病めるときも健やかなるときも、お前だけは絶対許さないからなマジで

あだち

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番外編

恐るべき魔導書 中

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 ***


 これはいったい、何が起きているんだ。

 フェリータは呆然と、ロレンツィオに手を握られたまま、札の上げ下げを繰り返していた。無論上げたら下げる前に、夫が「十二万」「十八万!」「三十万!!」と間断なく数字を叫んでいく。

 そして同時に、会場の別の場所からは、よく知ったかわいい妹の「十五万」「二十五万」「五十万」という声が合いの手のように響いて来る。札は父伯爵が持っていて、フェリータ同様フランチェスカに腕ごと掴まれ上げ下げさせられて、その顔は当惑と混乱で固まっていた。

 ――札、渡しちゃえばいいのに。
 同席者に腕を振り回される親子を見て、ラウルがそんなことを考えているうちにも、綺麗に製本された授業ノートの値段は上がっていく。

 どんどん。
 どんどん。

「はい十二番のご令嬢、五百万!!」

「はいはい六十番の紳士、六百万!!」

「引き下がれませんねぇ女の意地で十二番、七百万!!」

「奥方が白目向いてますよ大丈夫ですか、六十番八百万!!」

「大台に乗った!! ありがとうございます十二番、一千万!!!」

 フェリータは腕とともに脳内までしびれてきているのを感じていた。
 一千万? ノートに? 他人の授業ノートに? 

 なんだ、近いうちにこの二人は歴史のテストでも受けるつもりなのか? 

「一千万、ここで終わりですかな?」

 司会者が煽る矛先は、当然、フェリータの隣の男だ。
 垂れ目の奥の、その真剣な光は、まるで呪獣と相対しているかのようだった。
 息を飲んだフェリータが少し背を伸ばして遠くを見れば、フランチェスカが睨むようにこちらを見ている。完全に敵を見る目だ。

 意味が分からない。確かにフランチェスカはヴァレンティノに懸想していたし、ロレンツィオは親友だった。かの男にまつわる思い出の品を、無神経なコレクターに渡したくないのかもしれない。
 でも最初に札を上げた商人はとっくに黙っているし、値はすでにグィードの年収を大きく超えるほどに膨らんでいる。

「ロ、ロレンツィオ。そんな意地はらなくても、ほらフランチェスカはあの人のこと好きだったから、ここはちょっと譲ってあげ」

 そこで腕が引っ張られた。

「千五百」
 
 低い声に、フェリータは視界がぐらぐら回るのを感じた。今まで聞いたどんな睦言よりも、これが一番脳を溶かした。こんなことで記録を更新したくなかった。

 せんごひゃく? もちろん、富豪で知られるぺルラ家から嫁いだ自分にとっては全然払える額だ。ラウルが狙っているブルーダイヤはきっともっと値が上がる。競売で使う額としてはちっともおかしな額ではない。ロレンツィオのだいたいの給与やカヴァリエリ家の帳簿の内容も知っているから、婚家にとってもけして無理な額ではない。

 それが、製本されたただのノートに付けられた値段でなければ。

(……“ただのノート”ではない?)

 ――ふと、頭に浮かんだ可能性に、フェリータが我に返ったとき。

「安心しろ。あんたの金は使わない。ちゃんと俺の払える額で収める」

 夫の申し訳なさそうな、それでいて強い決意を秘めた囁きを聞き、フェリータは疑念が確信に変わっていくのを感じた。

「ただのノートではありませんのね?」

「……いや。ノートだ」

 何かを飲み込んだような間の後の答えに、フェリータは腹を決めた。

「十二番のお嬢様、よろしいですかな?」

 促されると、つんと冷たい眼差しを姉夫婦に向けてから、フランチェスカはしおしおと力を失くした父の手首を掴んでゆっくりと上げた。

「二千ま」

「三千万」

 遮る声に、会場がどよめいた。フランチェスカが目を見開き、ロレンツィオが呆けた顔で隣を見た。
 自ら高々と“六十”の札を上げる妻の姿を。

「三千万!! 六十番の奥方が腹を決めたっ、さぁどうなさいますか十二番は……おお!?」

 司会者が声を上げた直後、「四千万」とさらに値を上げたのは、十二番の札の持ち主――フランチェスカの隣に座っていた、父伯爵レアンドロだった。
 躊躇いのない千万刻みの吊り上げに、今度はフランチェスカの方が口を開けて父親の顔を見ている。
 
(気づかれましたわね)

