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第五章 星の血統

63 砕けた想い

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 水責め牢で立ち尽くしていた二人に縄梯子なわばしごを垂らしてきたのは、他でもないフィリパだった。

「……ありがとうございます」

 ロレンツィオに押し上げられるように地上に戻ったフェリータが、びしょ濡れのまま礼を言う。フィリパは「誤解なきよう」と醒めた声を返した。

「ロレンツィオ様をお助けしたかっただけですから」

 そう言うやいなや、遅れて這いあがってきたロレンツィオに透明の液体が入った小瓶と乾いた布を渡した。

「この家で作り置いている魔術薬ですわ。本来なら作り手が術をかけながら服用するものですが、ただ飲むだけでも、多少は魔力の回復にお役立ちするかと」

 その声はフェリータに向けたものより、ほんの少し、だが確実に、やわらかなものだった。
 ――なんてわかりやすい女。擬態上手の兄の反動なのか、それとももう隠すものも恥じるものもないからか。
 蹴り落とされた恨みもある。フェリータは拗ねながら、己の手で重く濡れたストロベリーブロンドを絞っていたのだが。

「ありがとう、助かる」

 そう言うと、ロレンツィオは布には手を付けず、薬を一口飲んだ。
 そして受け取った布を広げて、フェリータをすっぽり覆うと、その手に半分以上中身の残った薬の瓶を握らせた。

「はっ?」

「文句言うな。毒見だ」

 ワシワシと髪を拭かれ、その力の強さにフェリータは頭を揺らされながらも慌てて言い返した。

「あ、あなたに必要なものでしょう。あんな手枷も外せなかったのに」

「死にかけのあんたよりはずっとましな状態だよ。早く飲め」

「しっ……!?」

 あんまりな言いようにフェリータは声を荒らげかけたが、それより先に口に小瓶が押しつけられ、顎を上げられ中身が流し込まれた。

「憲兵を呼んでこい。俺はヴァレンティノを捕縛する」

 喉を通った薬液に目を白黒させたフェリータは、言うだけ言って出口へ顔を向けたロレンツィオに慌てた。

「んっ、……ま、待ちなさい! あなた一人でなんて!」

「放せ。あんたがいる方が今は足手まといだ」

「偉そうに何を、あなただって捕まったでしょ!!」

「不意打ちだった。正面切って挑んで負けたあんたとは状況が違うんだよ」

「み、見てもいないくせに……!!」

 悔しさに顔を赤くしたフェリータへ、ロレンツィオは言い聞かせるように声を和らげた。

「憲兵を呼ぶのと同時に誰かが抑えつけとかないと、証拠を消されてまた白を切られるだろうが。俺はまだ魔力も残ってるし、牢の中でろくに動かなかったおかげで体力も戻ってきてる。そもそも、魔術が本調子じゃなくても俺は十分戦える」

 黙ったフェリータに、ロレンツィオがかすかに微笑む。

「意外かもしれないが、あのボンボンに剣技で負けたことはないんだよ」

 そう冗談ぽく言われてようやく、フェリータも引き下がるように視線を下げた。

 が、掴んだ腕を放す際、ろくな手当もできていなかった二の腕の怪我に治癒術を施すのを忘れない。レリカリオなしにしてはずいぶんきれいな仕上がりだった。
 ロレンツィオはぎょっとして、「バッカ、せっかく回復させたのを……」と罵りかけたが、癒えた傷を見て、睨むフェリータにため息を吐くと。

「……助かったよ」

 そうして、眉間のしわを和らげた妻の頬に、布に隠れて軽く口づけると、あとは振り返ることなく礼拝堂を後にした。

 フェリータが喜びに胸を震わせたのは、男が開けた扉が音を立てて閉まるまで。
 あとには、すべてを傍観していた無言のフィリパに「出口はどこですこと?」と白々しく声をかけるという苦行が待っていた。






 フェリータとフィリパは女主人の主寝室に戻ってきていた。
 窓を開けて廊下に直接侵入すれば、礼拝堂から玄関や裏口に向かうより、ずっと近かった。

「この隠し通路は、中で分岐していて、外につながっている道もありますわ」

 肖像画の奥の隠し部屋はあいかわらずだった。
 白骨をものともせず避けて、小部屋の奥の壁に相対したフィリパは、青ざめて奥歯を噛み締めるフェリータに気が付いてせせら笑った。

「あなたって本当に箱入りのお嬢様ですのね。宮廷付き魔術師だなんてとても思えない」

「おだまり……」

「大切に守られて、育ってきたんでしょうね」
 
 意地悪く投げかけられたその言葉を、ただの嫌味ととらえることはできなかった。
 フェリータは視線をフィリパに向けた。彼女はもう顔を壁に戻している。黒い髪はきれいに結われ、服は一級品の布地で首から手首、足首までを綺麗に包んでいる。

