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青天の霹靂 2
しおりを挟む何のしがらみも無ければこの人と添い遂げたい…。
蓮華の純粋な本当の気持ちを訊いたシドは、その為に時間を設けていると言葉を発した。
その為に?どういう意味なんだろう…。
このままの関係は持続できないのは、先刻の話しで身に染みるほどよく分かった…。
考えても考えてもわからない蓮華は涙を拭って質問を投げかけた。
「どういう…こと…ですか…」
「還るべき肉体を持つ霊魂と関係を持つのは駄目だと言ったよね?それじゃあ…蘇生したその後は?」
「…蘇生した…その…後……もしかして…」
「…気付いた?…蓮華さん」
ナンシーの言葉に蓮華と棒人間は静かに顔を見合せる…。
「人間界での出来事にはこちらからは手出ししないのよ…。現に不倫や浮気、略奪愛なんて世に溢れて居るでしょ?」
「…でも…婚約者が…」
「それを決めるのは蘇生してからの彼であり…迎え入れるかを決めるのは君だよ黄桜 蓮華」
駄目だ…。そんな事…。そんな事は出来ない。婚約者が居る相手から略奪するなんて…。
駄目に決まってる…筈なのに。
二人がまた一緒になれる…。
しかも人間として蘇生した彼と…。そんな背徳的なことは……でも叶うなら一緒に居たい…。
揺れ動く蓮華を見透かしたように棒人間は声をあげる。
「ボクは…蓮華さんを必ず迎えに来ますよ」
「…駄目…駄目だよ棒君」
「…愛してるんです…ボクには蓮華さんしか…見えていない」
そう言って抱き締めた棒人間の身体は明るいリビングでも、うっすらと人間に具現化した…。
あり得ない事態にシドとナンシーは、それほどまでに強く想っているのかと息を呑んだ。
寝室でいつも感じる彼の腕と温もりだ…。揺れ動く蓮華の気持ちが堅まってしまった…。背徳の枷を外されてしまった蓮華は涙を溢して頷き続けた。
「好き…大好きだよ。棒君…」
その言葉に呼応するように、棒人間の身体がハッキリと具現化が始まる。
この場で完全に人間になったら、天罰罪に抵触して、天使が蓮華を殺しに来る。少し気持ちを落ち着かせてくれ…
そう言ったシドの言葉にハッとした二人は離れて呼吸を整えた。
棒人間の身体はゆっくりと透明化して元に戻っていく…。
「具現化はせめて…寝室で…ね」
「ただ蘇生したら忘れてしまうから…、そんな簡単にはいかないんだけどね」
「…忘れる」
「昏睡状態から目覚めると、長い夢を見ていたようだと聞いたことはあるだろう?」
あの現象は浮遊していた魂の実体験を夢で処理させてしまうように細工が施されている。
大概は黄泉の入り口の花の大草原、煌びやかな橋とそこに流れるせせらぎ…。所謂、あの世の入り口という場所へ行った記憶…。
亡くなった人に会ったなど…。
あの世の入り口は如何にも神秘的で謎めいた物にする為にそうするのだそうだ。
棒人間のように無機質なモノに宿って半転生ということも極稀にはあるが、その先で普通に生活を営み、契りを結んだのは初めての事例だとシドは話した。
「忘れない!忘れないよ!蓮華さんのことは…絶対に忘れない」
「忘れるんだよ…絶対に」
「…それなら…なぜ、蘇生後のことを…」
「その為に…時間を設けたって…言ったでしょ?」
「ハッキリ言って、君等の想い合う気持ちは異常なくらいだ。見てるこっちが恥ずかしくなるほどにね…」