 フェリータは内心舌打ちした。こちらの決断が遅かった。
 きっと、父もこのおかしさの正体に気が付いたのだ。

 あの“授業ノート”は間違いない。

 ――そう見せかけただけの、チェステの魔導書だ。

 親友のロレンツィオと、婚約者になりかけたフランチェスカはこのことを知っていたのだ。そうに違いない。

 魔導書は、魔術の基礎を記した簡易で公の図書館にも置かれているものもあれば、その家の秘術が記されたものや、書物自体に魔力が込められたものもある。今回は十中八九、後者だ。

 そうとわかれば、ためらいはない。
 王国最古の星の血統の魔導書を、おめおめと他家に渡す魔術師貴族などいない。たとえ血を分けた家族相手であろうとも。

「覚悟なさってパパ。……いいえ、ぺルラ伯爵」

 呟けば、人垣の向こうの父から『お手柔らかに、カヴァリエリ夫人』とせせら笑われた気がした。



 会場は異様な空気に包まれていた。
 
「五千万! なんということでしょう六十番の奥方、これで王都に家が建つのに!!」

「六千万!! 十二番の紳士、遺産は残さず使い切るおつもりか!?」

「な、七千万!! 六十番、七千ま、……十二番、間髪入れずに八千万!!」

 途中悪ふざけとしか思えなかった司会者の音頭が、徐々に怖れを帯び始める。
 競売ではとくに入札者の名前など呼ばれないが、当然、競り合う二人がどこの誰なのかは、とっくに会場の全員に伝わっている。

 チェステの書物を巡って、ぺルラ家とカヴァリエリ家が一騎打ちをしていると、みな知っている。

 もはや誰も、このノートがただのノートなどとは思っていなかった。ラウルは真剣なまなざしで二者の様子を注視し、木槌を手にした司会者は、若干のけぞって緑の装丁の出品物から距離を取り始めている。

 眉間にしわを寄せて、フェリータは扇の代わりに札を口元にあてて、呟いた。

「八千……」

 フェリータは少しの間、目を閉じた。夫が心配そうに「やめろ、お前はもう手を出すな」と口を挟んでくるのを無視し、手を挙げる。

「一億」 

 わっと会場が沸いた瞬間。

「二億」

 十二の札が上がって、かえって、会場が静まり返った。

 聞き間違いかと誰もが疑う中で、司会者がとうとう「じゅうにばん、におくみら」と機械的に番号と金額だけを口にする。
 そして会場中の視線がフェリータに集まった。 

(に、二億……そりゃ、そりゃ払えなくはないですわ)

 持参金として与えられた、離島の別邸。あれを手放せば。
 それに、自分は宮廷付きとして働いている。数十年怪我無く働けば取り返せる。

 でもその間に、カヴァリエリ家には子供が生まれるかもしれない。
 そうしたらその子にたくさんお金をかけてあげたい。新興貴族の家に見合うくらいで、なんて終わらせない、このフェリータの子としてふさわしいだけの手間をかけてやりたい。

 グィードへの給金だって、今は彼が独身だが、結婚したり子ができたりしたら手当てをつけてやりたい。ロレンツィオは『うちから出す』と散々言ってきているが、フェリータがグィードを重用するのを憎たらしげに見ている(意味が分からない)男の財布なんて頼りたくない。

 金はあるが、無限ではない。カヴァリエリ家が貴族爵位を得た以上は、非常時の拠出金だっていつ徴収されるかわからないのだ。

 でも王国最高峰の魔術師の一人として、あれを逃すわけにはいかない。

 ――だけど、ここで半端に額を吊り上げても、ぺルラ伯爵家の当主たる父はさらに簡単に値を上げてくるに違いない。星の血統六百年。使う以上に貯め込んであるのだ。

(……ここまでですわね)

 いつ異国の人間に売り渡すかもわからない、商人に渡すよりはマシ。

 フェリータは札を膝の上に置いて、扇を開き、口元を隠した。首を横に振っての意思表示はプライドが許さなかった。
 司会者が何かを心得たように頷き、木槌を振り上げる。

 


 そこで、会場の扉が大きな音を立てて開かれた。

「五億ミラ!!」

 叫ばれた金額に、会場中の視線が扉へと向く。父伯爵の「な、なに!?」という声が端で響いた。

「……リカルド?」

 フェリータが呆然と呟く、その視線の先に、息を弾ませ、額の汗をぬぐいながら大股で会場に入って来る幼馴染みの姿があった。

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