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1.突然の別れ話
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「別れよっか」
いつもと同じ食卓のはずだった。
今、俺の目の前に座って、まるで休日にどこかへ行こっかくらい軽く別れの提案をしたのは、榛名旭。俺、瀬戸口颯と付き合って1年ちょっとになる。
同じ会社の同期、しかも同じ部署という旭とは半同棲状態で、会社でも、家でも、ずっと一緒という生活が続いていた。
さっきまで、味噌汁を作る俺と、隣で肉を焼く旭とで、邪魔だもうちょっとあっちいけとかなんとか、いつも通りのやりとりをしてた・・はずだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「いやいや、いつもの、・・冗談だろ」
ずず、と味噌汁をすすり、旭を見ないようにする。
旭の言葉は、俺が発した、「お前ってほんと感情の浮き沈み激しい。疲れる。」という言葉に対して出たものだった。
これまで口喧嘩は会社での喧嘩を含め数え切れない程しているが、旭の口から『別れ』という言葉が出たのはこれが初めてだ。これまで付き合った女の中で、「もういい!別れる!」(=私に構って!引き留めて!)という女が何人かいたが、それと同じような面倒なやりとりが始まるのだろうか。
「それ、何回も言われたし・・」
ちら、と旭の方を見る。冷静に話す姿は、これまでのもういい別れる女子とはどうも結びつかない。現に、世間話をしているかのように肉をつつきながら旭は言う。
「治そうと・・思ってるけど、どうしても、治る気がしない。」
またいつものネガティブモードだな。そう思い、笑顔で話す。
「ほら、お前、またネガティブモードなってる。
明るく考えろって。さっきのは、じゃれ合い、じゃれ合い。」
さっさと旭の感情を浮上させたいと思った。会社では、「クールで仕事の出来る榛名さん」だが、同棲してみて、会社で溜め込んだものを家で吐き出すタイプだと分かっていた。
頭の硬い部長に嫌味を言われた日にはソファの上で抱きついてきてずっとグチグチと言っていたし(その間俺は携帯でゲームをしていたのだが)、
取引先からの無茶な要望が入ったときは、まるで某アニメのスーパー○イヤ人のように両手を握りしめて上を向いて「うあぁぁー!」と叫んでいた。(変身するかと思った。)
姉二人を持つ俺は、その対処法を知っている。つもりだ。
さっさと気持ちを切り替えさせるのが、一番。
いつもなら、ケロリとした俺の笑顔に引っ張られて浮上して来るはずだが、今日はやけに潜水を続けている。
少し自分の心臓の動きがいつもより速くなった気がした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「旭ちゃーん」
頬を掴んでやろうと思って中腰になり手を伸ばした所で、旭の悲しそうな目がこちらを向いた。
ドキリとする。
「橘くんが言ってたよ。『瀬戸口さん、今の彼女とは結婚考えてないんですって』って。」
途端に、ギュ、と心臓を掴まれたようになった。
やば。
言葉がすぐに出ず、グッと詰まる。
「・・いや、だってほら、考えてる、とか言ったらまたしつこく聞いてくるじゃん、あいつ。だから・・」
「もう、お互い29だし、違うと思うなら、別れたほうがいいと思う。」
旭は箸で挟んだ肉を口に運んだ。
やばい。
引き留めないと。
すぐにそう思った。が、旭とこのまま付き合い続けていいのかという気持ちも正直あった。
旭とは、期末の飲み会でお互いベロンベロンになって、気付いたら俺の部屋でお互い裸で絡み合っていた、という始まりだったし、その後も気付いたら半同棲状態。とにかく何もかもをなし崩し的に始めてしまった付き合いだった。
会社でイメージしていた女性とは違ったのは確かだし、一緒に暮らしてみて気が合うとは思うが、好きかどうか、と聞かれると未だによく分からない。結婚となるとなおさらだ。
「旭・・」
詰まった俺を見て、旭はいつもみたいに笑った。
「ほら。」
同棲してみて、分かって、よかったじゃん。
嫌味でなく優しい言葉に、どうしても上手い言葉が返せなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「戻りましたー」
ジャケットを手に持ってオフィスへ入る。暦の上では秋だが、まだまだ外回りをしていると暑く感じる。ドサ、と営業鞄を床に置き、ノートパソコンを起動させた。
