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第七章 天敵求婚譚
79 虜(とりこ) 後
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乾いた声に、フランチェスカは数秒沈黙し、それから静かに問いかけた。
「……生意気ですね?」
「母親の身分が低いのは事実だろう。姉君の結婚の宴、君は途中で帰ったようだが、途中から学生街の酒場のようだった」
ヴァレンティノはグラスが傾かないよう器用に体を起こした。二人の視線の高さが近づく。
男の声は実に落ち着いていた。
今度はフランチェスカが相手を瞬きもせずに見つめる番だった。抑え込んだ感情を、薄膜一枚でとどめるような、危ういまなざしで。
「挑発しても無駄ですよ。私はお姉様ほど短気じゃない」
「知ってる。自信がないから強く出られないのを、賢いふりでやり過ごしている。かわいそうに、貴族としては血筋も半端で、魔術師としては実力不足、周囲を見返せる占術能力もない。自分の代でぺルラ家は格が下がったと言われるのが、今から怖くて仕方がない」
「そんなことありませんよ」
「ロレンツィオを殺してほしかったのは君の方だ。見下してきたカヴァリエリ家は君の大好きで大嫌いな姉さんを得て、一気に力を増す。現伯爵が死ぬか、力を失ったとき、二家の均衡はぺルラ家にとって悲劇的な崩れ方をする。そのとき、君は姉の情にかけるしかない。そんな未来に対する不安の捌け口に、一足先に没落した私がちょうどよかったってところかい」
「そんなんじゃない、本当にあなたが好きなだけ!」
フランチェスカは立ち上がって声を荒らげた。なりふり構わない、姉の結婚披露宴の夜以来の大声だった。
「あなたはなんにもわかってない! あの夜、私がどんな気持ちで別れを切り出したか! お姉様をどれほど憎んだか! 全部全部、あなたを思えばこそだったのに、それを否定するなんて許さないわよ!」
叫び、男の肩を掴んで揺さぶる。開け放たれた窓が軋み、花瓶の花が水気を失って枯れた。部屋の外から見張りが声をかけたが、グラスの水がこぼれて床を濡らしたの同様、フランチェスカは気づかなかった。
かすんでいく視界で、自分を見上げる男の表情がおぼろげに溶けていった。
「ロレンツィオ殿よりフィリパ様より、お姉様よりずっとずっと、私が一番あなたのことを思ってるのに、なんでそれすら踏みにじるのっ、なんでっ」
ドンッと扉を叩く音が部屋を震わせた。
「フランチェスカ殿!? 何をなさっておいでで、……ええい邪魔をするな!」
見張りの苛立った声に、フランチェスカは我に返り、青ざめた。
扉の向こうで言い合う声が漏れ聞こえてきた。十中八九、自分の護衛騎士と王宮から派遣された見張りが揉めている。
しまった。
こんな醜態が王に報告されたら、監督役を取り上げられてしまう。いやそれより、伯爵家への信頼が落ちてしまうのに――。
「気にするな。何も起きてない」
ヴァレンティノの声が、凍り付いたフランチェスカを通り越して扉へと向けられる。
それだけで、廊下のただならぬ雰囲気が落ち着いたのが部屋の中にいてもわかった。
そしてヴァレンティノは、固まったままのフランチェスカの手を肩から外し、かつての穏やかさそのままの流麗さで少女をもとの肘掛椅子に座らせた。
「……こんなことで、上に立ったつもりですか? 囚人の分際で偉そうに」
フランチェスカは悄然としながら、やっとの思いで言葉を口にした。ヴァレンティノはそんな彼女には目もくれず、残っていた水を一気に飲み干した。
「その愚かしさ、いかにもあの人の妹って感じで好ましいよ」
「黙れ」
