口許を抑えて涙を溢し続ける蓮華の薬指の刺青が金色に煌めいて、弾けるように光の粒となって真一郎の額に吸い込まれて行った…。
同時にシドチェーンの南京錠から、温かみのある橙色の粒子が蓮華の額へと吸い込まれていく。
涙に濡れる蓮華を力強く抱き締めた真一郎は噛み締めるように口を開いた。


「逢いたかった…蓮華さんに…ずっと…ずっと逢いたかった…」


「……ぼう……くん」


    もう終わりにしよう…。真一郎の記憶を封じてしまえば、全てが終わるんだ。
この人は嶺衣奈のもとへ戻るべきだと決めてシドチェーンを外してしまおうと鍵を差し込んだのに…。
間に合わなかった…。
    蓮華の躊躇いが鍵を回すのを遅らせたのか、先に真一郎が記憶を取り戻したのかは…そんな事はもうどうでもよかった…。
    それほど蓮華の胸は高鳴っていたが、婚約者が…嶺衣奈の悲しげな瞳が次の行動を止まらせている。
吸い込まれそうな真一郎の瞳が蓮華を真っ直ぐに見つめている事で、彼の次の行動が容易に分かってしまう…。


「…ダメだよ…棒君…ダメ」


「…嫌なら…拒否してください」


    嫌な筈がない…。待ち望んでいたくらいだ…。彼とは二度と逢えないと思っていた…。幸運にも同じ街に暮らし…幸運にも出逢うことができた。
拒否なんて…出来る筈がなかった。
重なる唇が蓮華の倫理と理性をアッという間に消し飛ばしてしまった…。

    互いの存在を確かめ合うように吐息を荒くして、唇を貪るように合わせる。
深く舌を絡め合う妖艶な音が静寂のリビングで木霊していた…。
一分…二分…三分…絡み合う舌が淫靡な音を奏で続けている…。
   心拍数がもの凄い勢いで加速していた。腰が抜けそうになるキスなんて初めての経験だった。
ガクガクと抜け落ちそうな身体を真一郎は下半身の丸みを帯びた部分に手を添えて蓮華を支えた。


「…は…あ」


「……蓮華さん…」


「……ぼう…く…ん」


    熱の籠った下半身の末端部分が狂おしいほど疼いている…。
それを裏付けるように汗と混ざった体液が太股から伝っていた…。


「…ご…ごめん…ちょっと…凄い事に…なってる」


「…ボクもです」


           物凄く… 滾っている


二人に共通している感覚だった。
話したい事は山ほどある。
訊きたい事も山ほどある。
話さなくてはならない事も…。


    真一郎はゆっくりと蓮華の身体に傾きをかけていく。
腰の砕けそうな蓮華は逆らうことが出来ず、リビングの床に腰をおろしてしまった…。
加速する心音が次のイベントに移るためのドラムロールの様に響き渡る…。


「…れ…嶺衣奈さんとだって…シて…るんでしょう…?」


     何を言ってるんだ…私は。
先刻まで、嶺衣奈の元へ返すべきだと判断し、真一郎の記憶を封じ込めようとシドチェーンを外しにかかっていたのに…。
既に真一郎を独占しようとしてしまっている…。
本能と理性が、欲望と倫理が葛藤を繰り返していた…。
    恥じらいを見せながら心に問いかける蓮華のうつむき加減の横顔が、真一郎の心拍数を加速させ血流は滾りの脈打つ意思へと注がれていく。


「蘇生してからは…シてないです」


「…なん…で」


「滾らないからです」


「…そ…う…なんだ」


    安堵している…。安堵してしまっている。
この人は嶺衣奈のモノ。
この人は嶺衣奈のモノじゃない。
この人は私のモノ。
この人は私のモノだ。
この人は私のモノにしてしまえ。
この人は私のモノにしてしまおう。
そんなワードが頭の中で渦巻いていく。
理性は?倫理は?
彼の手が触れるだけで、絶頂ってしまいそうなほど、身体中が敏感になってる…。
ダメだ…こんなのは絶対に…ダメに…決まってる…


    葛藤に揺れる蓮華の意思を吹き飛ばすが如く、真一郎の滾る意思が、蓮華のゼロ距離の内側へ攻めいって来た。


「…っあ…ああっ…」


    その刹那に蓮華の理性と倫理は彼方へと消え去って行った。
本能の赴くままに身を委ね、煩悩を堪能し尽くして、吐息と共に汗と体液を迸しらせながら、卑猥な音と匂いがこの空間を占拠している…。