フリーアドレスを導入したのは先月で、でもまだ上手く軌道に乗っていない。結局、以前と同じ席に座っているメンバーがほとんどだ。
「瀬戸口くん、これ、依頼されてた契約書。」
斜め前から旭が立ち上がって手渡してくる。
「さんきゅー」
ぱ、と手に取る隙に顔色を窺う。
旭はこちらを見ないまま、自分のパソコンに向かってキーボードを叩いている。その顔は、昨日のやり取りを全く引きずってないように見える。
くそ、と心の中で悪態をついた。
旭と俺が所属するオフィス家具メーカーの営業部は、営業4人あたり1人のアシスタントがついている。
旭は、俺を含む4人の営業のアシスタントだった。
「榛名さんー、この見積り今日中に送れって言われたー」
正面の橘陽太が、助けてぇー、と旭の机に侵入して縋り付いている。
子犬のような無邪気な姿にイラッとする。
こんな状況になってんのは、お前のせいだぞ。
「当日の依頼はナシだろ、橘。」
一つ後輩に当たる橘は、甘えっこ気質ですぐに旭に甘える。
冷たく言い放った颯に対して、旭は穏やかに言った。
「いいよ、瀬戸口くん。今他に急な依頼無いから。橘くん、次は駄目だからね。」
ありがとうございますー!と喜ぶ橘に苦虫を噛み潰したような顔になった。
旭は会社では感情を波立たせる事はあまりない。もちろんはっきり言う方ではあるが、家での姿を思い浮かべると、よくあの旭が4人の営業から無茶を言われる環境でまともに仕事しているな、と思ってしまう。
あ、別れたら、もうあの姿は見れなくなるのか。
そう思うと、純粋に寂しくなった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
結局残務処理で21時を過ぎてしまい、家につく頃には22時手前になってしまっていた。
「ただいま」
少し恐る恐るリビングのドアを開けると、ふわりと食欲をそそるいい匂いがする。
あ、これは・・
「麻婆豆腐?」
そんなに大きな声で言ったつもりは無いが、あたりー、と別の方向から声が聞こえる。麻婆豆腐は旭の作る料理の中でも、俺が一番好きなメニューだ。山椒とニンニクが効いていてめちゃくちゃ美味い。
台所では無く寝室から声が聞こえる事を不思議に思い、何してるんだ?とドアの隙間から覗いて、固まった。
旭は、床にスーツケースを広げて、衣類を詰めている所だった。
「え」
それしか言えず固まった俺に、旭が困ったように笑って言う。
「ごめん、ほんとは今日出るつもりだったんだけど、難しそう。」
明日でもいい?
そう聞く旭に、焦りが急に湧いてくる。
「ちょ、ちょっと待って。別れるの、決定?」
次は旭がきょとんとする番だった。
「決定、だと思ってたんだけど・・・」
あまりにあっけらかんと言う姿に、腹が立ってくる。その気持ちのままに言葉を発した。
「男、出来たとか?」
上目遣いに旭が睨んでくる。
「出来てない。」
「じゃぁ、なんで。」
畳み掛けるように聞く俺に、旭はうーん、と詰めかけの服を見ながら言った。
「だって、颯、私のこと好きじゃないでしょ」
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
好きじゃないでしょと言われた男と言った女が仲良くテーブルに向かい合って麻婆豆腐をハフハフ言いながら食べている。
なんだこれは、と思いながらも颯は手を動かした。
好きじゃないでしょ、と言われ、颯は間を開けずに言った。「好きだよ」と。
でも、それを聞いた旭は、にっと笑い、「反射神経、いいね」と言っただけだった。
颯にも分かっている。反射的に答えた。多分、じゃぁどこが好きなのとか、結婚してくれるのとか、次に質問が飛んで来たら答えられなかっただろう。
家では感情豊かなはずの旭がまるで会社みたいに冷静で、颯は戸惑いながらも、決定的に引き止めるものが足りていないことには気づいていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ね、しようよ」
シャワーを浴び、颯がベッドに潜り込もうとした所で、信じられない言葉が聞こえた。
「え」
本日2度目の「え」。キャミソールの紐を肩から落とす旭を、止めることも出来ず固まる。
「いや、・・おかしいだろ。別れるんじゃないの?」
そうは言いながら、何度も抱いた感覚を思い出し、もう身体は反応し始めている。
「だって、颯と、相性いいし。」
跨ってくる太ももと下着が見えそうなショートパンツにゴクリと喉がなる。
「最後に。記念にしとこ?」