「なんにもわかってないのは君だよ。君が好きになった男は、最初からどこにもいなかった。全部、チェステ家再興の素材集めのために作り上げた偽物だ。おもちゃにしたければ好きにすればいいが、君の好みじゃないと思うぞ」
そう言うと、男は空になったグラスを小さな手に握らせた。
そして、さっきまでと同じように、また天井を仰ぐ形で長椅子に横たわる。
「すこし眠る。気を利かせてくれるなら出ていってくれ」
「……起きたころに、外の見張りに声をかけてください」
「わかった」
嘘だ。フランチェスカは直感的にそう思ったが、もうこの場では何も口にしないことにした。これ以上墓穴を掘りたくなかったし、彼が起床を報告しなくても、起きる時間は入れた量からだいたい予測できた。
なのに。
「次は最初から粉にした睡眠薬を持ってきた方がいい。いちいち、ああやってこそこそ割砕いて水に入れてなんてやられたら、こっちも気まずい」
指摘されて、グラスを持つ手に力がこもる。
フランチェスカは椅子を蹴るように立ち上がって、男に背を向けた。
そして、怒る必要などないのだと自分に言い聞かせる。平静を保つのは、姉よりずっと得意だった。
勝手に引き取ったのだ。良く思われる必要などない。自分だけの欲望に従うと決めただろう。オルテンシアのように。
立ち去る背中に、追ってきた声はゆるやかで、今にも消えそうだった。
眠いのだろう。無防備な声だった。
「先達に倣って、夫は身の丈に合った男を選ぶといい」
無視して、扉に手をかける。
気にしてはいけない。相手に自分がどう見られているかなんて考えてはいけないのだから――。
「君のご両親は、幸せそうだったから」
人形のように、フランチェスカは取っ手を掴んだまま動きを止めていた。
(どの口で、そんなことを言うの)
許せない。
罪悪感でも抱いたのだろうか。フランチェスカの激昂に、憐れみを感じたのだろうか。
どんな理由でも、今さら幸せなんて願われたくはなかった。
ひと月半前、求婚してきた男本人になど。
「言われなくとも、私だって夫を見つけるわ。ちゃんと、身分が釣り合って、私に嘘をつかなくて、優しくて、素敵なひとを」
返事はない。薬が効いたのだろう。
わかっていながら、フランチェスカは振り返って長椅子へと逆戻りした。見下ろす顔は、もう目を閉じてフランチェスカを見ようとはしない。
復讐のつもりだった。姉を好きなくせに、カヴァリエリの男と親しいくせに、自分を軽んじて近づいてきた男を後悔させるつもりで、身柄を明け渡させたはずだった。
手に入れて、自分のものになれば、気が済むと思っていたのに。
そのうちに飽きて、つまらない男に求婚されていたものだと、何の憂いもなく切り捨てられると思っていたのに。
『結婚していただけますか、フランチェスカ』
もしかしたら、優しさも本物だったのではないかなんて、思うはずではなかったのに。
「……ヴァレンティノ様っ……」
骸のように長椅子に横たわる男に取りすがり、フランチェスカは声を押し殺して泣いた。
カーテンが揺れる。
未練をさらってもらうには、この島の南風は優しすぎた。
――そんなけなげな感傷に浸っていたフランチェスカは、縋っていた男が突如体を起こしたことで弾かれたように逃げるはめになった。
「なっ……なんですか、急に! 薬、飲んでなかったんですか!?」
飛び退って床に手をつき、顔を背けて半分怒りながら問いかけるフランチェスカに、ヴァレンティノは呆然と宙を見つめたまま「いや……」と呟いた。
「……どうしたんですか。お腹がすいたのなら、何か作らせますが」
「……夢を見た」
ヴァレンティノの言葉に、涙を必死に拭っていたフランチェスカは目を丸くしてまた飛びついた。
「な、なんの。どんな夢です!?」
「フランチェスカ……」
泡を食って問い詰めるフランチェスカに、ヴァレンティノは目を瞬かせ、戸惑い、何か言いあぐねるような顔を向けた。