                絶頂く…


    果てを繰り返しても繰り返しても満たされる事のない欲求を互いに貪り合っていく…。
蓮華の放つ、甘ったるい声と、甘ったるい匂いが真一郎を獣に変えていった…。
互いの煩悩を開放し尽くして、気絶するほど痙攣し、腰が抜けるほど快楽に溺れた…。
何度、果てを迎えたのかわからない…。
どれくらい時間が経過したのかも分からないほどだ…。
果ての末に眠りについてしまい、目を開けても彼が居た…。
夢でも幻でもない…棒人間から蘇生した彼が居た…。


「おはよう…蓮華さん」


「…棒…君」


「今はもう真一郎です」


「…ごめん…真一郎君」


「気持ち良かったです」


「言わないで。本当、そういうの…」


    いけないと思いながら蓮華は抱かれてしまった。
辺りがすっかり暗くなってしまっている事に、盛りのついたネコか私はと自己嫌悪に陥っていた…。


「凄かったです」


「だから、言わないで…恥ずかしい…」


「棒くん!棒くぅ~んって…こんなんでし…グェッ」


蓮華は耳まで真っ赤にして真一郎の首を締めた。


「黙ろうか?ん?」


「…ご…ごめん…なさい」


    こんな感じになるのは本当に久しぶりで、懐かしい…。
楽しい…。やっぱり彼と居ると楽しい…。倫理がどうのと思っていた自分を封じ込める様に蓮華は今を楽しんでいる。
身体が合うという言葉を聞いたことがある。
真一郎は正にそれに当てはまる。
本当に凄かった…。
今までの人生で最も滾ったかも知れない…。
明るい部屋で改めて真一郎の顔をマジマジと蓮華は眺める。

    栗毛色のサラサラな直毛、端正な顔立ち、クッキリとした二重瞼に護られる女の子のような可愛らしい、それでいてキリリとした煌めく瞳…。
漫画の王子様のようなその顔立ちに蓮華は改めて魅了された。
    薄暗い寝室で幾度となく見つめ合ったあの瞳が、こんなにも鮮やかに見ることが出来る…。
ウットリするっていう事は、これほどまでに腰がくだけてしまうと言う事なんだと蓮華は思い知らされた…。

    少し切れ長の少女と大人の間の様な温かみのある潤んだ瞳、流れるようなセミロングの黒髪が艶やかに煌めき、身体から放たれる甘ったるい匂いと醸し出される艶…。蓮華の細胞の全てが真一郎の身も心も支配してしまっていた…。

惹かれ合うっていうのはこう言う事なんだと二人に共通している想いだった。
ずっとこうして居たい…。
時間が止まってしまえばいいと思っていた蓮華は意を決して先の話をする事にした…。


「あのさ…真一郎君」


「何ですか?」


「…まさか君がね…、曽我部  真一郎だなんて夢にも思わなかった…。私となんか、身分が違い過ぎると思う…。…住む…世界…が…違い…すぎる…よ…」


     言いながら声を震わせていく蓮華の言わんとする事を理解した真一郎は、それを遮るように静かに抱き締める。


「…蓮華さんの居る世界が…ボクの住む世界です。君が居ない世界などに住む気はないです」


「…でも、私なんかで…ん」


    真一郎は先の言葉を言わせないように唇を合わせた。
たったこれだけで理性と倫理を飛ばされてしまう…。


「……真一郎……君」


「私なんか…なんて言わないでください。…ボクは蓮華さんが良いんです」


「……嶺衣奈さんは…嶺衣奈さんはどうするの…」


「別れます」


    そんな簡単に行く筈かない…。
倫理的にもダメに決まってる…。
あんなにもメディアで取り沙汰されている事なのに、なぜこうも重大な事を楽観的に言ってのけてしまえるんだろう…。
そう思いながらも、別れると即答してくれた事に蓮華の胸は高鳴っていた…。


「もう離さない。ボクは一生君を掴まえておく…。嫌ですか?」


     フルフルと蓮華は首を横に振った。嫌な筈がない…。待ち望んでいた事だ…。棒人間と別れてたったの数ヵ月で巡り逢う事が出来たどころか、心も身体も繋がることが出来た…。
急すぎる展開と、現実的な倫理感、社会的地位の違いが蓮華を戸惑わせているだけだった。