耳元で囁かれ、もぞもぞと身体をいじくられ、最終的に颯はその身体にむしゃぶりついた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
旭との行為は、いつも喧嘩の延長みたいだった。
「気持ちいい?」と聞けば絶対に「気持ちよくない」と答えるし(反応してるくせに)、
こっちが好きに攻めてるのに、一方的なのは嫌だと急に口で咥えてきたりする。
結局普通の行為以上に、そんな旭を屈服させるのに興奮してしまってさっさと果ててしまうのだが。
その日もいつもと同じように、終わったあとは二人で吹き出して笑い、絡み合うようにして眠った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
朝、いつものように颯よりも早く目を覚ましてしまった。
隣を見ると、少年のように無防備な寝顔がある。
不覚にも、泣きそうになった。
颯のこと、好きだった。
あんな始まりだったけど、そうなる前から、一緒に組んで仕事をするようになってから、ずっと好きだった。
同じチームになって、まだ慣れない事も多い旭をこっそり助けてくれる度に、どんどん好きになってしまった。
だから、ベロベロになって颯の家に泊まった朝、「付き合う?」と言ってくれたことも、付き合ってすぐに「もうめんどくさいからこっちで暮らしたら?」と言ってくれた事も、嬉しかった。
家での姿をダメ出しされることも多かったけど、颯も私を好きでいてくれると思っていた。
橘くんから、「それ」を聞くまでは。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「瀬戸口さんって、彼女いるんですよね?」
二人でクライアントに訪問した帰り道、橘くんは突然そう言った。
颯と旭が付き合っていることは、仲の良い数人を除いて、会社では秘密にしている。バラして学生時代のように騒がれるのも嫌だし、人事異動に反映されるのも避けたい。
めんどくさい。それは、二人とも同意見だった。
「そうみたい。何で?」
ただ、もう隠すことにも慣れてきた筈なのに、旭はどうしても颯がいない所でこういう話題が出ると動揺してしまう。聞いてはいけないような話のような気がしてドキリとする。
「やーなんか、彼女の影が見えないというか、イメージが出来ないと言うか。」
具体的な話、なんにも教えてくれないんっすよねー。
本当に気付いていないのだろう、旭の顔色を確認することもなく続ける。
「いろいろ聞いてみたんですけど、彼女さん、同い年らしいんですよ。」
「じゃぁ結婚とかも考えてるんですか?って聞いたら、瀬戸口さん、何て答えたと思います?」
急に心臓が一段階大きく跳ねる。
結婚。
考えてないと言われれば嘘になる。でも、もしかしたら二人の暮らしの延長線上に、それはあるのかもしれないと思ってはいた。
その気持ちを、次の言葉が崖に突き落とす。
「『結婚は、無いかな』ですよ?ひどくないですか!」
「ひどいね」
間は開かなかっただろうか。違和感の無い表情を私は作れてる?旭は動揺を必死で抑えていた。
「何でなの?」
少し低い声が出てしまい、自分でも焦る。橘くんはちらりとこちらを見て、言った。
「んー。理由は聞いてないんですよ。教えてくれなくて。」
そっか、と答えるが橘くんの顔はどうしても見れず、そのまま前を向いて歩く。もうビルの入口。あとちょっと。
オフィスの入っているビルに入ると、ちょっとお手洗い寄ってから上がる、と橘くんに声をかけ、トイレに駆け込んだ。個室に入る前から涙が溢れてしまうのを手で隠し、個室のドアをバタンと閉めた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
少なくとも愛情は持ってくれている。それは分かっていた。
自分と過ごしている時、リラックスしているのが分かるし、
身体も頻繁に求めてきてくれる。
でも。
おそらく、自分と同じ温度の好きではない、と分かった。恋い焦がれてやっと付き合えたと喜んでいる自分とは違う。
しかも、同棲してしまった今ですら、結婚する気持ちはないのだという。
付き合う前なら、もっと頑張ろうと思えただろう。
でも、もう私に出せるカードは無い。
一緒に生活してしまって、もう見せられるものは全部見せてしまった。
それで出した答えなら、もう、それが覆ることはないだろう。
何より、その状態で一緒に暮らす苦しさに、耐えることは出来ないと思った。
みっともなく縋り付きたくない。
