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第六章 サルヴァンテの魔術師

66 フィリパ・チェステ

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 ***

 揺れる舟上で雨に打たれながら、フィリパは無感動に床板を見下ろしていた。
 そこには、目を閉じたチェステ侯爵が力なく横たわっている。

 隠し通路を通って屋敷から外に出ると、天候は急速に悪化した。父を隠したゴンドラに乗ってあてもなく運河を進むうちに、波が荒れた。すぐそばで魔物が暴れ、そして雷に打たれて死んだ。

 すべて認識していたが、足元に転がる父親と同じくらい、どうでもよかった。自分の運命への諦念だけが、凪いだ水面のような心に浮かんでいた。

 こんな男、どうして恐れていたのだろう。
 残虐なだけで、魔術師でもなんでもない、ただの人間を。
 
「……どうせ生きていても、奪われるばかりで何も得られないのなら、さっさと奪う側に回ればよかった」

 呟いて、意識のない男の口をこじ開ける。うめき声がした。死んでいないことは知っていた。
 兄が屋敷を空けていた昼間、父侯爵が自分を殺そうとしてきたから、とっさに部屋の置時計で殴り返したのだ。

 父親は以前から娘を殺したがっていた。口封じのためでもあったのだろうし、純粋に力の衰えを恐れたのもあったのだろう。愛人と正妻、両方を殺しても、この男が魔術師を名乗り続けるには生贄の数が足りないのだ。
 きっかけはいくらでも想像できた。宮廷の魔術師は常に人手不足だと聞いたから、王から穴埋めを要請されて焦ったのかもしれない。

 勝手にフィリパに害を加えると、ヴァレンティノが怒るのに。これは自分のための生贄だろうと、怒るのに。
 兄が学院に行っている間、もし王女がフィリパを頻繁に呼び出さなければ、自分はとっくに神経摩耗した侯爵によって殺されていただろう。

 王女。
 フィリパの脳裏に、金の髪の、底知れない微笑みを浮かべた女の顔が蘇る。自分のために他人が奔走するのを何とも思わない女。他人にどう思われようと、何も感じていないかのような態度。自分も所詮はおもちゃだったのだろう。こちらの都合など全く考慮されることはなかった。
 
 ロレンツィオと結び付けてもらえたなら、生涯かけて感謝もしたけれど、そうならなかった。やたらに連れ出されたり、押し掛けられて本を貸したりしただけだ。

「オルテンシア様も、変な本をお読みになってましたわね。……魔術師じゃないくせに」

 フィリパはこじ開けた父の口に、金のロケットから抜き取ってきた繊維質“魔女の心臓”を寸分のためらいもなく押し込んだ。
 そうしてから、暗い天に向けて祈りの手を組む。
 
「『この献身を天にまします神へと捧げたてまつります。天に喜びを、地に恵みを』」
 
 口にしたのは、数日前、ストロベリーブロンドの魔術師がしたのと同じ聖書の言葉。
 敬虔な祈りに、純粋な願いを付け加える。

「……悪魔の都に、どうか天罰を」
  
 風が強くなる。目の奥が熱くなる。濡れた頬では、涙が出たのかはわからなかった。
 身分の低い占い師を母に持つのは同じなのに、どうして自分は彼女とこんなにも違うのかがわからなかった。
 礼拝堂の地下でなされた会話に、フィリパはずっと耳を澄ませていた。フェリータもヴァレンティノと同じように生贄術に手を染めていたことも、聞こえていた。
 兄とは違い覚悟もなく。フィリパと違い恐怖もなく。
 
 許さない。
 自分を虐げた侯爵家。そうさせたこの国。加害者でも被害者でもありながら、大事に守られるあの女。あの女を選んだあの人。
 自分はいつも、どこにいても、感情を抑え込んできたのに、ここは勝手な人たちばかりが得をする。
 欲と欺瞞に満ちた、悪魔の都。

「みんな、死んでしまえばいい」 

 組んでいた手を解くと、フィリパは意識朦朧とする父親の体を運河に落とそうと手を伸ばし――。

「待ちなさい!!」

 高慢な制止とともに上空から降ってきた体になぎ倒されて、フィリパは船底に横倒しにされた。


 ***


 橋から見つけたゴンドラの上には、手を組むフィリパしか見えなかった。残り少ない魔力で鳥に変わったフェリータは、そばまで来てやっとその足元に侯爵が倒れていたことに気が付いた。さらにその男をフィリパが運河に落とそうとしたので、驚き飛び掛かった。

 のしかかられた黒髪の女からぐえ、と潰れたカエルのような声がした。フェリータも受け身など取れるはずもなく、しばらく二人揃って痛みに震えた。

「……ま、魔女の心臓は、あなたどこにやりましたの!?」

 身を起こし、乱れて顔にくっついた髪をかきあげて叫ぶと、体の下からきつく睨み上げてくる薄青の目とぶつかった。
 そして、フェリータの頬に灼けるような熱が走る。平手で打たれたのだ。

「どきなさいよ!!」

 フィリパの咆哮に応えるように、熱を持つフェリータの顔に当たる雨が激しさを増した。

「こんな都、地獄に沈んでしまえばいい! 魔術師でない者を許さない国なんておかしいのよ、ここに生きる人間たちのほうがずっとおかしい!! そこをどいてよ、どうせ命を縮めなきゃなんにもできない出来損ないのくせに!!」

「……フィリパ様、魔女の心臓はっ、」

 フェリータの頬が再び鳴った。打たれた皮膚に爪を立てられ、がりっと抉られる。痛いと言う暇もない攻撃を次々に受けても、フェリータは抑え込んだ女を離さなかった。

「星の血統なんて言ったって、一枚めくれば薄っぺらい懐古主義連中が威張り散らしているだけなのにっ、なんで、なんでみんな、なんでロレンツィオ様も、王女様も、この男も」