 隠されているのだ。あの美しい布で。

「……一年前、ロレンツィオ様のもとに奇妙なプレゼントが届いたでしょう。あれは中身こそお兄様が用意なさったけれど、包んで、置いていったのは、わたくしでした」

 やはり、と思っても口には出さなかった。
 流行りの包みと美しい花の飾りを取り去れば、溢れてきたのは暗く淀んだ呪い。
 似ている、と図らずも思ってしまった自分が嫌で、フェリータはフィリパの背中から目を逸らした。

「失敗するように願って、そうとわかるように包みをゆるくしました。結果に安心しましたが、でもカヴァリエリ家を見下す侯爵にはずいぶん罵られました。お兄様は、それでもあなた方親子とロレンツィオ様が仲違いを深めたから良しとするような言い方をなさいました」

 フィリパの手が自身の左頬に触れた。無意識なのだろうか。――叩かれた記憶が、ぶり返しているのだろうか。

 大切に守ってくれる人は、この屋敷にいなかったのか。
 この寝室の肖像画を見る限り、彼女はまるでチェステ家に存在していないかのようだ。生贄として、使い潰す予定だったからなのだろうか。

「オルテンシア様の横にいると、ときどきその事件の話になりました。真相を知らないはずの殿下も『どうせならぺルラ家の苺姫がやったことになればいいのに』と。あなたのことですよ」

 第一王女の名前が出て、途端にフェリータの気持ちはささくれだった。本当に頭にくる王女だ。 

(よりによって、あの人にもわたくしの過ちが筒抜けだったなんて……)

 苦々しく眉を寄せたとき、ふと胸に違和感が生じたが、それを吟味する暇はなかった。

「誰も、あなた方の結婚なんて、望んでいなかった」

 靴音が響いて、フィリパがフェリータの方を向いた。
 静かに、確かに、憎しみをその目に滾らせて。

「……オルテンシア様に目を付けられて、引っ張り回されるようになって良かったことは、この家にいなくてもいい時間が増えたことと、お兄様のいない場所でロレンツィオ様とお会いできたことでした」

 隠し通路につながる壁から離れて、フィリパがフェリータに近づく。
 つま先が白骨に当たったことも気にかけず、目はひたすらフェリータに向いていた。

「もしも、お兄様がぺルラ家の姉妹と結婚したら。魔力のある子どもが生まれたら。そうしたら、わたくしが外に嫁いでいく……オルテンシア様がままごと遊びのように提案した、カヴァリエリ家に輿入れするなんて夢物語も、実現したかもしれない」

 張り詰めた空気に気おされたように、窓の揺れる音がした。風が強くなっているのか、波の荒れる気配まで届いた。
 フェリータは息を飲み、思わず一歩後ずさった。予想外の展開になってしまった。

「フィリパ様、話は外で致しましょう」

「わたくしのほうが、先に好きになったのに。優しい方だと知ってたのに、ずっと見つめてきたのに。……あなたなんて、運河に飛び込んだだけなのに、なんで」

 フィリパの目に涙が盛り上がる。怒りと憎しみと悲哀が、瞳から顔全体に広がり、端正な顔を歪ませた。

「フィリパ様っ、」

 逃げる間もなく腕を掴まれる。細い指が食い込み、至近距離で目を見つめられて、息が止まった。
 比喩でなく本当に、呼吸が止まっていた。空気の塊が喉に押し込まれたようだった。

「貴族には手を出さない、って言ってたくせに、よりによってなんで……なんで!!」

 ――背後の寝室で、窓が割れる音がしたのと同時に、小部屋の奥の壁が回転し、奥から飛び出してきた人影がフィリパを引きはがした。

「……ッグィード!?」 

 驚き、叫んだときには呼吸が楽になっていた。

「……お迎えに上がりました」

 即座にフィリパを昏倒させた元護衛騎士はそう言って、いつもよりやや疲労の目立つ顔を俯かせて礼を取った。

「……な、なぜそんなところに」

「恥ずかしながら、チェステ家のご令息に入館を阻まれましたたため」

「侵入して、こんなところまで暴いて探し回っていたというの? まぁなんてこと……」

 隠し通路の壁と護衛騎士とフィリパを交互に見るフェリータをよそに、フィリパを寝室の壁に凭れさせたグィードは割れた窓に走り寄って外を見渡した。

「誰かいる?」

 フェリータが聞くと、周辺を調べていた騎士は短く否定した。

「強風で割れたのね。運河も荒れているようだし」

「……? いいえ、外は静かで、ここから見る限り運河も……いつも通りかと」

 予想が外れ、フェリータは瞬きした。

「そう。ならどうしてかしら」

「……」

 黙った騎士に見つめられ、フィリパの様子を見ていたフェリータはきょとんとし、そしてすぐに「わたくしではありませんわ!」と反発した。

「これでも、自宅以外ではずいぶん落ち着いていて、外での無意識魔術なんて本当にまれにしかありません! それより、早く外へ」

 まれにあるでしょうが、と内心で思う騎士の神妙な「申し訳ございません」にフェリータが鼻息荒く頷いたとき、階下で大きな物音がした。

 ――ロレンツィオ!!

「グィード、フィリパ様と外に出て憲兵をお呼び!」

 鋭く命じながら、体は既に寝室から廊下へと躍り出ていた。



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