「…本当。…愛してるんです。とか、好き!大好き!とか…中々…言えないよ…」
シドとナンシーのやや揶揄するような言い方に、蓮華は耳まで赤くなって俯いている…。
棒人間も真っ赤になっているが、蓮華には見えてはいない。
シドとナンシーにはそれが見えている為、微笑ましく思えて笑みを浮かべている。
「俺達はね…そこに賭けようと想ってるんだ」
「?」
求め合う時と同じように蘇生の時も互いを求める…。そこに奇跡が生まれるかも知れない。
そこの奇跡を信じたい…。シドはそう言った後、蓮華の方を見据えて口を開く。
「婚約者が居ることで罪悪感があるのなら…君も婚約してしまえばいい」
「え?」
「…これで…立場は同等になるでしょう?…」
そう言うとシドは右の人差し指を掲げて、棒人間の見えない額に差し込んで行った…。
蓮華からは透明な場所に指を置いてるだけにしか見えなかったが、棒人間が上ずった声を上げたので、 ”刺さっている” と解釈した。
そこから指を抜いたシドは人差し指に付着したモノを棒人間に見せる。
「これが…お前の魂の色だ」
「蒼い…」
包み込まれる空のような、優しく透き通る蒼色の塊は、シドが念じると円環の形状に変化した。
その小さなリングを、蓮華に嵌めてやれと棒人間に手渡した。
「…指輪」
「見届け人は俺達だ」
静かに頷いた棒人間は蓮華の左手を静かに持ち上げた。
婚約…。棒人間の記憶えてる記憶の中では初めての事だ。
先に好きになったのは自分だ…。
恋い焦がれた蓮華と恋仲になれただけでも幸せだった。
この人と離れるなんてことは、漠然とはあったが現実的に考えた事もなかった…。
蘇生してどんな記憶が甦り、自分がどんな人間で、どんな生活をしていようと、婚約者が居ようと…。
必ず戻って…この人を幸せにする。
絶対的な自信を胸に秘めた棒人間は、蓮華には見えてはいないであろう澄みきった優しい表情で微笑みかける。
「必ず迎えに来ます」
そう言って棒人間は指輪を静かに薬指に嵌めていく。
蓮華は右手で口許を押さえて、頷きながらボロボロと涙を溢し続けた。
蓮華の指に煌めく透き通るような蒼色の指輪が嵌められると、平たく変形して刺青のように薬指に留まった。
「…指輪が…」
「それはコイツの魂の一部から創ってあるから、魂に呼応するように色が変わるようになっている」
その刺青の色…。現在の透き通るような蒼色が棒人間の魂の色…。
蘇生して蓮華の事を魂が忘れてしまえばその刺青は消えてしまう。
一旦忘れてしまうのは避けられないが、魂が記憶えていて…蓮華を想っていれば色はそのまま。
蘇生して、蓮華の事を思い出して想う気持ちが募れば金色に変わるる。シドはそう話した。
「次は…君の魂を…」
そう言ったシドは今度はゆっくりと蓮華の額に指を差し込んでいった…。
常識的に考えれば額にモノが刺されば命に係わる筈だが、痛くもなんともなかった。
指を抜き取るとシドの指先は癒されそうに温かみのある橙色に染まっていた。
「これが…蓮華さんの…魂の…色」
「このシドチェーンは君がプレゼントした物だったな…。こう言う物の方が念が入りやすい…。これにしよう」
蓮華はシドから揺らめく魂の色を受け取り、シドチェーンを静かに握り締めた。
®️の彫金が施された南京錠に手を触れると、蓮華の指先から橙色の色彩が生き物のように移動して表面を艶やかに覆った。