「ま、魔女のし」

「黙れぇ!!」

 とうとうフィリパの手がフェリータの鼻頭を叩いた。“パァンッ”と威勢のいい音が響く。
 フェリータは声もなく悶絶した。それでもフィリパは止まらない。

「お兄様だって馬鹿よ、自分だけは賢いみたいな顔して大馬鹿よ!! 爵位がなによ、歴史が何よ、誇りが何をしてくれるって言うのよ!! 星の血統なんて看板、維持するのにも苦しむだけなのにっ、今を凌いでも、また同じように苦しむだけなのは目に見えてるのに、」

「ま」

「地位のくだらなさなんて明白じゃない!! この女の性格の悪さが物語っているのに、ロレンツィオ様の目は節穴だわ!!」 

「魔女の心臓はどこだ答えろ!!!!!」

 揺れる舟の上に、乾いた音が響く。
 己が鼻で受けたのと負けず劣らずの平手を、フェリータは組み敷いた女の頬に見舞っていた。つかの間の沈黙が、舟だけでなく空にも広がる。

 ほんのわずかな間だけだったが。

「……い、いた」

「痛い!? それは結構ですわわたくしもすっごい痛かったもの!! 顔をぶたれるなんてパパにもされたことないわよこの根暗!! そんな元気があるなら、さっさと逃げ出せばよかったでしょうがあの家から!! 告発すれば、証拠はいくらでも出てきたでしょうに!!」

 目を丸くして、我に返ったように頬をおさえるフィリパに、フェリータがお返しとばかりにがなり立てる。顔が真っ赤なのは叩かれたせいだけではなかった。
 開き直ったような怒りに晒されて、フィリパもすぐに目元を険しくする。

「……簡単に言わないでよ!! 守られてたあんたにあたしの気持ちが」

「わかる気なんかありませんけど!? ええご存じの通り、性格の悪い女ですから!! まーロレンツィオはこのわたくしのことがだーいすきですけどね!!」

「……ッ殺す!!」

「お前が死、いや違う魔女の心臓を返せ!!」

 小さなゴンドラの上、ぴくりとも動かない侯爵を傍目に、二人は取っ組み合いになった。
 波が荒れ、濁流を二人そろって浴びたことも気に留めず、互いに髪を引っ張っては頬を叩き合い、つばを飛ばして罵り合った。

「返せも何も、もともとうちのものよ! どう扱おうがあたしの勝手だし、その程度で滅ぶ島ならさっさと滅べばいい、あんた達もろとも!」

「サルヴァンテを守るわたくしの前でよくもそんなことを! だいたいお前にはお尻を蹴っ飛ばされた恨みもありますの!! そんな狼藉、誰も、どんな理由があろうとも絶対に許されませんからね!!」

「デブが悪いのよ! どきなさいデブ!」

「ででででデブじゃないっ! そっちこそ、足癖の悪さに性根が滲んでましてよ!!」

「でかくて蹴りやすかったわデブ尻! いい加減どいてよ乗られると重いのよ豚! ピンクの豚!」

「んまーよく喋る鶏ガラ、運河で出汁を取りましょうかしらねーーーーっ!?」

 そのとき、手を振り上げたフェリータの目の前に、ぼっと球状の炎が現れた。
 ぎょっとして身を引くと、その拍子にフィリパが大勢をひっくり返してきた。強い力で肩を掴まれ、背中を床板に叩きつけられる。

 痛みに揺れ、怒りが鎮火したフェリータの頭に、疑問符が浮かんだ。
 
 ――今のは、何?
 
「何よ、みんなオルテンシア様のように倒れてしまえばいいのに!」
 
 今度はパチパチと、炎が爆ぜるような音がした。目だけを向ければ、ゴンドラの縁を青白い炎が伝っていっている。
 さっきまで、火の気はどこにもなかったのに。
 フェリータは何もしていない。心臓はどくどくとなっているが、さっきはともかく今は至って冷静だ。
 無意識魔術は起こさないのが一番だが、起きても『やってしまった』と意識すればすぐに落ち着く。そう訓練してきた。

 

(……まさか)

「許さない!! 無責任な提案して、ぬか喜びさせられた身にもなってよ!! あの女、自分だけちゃっかり気に入った男を手に入れて、あたしの気も知らないで八つ当たりばっかり!!!」
  
 大声で喚くフィリパの目に、行き場を失った悔しさが雫となって滲む。
 それを見ながら、フェリータは己の内で輪郭を獲得していく“可能性”を感じ取っていた。

 礼拝堂で感じた運河の荒れ。女主人の寝室で割れた窓。狙いすましたかのように現れた嵐。
 これらの事象は、フィリパの感情の昂りと同じタイミングで現れた。

 それに、フェリータに犯した罪を責められたときのヴァレンティノは言っていた。第一王女が誰の恨みを買っていたのか知らないが、と。

 彼ではない。 

『オルテンシア王女への呪いは、生贄術ではなく、魔術によるものだった』

『術者は、被害者のすぐそばに出入りできる人間』

 ヴァレンティノは、魔術師ではない。呪っていない。

 ――魔術師と判明したものが最初に受けるのは、精神の安定を保つ訓練である。
 でないと、ストレスやショックを受けるたびに、術者の近くで異常現象が頻発してしまうから。

 彼女は、ずっと抑えつけられて生きてきた。感情を発露させられる場面が極端に少なかった。だから、今の今まで気が付かれなかった。

「フィリパ様……あなたが、オルテンシア様を呪った魔術師でしたのね」

 稲光が空に走った。
 薄青の目から溢れる怒りを、大地に知らしめるように。
 
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