私から、去りたい。
その日の夜、旭は颯に別れを提案したのだった。
いつもと同じ食卓のはずだった。
今、俺の目の前に座って、まるで休日にどこかへ行こっかくらい軽く別れの提案をしたのは、榛名旭。俺、瀬戸口颯と付き合って1年ちょっとになる。
同じ会社の同期、しかも同じ部署という旭とは半同棲状態で、会社でも、家でも、ずっと一緒という生活が続いていた。
さっきまで、味噌汁を作る俺と、隣で肉を焼く旭とで、邪魔だもうちょっとあっちいけとかなんとか、いつも通りのやりとりをしてた・・はずだった。
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「いやいや、いつもの、・・冗談だろ」
ずず、と味噌汁をすすり、旭を見ないようにする。
旭の言葉は、俺が発した、「お前ってほんと感情の浮き沈み激しい。疲れる。」という言葉に対して出たものだった。
これまで口喧嘩は会社での喧嘩を含め数え切れない程しているが、旭の口から『別れ』という言葉が出たのはこれが初めてだ。これまで付き合った女の中で、「もういい!別れる!」(=私に構って!引き留めて!)という女が何人かいたが、それと同じような面倒なやりとりが始まるのだろうか。
「それ、何回も言われたし・・」
ちら、と旭の方を見る。冷静に話す姿は、これまでのもういい別れる女子とはどうも結びつかない。現に、世間話をしているかのように肉をつつきながら旭は言う。
「治そうと・・思ってるけど、どうしても、治る気がしない。」
またいつものネガティブモードだな。そう思い、笑顔で話す。
「ほら、お前、またネガティブモードなってる。
明るく考えろって。さっきのは、じゃれ合い、じゃれ合い。」
さっさと旭の感情を浮上させたいと思った。会社では、「クールで仕事の出来る榛名さん」だが、同棲してみて、会社で溜め込んだものを家で吐き出すタイプだと分かっていた。
頭の硬い部長に嫌味を言われた日にはソファの上で抱きついてきてずっとグチグチと言っていたし(その間俺は携帯でゲームをしていたのだが)、
取引先からの無茶な要望が入ったときは、まるで某アニメのスーパー○イヤ人のように両手を握りしめて上を向いて「うあぁぁー!」と叫んでいた。(変身するかと思った。)
姉二人を持つ俺は、その対処法を知っている。つもりだ。
さっさと気持ちを切り替えさせるのが、一番。
いつもなら、ケロリとした俺の笑顔に引っ張られて浮上して来るはずだが、今日はやけに潜水を続けている。
少し自分の心臓の動きがいつもより速くなった気がした。
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「旭ちゃーん」
頬を掴んでやろうと思って中腰になり手を伸ばした所で、旭の悲しそうな目がこちらを向いた。
ドキリとする。
「橘くんが言ってたよ。『瀬戸口さん、今の彼女とは結婚考えてないんですって』って。」
途端に、ギュ、と心臓を掴まれたようになった。
やば。
言葉がすぐに出ず、グッと詰まる。
「・・いや、だってほら、考えてる、とか言ったらまたしつこく聞いてくるじゃん、あいつ。だから・・」
「もう、お互い29だし、違うと思うなら、別れたほうがいいと思う。」
旭は箸で挟んだ肉を口に運んだ。
やばい。
引き留めないと。
すぐにそう思った。が、旭とこのまま付き合い続けていいのかという気持ちも正直あった。
旭とは、期末の飲み会でお互いベロンベロンになって、気付いたら俺の部屋でお互い裸で絡み合っていた、という始まりだったし、その後も気付いたら半同棲状態。とにかく何もかもをなし崩し的に始めてしまった付き合いだった。
会社でイメージしていた女性とは違ったのは確かだし、一緒に暮らしてみて気が合うとは思うが、好きかどうか、と聞かれると未だによく分からない。結婚となるとなおさらだ。
「旭・・」
詰まった俺を見て、旭はいつもみたいに笑った。
「ほら。」
同棲してみて、分かって、よかったじゃん。
嫌味でなく優しい言葉に、どうしても上手い言葉が返せなかった。
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「戻りましたー」
ジャケットを手に持ってオフィスへ入る。暦の上では秋だが、まだまだ外回りをしていると暑く感じる。ドサ、と営業鞄を床に置き、ノートパソコンを起動させた。
フリーアドレスを導入したのは先月で、でもまだ上手く軌道に乗っていない。結局、以前と同じ席に座っているメンバーがほとんどだ。