「シドチェーンは燻んだ色の方がカッコいいんだけどな…。このシドチェーンが、お前の魂に呼び掛けて黄桜 蓮華の記憶を紡ぐ手助けをしてくれる」
棒人間は自分の無駄に煌めくシドチェーンを、蓮華は左手薬指に入った刺青を見て佇んでいる。
「ただ…自然の摂理ってヤツは意地悪でね…君等を簡単には結びつけてはくれない…。何かしらの障害だって発生する」
「…障害」
「…それを…乗り越えられたら、あなた達の想いは本物ってことよ」
ナンシーの言葉に二人は静かに頷いた…。
「もう…時間が無くて限界なんだけどね…」
その言葉を聞いた二人の顔色が重々しくなるのを見たシドは、フゥ…とため息をついて続ける。
「今夜…一晩だけ待ってやるから」
「…燃え尽きないようにね」
そう言い残したシドとナンシーは煙のように消えた。
今夜で最後…。今夜で終わってしまう。二人はどちらからともなく繋いだ手に力を込めてしまう。
別れを惜しむ…そんな気持ちの現れのように…。
「蓮華さん…」
「…うん」
「ボクは蓮華さんに拾われて良かった…。蓮華さんに出逢えて良かったです」
「私もだよ…変な棒人間拾ったら…生きてて…そこから始まったね…。棒君の事は…一生忘れないよ…。君は…私の事は…」
「忘れないよ蓮華さん…。絶対に忘れない…。蘇生した身体には負けない…ボクは絶対に…絶対に迎えに来るから…」
棒人間は力強く蓮華を抱き締めた。これまでの一年間を振り返り、その先の…蘇生してからのことを噛み締めるように目を閉じて呟いた…。
「待っていて…くれますか…」
「…そんな無責任なこと…言っていいの?」
「迎えに…来ます。必ず」
二人は見つめ合う…。薄暗い寝室に煌めく棒人間の瞳…。
優しい瞳…。蓮華はこの瞳を一生忘れないと呟いて、棒人間と唇を合わせた…。
永く…永く…いつもよりも永く舌を絡ませ合う。
静寂の寝室に二人の吐息と、舌が絡み合う音が木霊する。
棒人間の舌が首筋から溢れ落ちそうな曲線に向かっていき、熱の籠った先端に到達すると、蓮華の甘い声と共に身体がビクッと揺れる。
棒人間の頭を抱える蓮花は吐息を荒くして小刻みに震える…。
思い通りに変形する球体に手を添えながら、下腹部の末端へと舌が這い回り、最も熱が籠って隆起した部分に到達すると、蓮華の身体は呼応するようにビクンと揺れた。
身体の芯から発せられる熱量を制御しつつ、体制を整えた蓮華も棒人間の最も熱の籠った部分を舌から内部へと招き入れた。
妖艶な音を奏でる二人…。
蓮華の舌から誘われたモノから熱量の籠った彼の分身一億数千万が離脱して放たれた…。
棒人間の身体が波打つ鼓動に合わせて数回に渡り、舌からその奥へと飲み込まれて行く…。
それと同時に棒人間の舌に襲撃され尽くした蓮華の熱量が籠った隆起した部分も限界を迎え、身体を痙攣させた後に揺れ動き、果てを迎えた。
「…はぁ…はぁ…棒君…来て」
誘われるように蓮華のゼロ距離の内側へと侵入をしていく。
世界で最も柔らかく滑りのある空間はソレを咥え込んで奥へ奥へと誘っていき、そこから寄せては返す波のような動きを繰り返すたびに汗と体液がとめどなく溢れ出す…。 蓮華の荒い吐息と甘い声が室内に木霊し、肉質的な摩擦音と共に妖艶な匂いが立ち込めて、卑猥な旋律を奏でる…。
二人は何度も何度も名前を呼び合い、何度も何度も果てを繰り返して汗と体液を限界まで迸らせ、涙を溢して温もりを分かち合った…。
二人は眠ることなく、愛し合い。