「蓮華さんの…本当の正直な気持ちを聞かせてください」


「…一緒に居たい…一緒に…居たいよ…」


     真一郎はシドチェーンの解錠されていない南京錠を手に取り、蓮華に見せて口を開く。


「…ボクの首は…蓮華さんのモノです」


    そう言って、先刻開け損なった南京錠の鍵を蓮華に手渡した。
二人は唇を重ね合わせた…。
駐車場に停めたマセラッティは置いて行くので代車にして下さいと言い残して、ハイヤーを呼んだ真一郎はアパートを後にした。
蓮華に取ってはターニングポイントとなった今日の瞬間は夢のような時間になった…。
蓮華は迷いと不安と歓喜が入り交じった状態で、倫理感の重圧に押し潰されそうだった…。


    自宅マンションに着いた真一郎は直ぐ様、別れ話をするつもりでいた…。
リビングに入ると嶺衣奈は全てを見透かすような眼で真一郎を責め立てている。


「仕事…遅かったのね」


「いや…今日、蓮華さんの退院だったから家まで送って、彼女の車が無いからマセラッティを置いてきたんだ」


「…そう…なんだ」


   聞いてない…。そんな事、一言も告げずに行ってしまうんだ。
しかも、車一台を平気で置いてくる…。マセラッティが納車された時はあんなにも喜んでいたのに…。
数ある車でも気に入っていた筈…。それを預けてしまうんだ…。
それほどあの人を信頼している…。
その行為がもう先の展開を予感させてしまう事に嶺衣奈は涙が溢れそうになっていた。
黒を基調としたバロック調の家具で統一された落ち着きのあるリビングの空気はそれを暗示するように重苦しかった…。


「嶺衣奈さん…話があるんだ」


    その一言で全てが分かってしまった…。嫌だ…嫌だよ…。
ついこの間まで意識のない彼に付き添い、蘇生した彼の生還を心から喜び、ゴールインまで秒読み…。幸せ間近だった筈なのに…。
聞きたくない、聞きたくないよ…。真一郎が言わんとする事が分かってしまう嶺衣奈は酷く取り乱して耳を塞いだ。


「聞かない!聞かない!!絶対に聞かない!!!」


「あの人と出逢ったのは」


「止めて!!止めてよ!!聞かないって!!聞かないって言ってるでしょう!!」


「ボクが…昏睡状態の時なんだ」


「…昏睡……状態…?!」


    真一郎は落ち着き払って、蓮華と出逢った経緯、蓮華と過ごした一年間の記憶を辿っていく…。
目を覚ましたら棒人間になっていた事。
曽我部 真一郎としての記憶が無くなっていた事。
蓮華に拾われた事で寝食を共にし、公私も共にした事。趣味も感性も合った事。
恋愛感情が生まれた後、色々あって肉体関係になった際人間に具現化し、恋仲に発展した事。
互いに求め合い、人間になるために幾度と無く肌を合わせた事。
死神から昏睡状態だと知らされ、蘇生前に蓮華と婚約した事。
互いの魂の一部を共有していた事…等々、思い出せる限りのことを事細かに嶺衣奈に話した。

     そんな現実離れした事が信じられる筈もなかったが、信じさせる決定的なモノがあることを嶺衣奈は知っていた…。
    あの南京錠のネックレスだ。
真一郎はシドチェーンと言っていた。ほぼ毎日、真一郎の身体を拭いていた嶺衣奈は気付かない筈がない。
いつの間にか身に付けられていた事にオカルトめいた恐怖を感じていた…。
    真一郎の身体が何度も透けていった…。あの存在が消えてしまうような身も凍るような出来事が、蓮華との逢瀬によるものだと理解した嶺衣奈は、ワナワナと奮えて気も狂わんばかりの嫉妬と憤怒による憎悪に包まれた。


「…なによ…それ…。そんなの信じられないし!!仮に本当だとしても浮気じゃない!!私は!!私は!!私はっ!!昏睡状態の真一郎さんにずっと付き添っていたのよ!!その間に他の女と暮らしてたなんて!!その間に…その間に好きになったって!!!婚約したって!!知らないわ!!知らない!知らない!!勝手過ぎじゃない!!」


    ダイニングテーブルに鮮血がつくほど掌を叩きつけた嶺衣奈はボロボロと涙を溢して、下唇を噛み締める…。


「…そんなの……酷いじゃない」


    俯せになって嗚咽する嶺衣奈に何も言う事が出来ず、真一郎は口を噤んでいた。
重苦しい空気が黒を基調とした部屋を更に暗くしていく…。
ほどなくして、顔を上げた嶺衣奈は別人のように瞳孔を開いて憎悪に満ちた言葉を吐いた…。