「瀬戸口くん、これ、依頼されてた契約書。」
斜め前から旭が立ち上がって手渡してくる。
「さんきゅー」
ぱ、と手に取る隙に顔色を窺う。
旭はこちらを見ないまま、自分のパソコンに向かってキーボードを叩いている。その顔は、昨日のやり取りを全く引きずってないように見える。
くそ、と心の中で悪態をついた。
旭と俺が所属するオフィス家具メーカーの営業部は、営業4人あたり1人のアシスタントがついている。
旭は、俺を含む4人の営業のアシスタントだった。
「榛名さんー、この見積り今日中に送れって言われたー」
正面の橘陽太が、助けてぇー、と旭の机に侵入して縋り付いている。
子犬のような無邪気な姿にイラッとする。
こんな状況になってんのは、お前のせいだぞ。
「当日の依頼はナシだろ、橘。」
一つ後輩に当たる橘は、甘えっこ気質ですぐに旭に甘える。
冷たく言い放った颯に対して、旭は穏やかに言った。
「いいよ、瀬戸口くん。今他に急な依頼無いから。橘くん、次は駄目だからね。」
ありがとうございますー!と喜ぶ橘に苦虫を噛み潰したような顔になった。
旭は会社では感情を波立たせる事はあまりない。もちろんはっきり言う方ではあるが、家での姿を思い浮かべると、よくあの旭が4人の営業から無茶を言われる環境でまともに仕事しているな、と思ってしまう。
あ、別れたら、もうあの姿は見れなくなるのか。
そう思うと、純粋に寂しくなった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
結局残務処理で21時を過ぎてしまい、家につく頃には22時手前になってしまっていた。
「ただいま」
少し恐る恐るリビングのドアを開けると、ふわりと食欲をそそるいい匂いがする。
あ、これは・・
「麻婆豆腐?」
そんなに大きな声で言ったつもりは無いが、あたりー、と別の方向から声が聞こえる。麻婆豆腐は旭の作る料理の中でも、俺が一番好きなメニューだ。山椒とニンニクが効いていてめちゃくちゃ美味い。
台所では無く寝室から声が聞こえる事を不思議に思い、何してるんだ?とドアの隙間から覗いて、固まった。
旭は、床にスーツケースを広げて、衣類を詰めている所だった。
「え」
それしか言えず固まった俺に、旭が困ったように笑って言う。
「ごめん、ほんとは今日出るつもりだったんだけど、難しそう。」
明日でもいい?
そう聞く旭に、焦りが急に湧いてくる。
「ちょ、ちょっと待って。別れるの、決定?」
次は旭がきょとんとする番だった。
「決定、だと思ってたんだけど・・・」
あまりにあっけらかんと言う姿に、腹が立ってくる。その気持ちのままに言葉を発した。
「男、出来たとか?」
上目遣いに旭が睨んでくる。
「出来てない。」
「じゃぁ、なんで。」
畳み掛けるように聞く俺に、旭はうーん、と詰めかけの服を見ながら言った。
「だって、颯、私のこと好きじゃないでしょ」
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好きじゃないでしょと言われた男と言った女が仲良くテーブルに向かい合って麻婆豆腐をハフハフ言いながら食べている。
なんだこれは、と思いながらも颯は手を動かした。
好きじゃないでしょ、と言われ、颯は間を開けずに言った。「好きだよ」と。
でも、それを聞いた旭は、にっと笑い、「反射神経、いいね」と言っただけだった。
颯にも分かっている。反射的に答えた。多分、じゃぁどこが好きなのとか、結婚してくれるのとか、次に質問が飛んで来たら答えられなかっただろう。
家では感情豊かなはずの旭がまるで会社みたいに冷静で、颯は戸惑いながらも、決定的に引き止めるものが足りていないことには気づいていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ね、しようよ」
シャワーを浴び、颯がベッドに潜り込もうとした所で、信じられない言葉が聞こえた。
「え」
本日2度目の「え」。キャミソールの紐を肩から落とす旭を、止めることも出来ず固まる。
「いや、・・おかしいだろ。別れるんじゃないの?」
そうは言いながら、何度も抱いた感覚を思い出し、もう身体は反応し始めている。
「だって、颯と、相性いいし。」
跨ってくる太ももと下着が見えそうなショートパンツにゴクリと喉がなる。
「最後に。記念にしとこ?」
耳元で囁かれ、もぞもぞと身体をいじくられ、最終的に颯はその身体にむしゃぶりついた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