夜明けまで抱き合っていた…。
…夜が明けた…。
二人とも一睡も出来なかった。
互いの温もりをもう一度噛み締める様に抱き合って寝室を出ると、シドとナンシーはすでに棒人間を迎えに来ていた。
「心残りはないか?」
「…在るに…決まってるじゃないですか」
「そうだ…それが正解」
「蓮華さんに…心を預けるのよ」
「こういう言い方は不謹慎だけど…彼に…子供が居なくて良かったわね」
「…はい」
「それくらいの強い気持ちが無ければ…魂の略奪なんて出来ないからな」
「必ず迎えに来ます」
「……絶対に…だよ」
「…絶対に迎えに来ます」
カーテンの隙間から日の光が差すと同時に透けていく棒人間はシドとナンシーと共に消えて行った。
一人残された静寂の一室では膝を落とした蓮華の頬を涙か伝う…。
彼は亡くなったわけではない…。
蘇生して逢う約束をした…約束をした筈なのに…もう逢えないような気がしてしまっていた…。
辛い…。想像以上に辛い…。
昨日までの楽しい時間がまるで嘘のように…無かった事のように感じた…。…笑っていよう…笑って彼を待つんだ…。
「…笑っていられれば…楽しい」
笑っていられれば楽しい
蓮華が時折使う言葉だ…。棒人間にも言っていた…。この言葉は亡くなった母の受け売りだ…。
父親が亡くなった時にも母親はそう言って笑顔を絶やさなかった。
葬儀の間、泣きじゃくる蓮華に「蓮ちゃん、笑ってお父さんを送ってあげよう」
そう言われた当時、低学年だった蓮華は「笑えるわけないでしょ!!お母さんのバカァ!!」と泣いて怒った。
その日の夜、一人で震えて嗚咽する母親の姿を蓮華は見た。
父親は笑うのが好きだった。いつも明るくて笑顔の絶えない人だった。
母親が葬儀で泣かなかったのは…親戚中から叱責されても涙一つ溢さなかったのは父の為だと理解した…。
高二の初夏に母親が亡くなった…。
息を引き取る間際、母親はニッコリと微笑んで蓮華の頬を撫でた。
「笑って…蓮華…。笑っていられれば…楽しい…から…。笑って…お母さんを…」
それが最後の母親の言葉だった。蓮華は母親を笑っては見送れなかった…。
蓮華はそれから笑うことを意識するようになった。
自分が辛い時、人が辛い時にも、この言葉を発していた…。
笑っていられれば楽しい
笑っていられれば楽しい
「……お母さん。……笑えない時は…どうしたら…いいの…教えてよ…お母さん」
蓮華の頬から涙がとめどなく溢れていった…。
今日が日曜日なのが幸いした…。
何かをする気など起きる筈もなかった…。
明朝…薬指の色が蓮華の運命を決めてしまう…。
-翌朝-
いつの間にかリビングで眠りについた蓮華は目を覚ました…。
昨日まで隣に居た棒人間はもう居ない…。
静寂のリビングはいつも通りなのに、とてつもなく寂し気に感じた…。
薬指を見るのがとても怖い…。
もし、刺青が消えてしまっていたら絶望的だ…。祈るような想いで蓮華は左薬指を見た…。
煌めく蒼色が色濃く輝いて光を放っている。
その輝きはまるで棒人間が叫んでいるように思えた。
「…蒼だ…蒼だよ…蒼いよ…棒君」
千切れるほどに愛しい…。
千切れるほどに逢いたい…。
「…君に…君に逢いたいよ…棒君」
蓮華はギュッと薬指を押さえて涙を溢した…。
「蓮華さん!!!!!」
棒人間は目を覚ました…。辺りに目映い光が立ち込めて静かに消えて行くと共に声が聴こえる…。
……さん…。……さん。……ろうさん!