その無垢ともいえる表情に『あーっまたそういう一面を見せる!!』と、娘が心の内で相手への愛憎を募らせたとき。
「ロレンツィオと姉君、離婚するのか?」
「…………ハァッ!?」
いまだかつてヴァレンティノには聞かせたことのない、姉そっくりな声が出た。
「……生意気ですね?」
「母親の身分が低いのは事実だろう。姉君の結婚の宴、君は途中で帰ったようだが、途中から学生街の酒場のようだった」
ヴァレンティノはグラスが傾かないよう器用に体を起こした。二人の視線の高さが近づく。
男の声は実に落ち着いていた。
今度はフランチェスカが相手を瞬きもせずに見つめる番だった。抑え込んだ感情を、薄膜一枚でとどめるような、危ういまなざしで。
「挑発しても無駄ですよ。私はお姉様ほど短気じゃない」
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「そんなことありませんよ」
「ロレンツィオを殺してほしかったのは君の方だ。見下してきたカヴァリエリ家は君の大好きで大嫌いな姉さんを得て、一気に力を増す。現伯爵が死ぬか、力を失ったとき、二家の均衡はぺルラ家にとって悲劇的な崩れ方をする。そのとき、君は姉の情にかけるしかない。そんな未来に対する不安の捌け口に、一足先に没落した私がちょうどよかったってところかい」
「そんなんじゃない、本当にあなたが好きなだけ!」
フランチェスカは立ち上がって声を荒らげた。なりふり構わない、姉の結婚披露宴の夜以来の大声だった。
「あなたはなんにもわかってない! あの夜、私がどんな気持ちで別れを切り出したか! お姉様をどれほど憎んだか! 全部全部、あなたを思えばこそだったのに、それを否定するなんて許さないわよ!」
叫び、男の肩を掴んで揺さぶる。開け放たれた窓が軋み、花瓶の花が水気を失って枯れた。部屋の外から見張りが声をかけたが、グラスの水がこぼれて床を濡らしたの同様、フランチェスカは気づかなかった。
かすんでいく視界で、自分を見上げる男の表情がおぼろげに溶けていった。
「ロレンツィオ殿よりフィリパ様より、お姉様よりずっとずっと、私が一番あなたのことを思ってるのに、なんでそれすら踏みにじるのっ、なんでっ」
ドンッと扉を叩く音が部屋を震わせた。
「フランチェスカ殿!? 何をなさっておいでで、……ええい邪魔をするな!」
見張りの苛立った声に、フランチェスカは我に返り、青ざめた。
扉の向こうで言い合う声が漏れ聞こえてきた。十中八九、自分の護衛騎士と王宮から派遣された見張りが揉めている。
しまった。
こんな醜態が王に報告されたら、監督役を取り上げられてしまう。いやそれより、伯爵家への信頼が落ちてしまうのに――。
「気にするな。何も起きてない」
ヴァレンティノの声が、凍り付いたフランチェスカを通り越して扉へと向けられる。
それだけで、廊下のただならぬ雰囲気が落ち着いたのが部屋の中にいてもわかった。
そしてヴァレンティノは、固まったままのフランチェスカの手を肩から外し、かつての穏やかさそのままの流麗さで少女をもとの肘掛椅子に座らせた。
「……こんなことで、上に立ったつもりですか? 囚人の分際で偉そうに」
フランチェスカは悄然としながら、やっとの思いで言葉を口にした。ヴァレンティノはそんな彼女には目もくれず、残っていた水を一気に飲み干した。
「その愚かしさ、いかにもあの人の妹って感じで好ましいよ」
「黙れ」
「なんにもわかってないのは君だよ。君が好きになった男は、最初からどこにもいなかった。全部、チェステ家再興の素材集めのために作り上げた偽物だ。おもちゃにしたければ好きにすればいいが、君の好みじゃないと思うぞ」
そう言うと、男は空になったグラスを小さな手に握らせた。
そして、さっきまでと同じように、また天井を仰ぐ形で長椅子に横たわる。