「あの女…メチャクチャにしてやるわ」


「蓮華さんは…何も悪くないです」


「何でよ!!…ドロボウ猫みたいな事して…絶対に許さないわ…」


「悪いのは…ボクなんです」


    矛先が浮気相手に向く…。そんな事は当然だった。ある意味で世間知らず…、ある意味で擦れてない真一郎には理解の出来ない感情だった…。


「…しし…真一郎さんは…わわ…悪く…ない…。…悪いのは…ああ…あの女…あの女さえ…あの女さえ…居なければ」


    フラフラと立ち上がった嶺衣奈はキッチンに行って包丁を持ち出した…。研ぎ澄まされた刃の煌めきに憎悪に満ちた嶺衣奈の眼が映り込む…。
誰?この怪物のような眼をした者は…。これは…私?私はこんな眼をしてるの?こんな眼を大好きな真一郎さんに向けてしまっていたの?
もう嫌だ…嫌だよ…。真一郎さんの居ない世界なんて…私には…居場所が…無い…。
せめて最後は綺麗な笑顔を彼に見せよう…。愛してるわ…真一郎さん…
包丁を片手に振り返った嶺衣奈は先刻とはまるで違う、天使のような笑顔を見せた。


「…真一郎さん…さようなら」


     そう呟いた嶺衣奈は持っていた包丁を自らの喉元に突き刺しに行く。
嶺衣奈の不自然な笑顔で、行動を察した真一郎は間髪を入れず、両手でその刃を受け止めた。
力強く握り止めた真一郎の手から鮮血が滴り落ちて行く…。


「……真…一郎…さん」


「…れ…嶺衣奈さん…止めるんだ」


「…し…死なせてよ…死なせて!!真一郎さんの居ない世界なんて…生きてる意味がない!!」


「…ボクはこの指も、手も…腕でも…全てを失っても…君を絶対に死なせはしない…」


    力強く握り続ける真一郎の指に、掌に包丁が深く喰い込んで鮮血がボタボタと滴り続ける…。
    包丁を持つ嶺衣奈の両手を包み込むように抑えて自らの首に充てた真一郎は、優しい瞳で嶺衣奈に微笑みかけた…。


「…嶺衣奈さん。…ボクを…殺すといいよ…。ボクの思慮が足らなかった結末です…。嶺衣奈さんのためにボクの命を捧げます」


「………」


「…皆には…自殺したと…伝えてください…」


    首筋に充てた包丁の刃先が真一郎の首筋に侵入していくと、刃を伝って鮮血が滴り落ちていく…。
この人は…本気だ。本気で死のうとしている…。一年間も昏睡状態で、せっかく蘇生したのに…。
何でこんな事が出来てしまうの…。
私の自殺を止める為に…。
あの人を護る為に…。


「…止めて…真一郎さん…」


「………」


「…私の…負け…」


…もう私の事なんか…どうでもいいんだと思ってた…。悔しかった…寂しかった…。だから余計に…あの人のことが…憎かった…。
待っている人が居るのに…。
せっかく出逢えた人が待っているのに…。
自分の為に死んでくれるって言った真一郎の事が…やっぱり大好きだと想い知らされた。
私は追い込まれてあの人を殺しに行こうとした…。
包丁の刃に映った自分の顔に絶望した…。
嫌になって自殺をしようとして見せただけだった…。
それなのに真一郎は掌をズタズタにしてまでそれを止めてくれた…。
真一郎も蓮華も愛する人を護る為に命を差し出すことに一寸の迷いもない…。
どんなに想い続けても、その深さは蓮華にも真一郎にも敵わないと思い知らされた…。
どんなに想い続けても真一郎には届かないんだと思い知らされた…。


「…別れよう…真一郎さん」


「…嶺衣奈さんの事は…忘れないです」


「……私だって…忘れないよ」


    踞って震えながら涙を溢す嶺衣奈を、真一郎は血塗れの手で触れるわけにもいかず、静かに佇んでいた…。
いつの間にか眠ってしまった真一郎が目を覚ますと、首と掌の傷には応急処置が施してあり、嶺衣奈の姿はもう無かった…。
ダイニングテーブルの上には荷物は後日取りに来ますと置き手紙、その脇には主を無くしてしまった婚約指環が悲しげに残されていた…。



……続く。
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