「真一郎さん!!!」
「…れ……嶺衣奈…さん?」
「良かった…良かった…真一郎さん…」
棒人間の叫び声に反応した婚約者の嶺衣奈がボロボロと涙を溢して蘇生を心から喜んでいる。
「ここは…」
「病院よ…。真一郎さん、事故に遭って…ずっと意識が戻らなかったの」
「……長い……夢を見ていた…気がする」
「…どんな夢?」
「…うーん……記憶えてないんだけど…凄く…いい夢?…かな?」
「フフ私に訊かないでよ…知ってる筈ないでしょう?」
病院側から連絡を受けた家族が駆けつけた。一年間ものあいだ昏睡状態が続いた為、母親と妹は涙を溢して病室に飛び込んできた。
「良かった!真兄が生き返って本当に良かったよ」
「ありがとう」
「嶺衣奈さんに感謝しなさい…。空いた時間はずっと付き添っていてくれていたのよ…」
「嶺衣奈さんが止めてくれなかったら延命措置をやめるところだったんだよ…兄貴」
「曽我部さんお身体の具合はどうですか?」
担当医と看護師が回診に来て、これまでの経緯を説明した。
昏睡状態の間に身体が透けて消えそうになった事を聞いた真一郎は驚いていた。
そんな事はとても信じられなかったが、第一発見者の嶺衣奈を始めとする、担当医、看護師が目撃している為、どうやら本当らしいと思わざるを得なかった…。
嶺衣奈が身体を拭こうと衣服を脱がすと、いつの間にか身に付けている南京錠のネックレスに目を止めた。
嶺衣奈はほぼ毎日、真一郎の身体を拭いていた。
見間違える筈など無い…。昨日まではこのネックレスは絶対に身に付けてなかった…。
昏睡状態だった真一郎が歩ける筈も無い…。何度か透明になった時に…身に付けた?とか?
あまりにも非現実的すぎる考えに嶺衣奈は気が変になりそうなくらい困惑していた。
オカルト的な怖さがあったが、真一郎に余計な心配事はかけまいと嶺衣奈はそれとなく訊いてみた。
「あれ…?真一郎さん、そんなネックレス…してた…?」
「…シド…チェーン…?」
真一郎はシドチェーンなんか持ってなかった筈だが…と、不思議に思ったが、何故だかそれを外そうとは思わなかった…。
不思議な感覚だった。
どこでこのシドチェーンを購入したのか、いつ首にかけたのかが全く思い出せない…。
なぜだろう…なぜかこの無駄に煌めく橙色っぽいシドチェーンを外してはいけないという強い気持ちがある。
「それ、邪魔でしょう?外してあげる」
「いや…これは、このままで良いよ…。南京錠の鍵も無いし」
「ねぇ真一郎さん。れんげさんって…誰なの?」
「れんげ…さん?」
「真一郎さん、目覚めた時に、れんげさん!!って叫んでたの」
「…いや…知らない…誰だろう?夢に出てきた人?かな?」
「真兄、浮気したの?最低なんだけど」
「フフ…夢の中でみたい。れんげさん!!って…。嶺衣奈さん!!って呼んで欲しかったな…私は」
「…なんか…ごめんなさい」
棒人間から蘇生した曽我部 真一郎の様子を、シドとナンシーは死神の世界から水晶テレビで見ている。
「いいぞ…魂は記憶えてる…。黄桜蓮華の薬指の刺青の色が濃くなってるからな…あとはきっかけだけ」
「…燃えるわねぇ…こう言う展開」
沈んだ気持ちを圧し殺して 出社した蓮華は、死神に言われた通りに棒人間の存在を理解しているのなら、ありのままを伝えればいいと言われた為、ありのままのことを会社で伝えた。
「棒君は…本当は人間で、生きていたってこと…」
「昏睡状態の身体に魂が戻ったってことか…」
「…はい」
泣き腫らしたであろう蓮華の眼が悲しみの深さを物語っていた…。
そこには誰も触れることが出来ず、有能な人だから勿体無い、蘇生したらまたウチに来てくれたらな…などと惜しむ声が聞こえた。
「…そう…ですね」
声を震わせる蓮華に周囲は言葉を失くして、それ以上は何も言うことが出来なかった…。
「蓮華さん…元気出してください」
「うん…大丈夫。ありがとう」