「すこし眠る。気を利かせてくれるなら出ていってくれ」
「……起きたころに、外の見張りに声をかけてください」
「わかった」
嘘だ。フランチェスカは直感的にそう思ったが、もうこの場では何も口にしないことにした。これ以上墓穴を掘りたくなかったし、彼が起床を報告しなくても、起きる時間は入れた量からだいたい予測できた。
なのに。
「次は最初から粉にした睡眠薬を持ってきた方がいい。いちいち、ああやってこそこそ割砕いて水に入れてなんてやられたら、こっちも気まずい」
指摘されて、グラスを持つ手に力がこもる。
フランチェスカは椅子を蹴るように立ち上がって、男に背を向けた。
そして、怒る必要などないのだと自分に言い聞かせる。平静を保つのは、姉よりずっと得意だった。
勝手に引き取ったのだ。良く思われる必要などない。自分だけの欲望に従うと決めただろう。オルテンシアのように。
立ち去る背中に、追ってきた声はゆるやかで、今にも消えそうだった。
眠いのだろう。無防備な声だった。
「先達に倣って、夫は身の丈に合った男を選ぶといい」
無視して、扉に手をかける。
気にしてはいけない。相手に自分がどう見られているかなんて考えてはいけないのだから――。
「君のご両親は、幸せそうだったから」
人形のように、フランチェスカは取っ手を掴んだまま動きを止めていた。
(どの口で、そんなことを言うの)
許せない。
罪悪感でも抱いたのだろうか。フランチェスカの激昂に、憐れみを感じたのだろうか。
どんな理由でも、今さら幸せなんて願われたくはなかった。
ひと月半前、求婚してきた男本人になど。
「言われなくとも、私だって夫を見つけるわ。ちゃんと、身分が釣り合って、私に嘘をつかなくて、優しくて、素敵なひとを」
返事はない。薬が効いたのだろう。
わかっていながら、フランチェスカは振り返って長椅子へと逆戻りした。見下ろす顔は、もう目を閉じてフランチェスカを見ようとはしない。
復讐のつもりだった。姉を好きなくせに、カヴァリエリの男と親しいくせに、自分を軽んじて近づいてきた男を後悔させるつもりで、身柄を明け渡させたはずだった。
手に入れて、自分のものになれば、気が済むと思っていたのに。
そのうちに飽きて、つまらない男に求婚されていたものだと、何の憂いもなく切り捨てられると思っていたのに。
『結婚していただけますか、フランチェスカ』
もしかしたら、優しさも本物だったのではないかなんて、思うはずではなかったのに。
「……ヴァレンティノ様っ……」
骸のように長椅子に横たわる男に取りすがり、フランチェスカは声を押し殺して泣いた。
カーテンが揺れる。
未練をさらってもらうには、この島の南風は優しすぎた。
――そんなけなげな感傷に浸っていたフランチェスカは、縋っていた男が突如体を起こしたことで弾かれたように逃げるはめになった。
「なっ……なんですか、急に! 薬、飲んでなかったんですか!?」
飛び退って床に手をつき、顔を背けて半分怒りながら問いかけるフランチェスカに、ヴァレンティノは呆然と宙を見つめたまま「いや……」と呟いた。
「……どうしたんですか。お腹がすいたのなら、何か作らせますが」
「……夢を見た」
ヴァレンティノの言葉に、涙を必死に拭っていたフランチェスカは目を丸くしてまた飛びついた。
「な、なんの。どんな夢です!?」
「フランチェスカ……」
泡を食って問い詰めるフランチェスカに、ヴァレンティノは目を瞬かせ、戸惑い、何か言いあぐねるような顔を向けた。
その無垢ともいえる表情に『あーっまたそういう一面を見せる!!』と、娘が心の内で相手への愛憎を募らせたとき。
「ロレンツィオと姉君、離婚するのか?」
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