旭との行為は、いつも喧嘩の延長みたいだった。
「気持ちいい?」と聞けば絶対に「気持ちよくない」と答えるし(反応してるくせに)、
こっちが好きに攻めてるのに、一方的なのは嫌だと急に口で咥えてきたりする。
結局普通の行為以上に、そんな旭を屈服させるのに興奮してしまってさっさと果ててしまうのだが。
その日もいつもと同じように、終わったあとは二人で吹き出して笑い、絡み合うようにして眠った。
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朝、いつものように颯よりも早く目を覚ましてしまった。
隣を見ると、少年のように無防備な寝顔がある。
不覚にも、泣きそうになった。
颯のこと、好きだった。
あんな始まりだったけど、そうなる前から、一緒に組んで仕事をするようになってから、ずっと好きだった。
同じチームになって、まだ慣れない事も多い旭をこっそり助けてくれる度に、どんどん好きになってしまった。
だから、ベロベロになって颯の家に泊まった朝、「付き合う?」と言ってくれたことも、付き合ってすぐに「もうめんどくさいからこっちで暮らしたら?」と言ってくれた事も、嬉しかった。
家での姿をダメ出しされることも多かったけど、颯も私を好きでいてくれると思っていた。
橘くんから、「それ」を聞くまでは。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「瀬戸口さんって、彼女いるんですよね?」
二人でクライアントに訪問した帰り道、橘くんは突然そう言った。
颯と旭が付き合っていることは、仲の良い数人を除いて、会社では秘密にしている。バラして学生時代のように騒がれるのも嫌だし、人事異動に反映されるのも避けたい。
めんどくさい。それは、二人とも同意見だった。
「そうみたい。何で?」
ただ、もう隠すことにも慣れてきた筈なのに、旭はどうしても颯がいない所でこういう話題が出ると動揺してしまう。聞いてはいけないような話のような気がしてドキリとする。
「やーなんか、彼女の影が見えないというか、イメージが出来ないと言うか。」
具体的な話、なんにも教えてくれないんっすよねー。
本当に気付いていないのだろう、旭の顔色を確認することもなく続ける。
「いろいろ聞いてみたんですけど、彼女さん、同い年らしいんですよ。」
「じゃぁ結婚とかも考えてるんですか?って聞いたら、瀬戸口さん、何て答えたと思います?」
急に心臓が一段階大きく跳ねる。
結婚。
考えてないと言われれば嘘になる。でも、もしかしたら二人の暮らしの延長線上に、それはあるのかもしれないと思ってはいた。
その気持ちを、次の言葉が崖に突き落とす。
「『結婚は、無いかな』ですよ?ひどくないですか!」
「ひどいね」
間は開かなかっただろうか。違和感の無い表情を私は作れてる?旭は動揺を必死で抑えていた。
「何でなの?」
少し低い声が出てしまい、自分でも焦る。橘くんはちらりとこちらを見て、言った。
「んー。理由は聞いてないんですよ。教えてくれなくて。」
そっか、と答えるが橘くんの顔はどうしても見れず、そのまま前を向いて歩く。もうビルの入口。あとちょっと。
オフィスの入っているビルに入ると、ちょっとお手洗い寄ってから上がる、と橘くんに声をかけ、トイレに駆け込んだ。個室に入る前から涙が溢れてしまうのを手で隠し、個室のドアをバタンと閉めた。
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少なくとも愛情は持ってくれている。それは分かっていた。
自分と過ごしている時、リラックスしているのが分かるし、
身体も頻繁に求めてきてくれる。
でも。
おそらく、自分と同じ温度の好きではない、と分かった。恋い焦がれてやっと付き合えたと喜んでいる自分とは違う。
しかも、同棲してしまった今ですら、結婚する気持ちはないのだという。
付き合う前なら、もっと頑張ろうと思えただろう。
でも、もう私に出せるカードは無い。
一緒に生活してしまって、もう見せられるものは全部見せてしまった。
それで出した答えなら、もう、それが覆ることはないだろう。
何より、その状態で一緒に暮らす苦しさに、耐えることは出来ないと思った。
みっともなく縋り付きたくない。
私から、去りたい。
その日の夜、旭は颯に別れを提案したのだった。
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