一週間後…。
一通りの検査をして異常がなかった真一郎は退院した。
現在二十五歳の真一郎は婚約者の嶺衣奈と同棲している。
同じ屋根の下で暮らし、近くの会社で働いている。
奇しくも蓮華といた頃と似たライフスタイルだった。
久し振りに自宅マンションに帰ってきて落ち着いた時間を過ごす…。CDラックに並ぶ洋楽と邦楽の千枚ほどの作品を見るのは久し振りの筈なのだが、音楽は昨日も聴いていたような不思議な感覚に真一郎は包まれていた…。
蘇生はもう絶望的だと思っていた真一郎が目の前に居る。
諦めなくて、本当に本当に良かった。真一郎が居る。大好きな大好きな真一郎が目の前に居る…。
それだけで嶺衣奈は幸せだった。
「真一郎さん…」
そう言って嶺衣奈が真一郎に寄り添って唇を合わせに行った。
「…ごめん…嶺衣奈さん…。そんな気分になれなくって…」
「…退院したばっかりだもんね…ごめんなさい」
「シャワー…浴びてくるよ」
「…うん」
なぜだろう…。婚約者の嶺衣奈を全く抱く気になれない…。
一年前は可愛くて愛しくて仕方がなかった…のに。
だから婚約もした…。
日取りは決まってないが結婚するつもりでいた…。それなのに…。
何だろうこの違和感は…。
何か物凄く大切な事を…
「忘れている」
「何を?!なぜボクは…今、忘れていると呟いたんだ…」
洗面台に映る自分の上半身は二十五年間見てきたものと何ら変わりはない…。
変わったと言えば、いつの間にか身に付けていた変わった色に煌めくシドチェーンくらいだ…。
何度か嶺衣奈に外そうと言われた…。
鍵が無いので外せない…。
鍵は誰が持っている?
自分で買って無くしたと嶺衣奈には嘘をついた…。
買った記憶えは全く無い。
このシドチェーンは誰かに貰ったもの…。
そして鍵は…これをくれた人が持っている…。
なぜかそう思えてしまう…。
わからないのに、シドチェーンは外せなかった…。
鍵が無いからじゃなくて、外したくない。
外してはいけないという気持ちがずっと続いている。
なんとなく心に違和感を抱えたまま、以前と同じ生活が回りだした。
曽我部家の長男である真一郎は、曽我部グループの関連会社で専務取締役として従事している。
嶺衣奈は取り引き先の令嬢で、仕事上で知り合い、恋仲となった。
勤務地が近い二人は一緒に自家用車で通勤している。
それも蓮華と暮らしていた時と同じライフスタイルだった…。
元の生活に戻って三ヶ月ほどが過ぎた。
身体の調子はとても良い。
一年間も昏睡状態だったなんて、嘘のようだ。
なに不自由ない。尽くしてくれる可愛い婚約者が居る。一般的な人よりも財産もある。所謂…順風満帆な暮らし。
それなのに違和感がずっと続いている。
その違和感のせいなのか嶺衣奈とぶつかる事が増えてきた。
いつも同じ内容で…。
「…真一郎さん…何で抱いてくれないの…」
「いや…ごめん…嶺衣奈さん」
「…退院してから…おかしいよ…。手さえ握ってくれない……。私のこと、嫌いになったの?!」
「…そんなこと、ないよ」
「…じゃあ…好き?」
その問いかけにいつも応えられない…。好きに決まってる…。好きに決まってる?なぜだ?少なくとも一年前は大好きだったはず…なのに…。
「……また黙るんだね…。最近ずっとそうだね…真一郎さん…。れんげさんって一体誰なの?」
「…し…知らないんだ」
「あなたが目を覚ました時に!!最初にその名前を呼んだのよ!!誰なの?!誰なのよ!!れんげって!!誰なの!!」
「ボクにだって…わからないんだ」
「れんげなんかに渡さないから!私は真一郎さんと別れないんだから!!」
いつもこの調子で喧嘩になってしまう…。
ボクが知りもしない ”れんげ” という人のことで酷く嫉妬して怒られてしまう。
昏睡状態から目覚めたときに「れんげさん」と叫んだらしい…。
首からかけているシドチェーンにまで嫉妬して、「れんげにソレを貰ったんだ」と叱責されてしまう。
れんげという名前の女性の事で怒られる日々が続いた。
しつこく誘われる嶺衣奈を抱こうと試みたが、滾ることが出来なくて行為に至らなかった。
正直なことを言えば嶺衣奈と唇を合わせるだけで胸が苦しくなるほどだった。
浮気をした覚えもないのだが、その証拠だってない。
その為、翌朝には嶺衣奈の機嫌は戻っていた。
いつもの通勤路だ。毎朝ではないが、時折真一郎の好きな旧型のコルベットC3が爆音で走り去って行くのを見かける。
嶺衣奈はその車が以前から目障りで、出会う度に必ず文句を言っていた。
「うるさいわねぇ…あの車。真一郎さん、あんな車が好きなんて悪趣味」
「……コルベット…C3…」
「どうかしたの?真一郎さん」
「いや…なんでも…ない」
「真一郎さん?何で泣いてるの」
「わからない…。なんで…涙が出るんだろう」
…通勤時間に時々見る赤いコルベットc3…。ボディラインが独特な真一郎が好きな車の一つだ。
なぜあの車を見たら涙が出たんだろう…。
気になった真一郎は嶺衣奈に内緒で、あの車の所在を確かめてみることにした。
赤いc3が通る時間とルートを調べて、追跡を試みた…。
その結果、車が停めている場所を突き止めた真一郎はそこで驚愕した。
「ボクは…この車に乗った記憶えがある…。このアパートも…知っている…。この車の所有者は…二階の角部屋に住んでいる…。住んでいる人は分からないのに…。なんでこんな事を…ボクは知っているんだ」
翌日、自分の違和感をさらに確証づける為に、朧気に記憶している会社の駐車場に行ってみた…。
そこには真一郎の予想通り、赤いc3が停めてあった。
「…なぜなんだ……。なぜ…ボクは…こんな事が…わかるんだ。まさか…この車の所有者は……れんげっていう名前じゃないだろうな…」
有り得ない…。そんな事は有り得ないだろうと、真一郎は目を閉じて首を左右に振った…。記憶にない事が次々とわかってしまうことに恐怖を感じるほどになっていた…。
「あー!!曽我部 真一郎!!」
真一郎が振り返ると、そこには小柄でショートヘアーの可愛らしい女性が立っていた。
蓮華の後輩の吉村だ。真一郎は当然ながら記憶えてはいない。
真一郎は初対面の女性から急に名前を呼ばれて困惑している。
「ボ…ボクを…知ってるんですか」
「当然でしょ?」
「…………?」
「曽我部グループの御曹司。イケメン若社長…誰でも知ってるよ」
父親の影響で自分の名前が意図しない所で広まっていることは、真一郎もわかっていたので、そっちの事かと拍子抜けした。
「蓮華さんになんか用?」
「れんげ…だって?!!……こ、この車の所有者は…れんげっていう…名前の人…なんですか…」
真一郎は驚愕して息を呑んだ。
このC3の所有者は思った通りの ” れんげ “ という人…。
昏睡状態から目覚めて叫んだ名前らしい、れんげという名前…。
その名前の女性のことで、嶺衣奈に何度も責められている。
真一郎は自分の中の違和感が解明されていく事に言い様のない不安と、言い様のない高揚感が同時に沸き上がっていた。
「この車の持ち主。黄桜 蓮華っていう私の上司なの」
「きざくら…れんげ…」
「珍しい車だから、時々人が見に来るんだって。あなたもそうなんでしょ?」
「え…あ…そ…そうなんです」
「もうすぐ蓮華さん来るから待ってたら?」
れんげさんという人が来る…。
真一郎は全ての違和感がそこにある気がした。冷や汗が出る…。なぜだか心拍数が加速していく。
今、会ってはいけないような衝動に駆られた真一郎は、吉村に頭を下げて足早に車に乗り込んで走り去って行った。
「蓮華さん惜しかったですねぇ」
「何が?」
「曽我部 真一郎が蓮華さんの車を見に来てたんですよ」
「ああ…顔は知らないけど、金持ちの甘ったれなボンボンなんかに私は興味ないよ」
「黄桜 蓮華さん!!」
振り返ると、そこには数ヶ月前に入社した男性社員がそこに立っていた。初々しい感じの、爽やかな好青年だ。
入社以来、蓮華がなにかと面倒を見ている。
「あの…お話しがあるんです」
「わー愛の告白だー!今月で二人目」
「やめろって…そういうの」
蓮花は少し溜め息をついて、その男性社員と少し話をして吉村の元に戻ってきた。
「また振ったんですか?」
「またって言わないでよ」
「蓮華さん!!ボクはあきらめません!!」
「か~わいい~♪付き合ってあげればいいじゃないですかぁ」
「…いいんだ。今は…」
蓮華は近頃やたらモテていた。これが死神シドの言っていた障害というヤツなんだろうなと解釈していが、色艶が出てきた蓮華が単にモテているだけだった…。
所謂、逃すと勿体無いモテ期というヤツだ。
「モテ過ぎだろう…。そんなに私と棒君をくっつけたくないのか神様は…」
その夜…。深夜に目が覚めた真一郎は、寝息を立てている嶺衣奈を起こさないよう、静かにリビングへ移動して昼間の事を思い返していた…。
「…きざくら れんげ…きざくら…れんげ…」
真一郎は呪文のようにその名前を何度も繰り返した。
知っている…。この名前をボクは知っている…。なぜなんだ!?恐らくは漢字でこう書くのだろう…。
そう思った真一郎は、手元にあった紙切れに書いてみた。
黄桜 蓮華
「…どういうことなんだ…なんで…なんで、この名前を見たら…涙が…出てくるんだ…」
二人の運命の糸はゆっくりと動きを見せていく…。
……続く。
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【第4回キャラ文芸大賞 奨励賞受賞】
舞台は東端の大国・大陽本帝国(おおひのもとていこく)。
産業、医療、文化の発展により『本』の進化が叫ばれ、『術本』が急激に発展していく一方で、
人の想い、思想、経験、空想を核とした『譚本』は人々の手から離れつつあった、激動の大昌時代。
『譚本』専門の貸本屋・七本屋を営む、無類の本好き店主・七本三八(ななもとみや)が、本に見いられた人々の『譚』を読み解いていく、幻想ミステリー。
パーフェクトアンドロイド
ことは
キャラ文芸
アンドロイドが通うレアリティ学園。この学園の生徒たちは、インフィニティブレイン社の実験的試みによって開発されたアンドロイドだ。
だが俺、伏木真人(ふしぎまひと)は、この学園のアンドロイドたちとは決定的に違う。
俺はインフィニティブレイン社との契約で、モニターとしてこの学園に入学した。他の生徒たちを観察し、定期的に校長に報告することになっている。
レアリティ学園の新入生は100名。
そのうちアンドロイドは99名。
つまり俺は、生身の人間だ。
▶︎credit
表紙イラスト おーい
世界的名探偵 青井七瀬と大福係!~幽霊事件、ありえません!~
ミラ
キャラ文芸
派遣OL3年目の心葉は、ブラックな職場で薄給の中、妹に仕送りをして借金生活に追われていた。そんな時、趣味でやっていた大福販売サイトが大炎上。
「幽霊に呪われた大福事件」に発展してしまう。困惑する心葉のもとに「その幽霊事件、私に解かせてください」と常連の青井から連絡が入る。
世界的名探偵だという青井は事件を華麗に解決してみせ、なんと超絶好待遇の「大福係」への就職を心葉に打診?!青井専属の大福係として、心葉の1ヶ月間の試用期間が始まった!
次々に起こる幽霊事件の中、心葉が秘密にする「霊視の力」×青井の「推理力」で
幽霊事件の真相に隠れた、幽霊の想いを紐解いていく──!
「この世に、幽霊事件なんてありえません」
幽霊事件を絶対に許さない超偏屈探偵・青木と、幽霊が視える大福係の
ゆるバディ×ほっこり幽霊ライトミステリー!
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