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第五章 星の血統
62 ヴァレンティノ・チェステ
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発表者が来ていない。
半円形の大講堂は、集まった学生たちの落ち着かない話し声で溢れていた。
その多くは困惑と焦りに染まっていたが、中にはいくばくかの興奮も混じっている。
「やばいって、もうじき学長が来るぞ」
階段状の座席の最後列、隣に座った同級生からの耳打ちは、不安一色だった。
「リカルドはいつも遅刻ギリギリだけどよ、ロレンツィオまでってなるとこれやばいよな。なぁ、どうするよ」
「……どうするったってウルバーノ、私に何ができると」
懐中時計を眺めて眉を寄せながら、青年は力なくため息を吐いた。ウルバーノは構わず、青年の肩を掴んで揺さぶる。赤茶の髪が揺れた。
「そうだけどさ、研究発表落としたら進級できないし、卒業後の宮廷付きへの推薦書だって取りにくくなるだろ。あれ一枚あるかないかで面談の回数かなり変わるって言ってたじゃん」
「知ってるよ。知ってるから……手伝えることあったら言えって、二人にあんなに言ったじゃないか私たち」
それなのに、二人は『大丈夫だから』としか返さなかった。リカルドに至っては申し出た側を一瞥して“なんだこいつら”くらいの視線を寄こしてきた。
薄青の目で遠くを見て、少し頭を振ってから呆れのため息を吐く。
「前日徹夜込みの『大丈夫』は『大丈夫じゃない』の範囲だろうに」
「……まあ実際、俺みたいな素人には手伝いようもないことばっかりしてたみたいだけど……」
ウルバーノが机に額を付けてぼやくと、青年は時計を仕舞い、腕を組んで大講堂の入り口を見つめた。
この学院では教養の一環として、魔術の歴史や知識体系を学ぶが、数少ない魔術当事者の二人はそれを三回生の目玉授業である研究発表の対象にした。
しかも、ただ論文をまとめて見解を作るようなものではなく、“ある魔術を別の魔術に見せかける方法”という大層実践的な手法の開発に挑んだ。
さる伯爵家を挟んで険悪な仲でもおかしくない二人。それが組んで準備しているとあって、学院中が今日の発表に注目していた。
なお、本人たちに近い友人たちは、普段誰よりも頭の回転が早く要領のいい二人が、思いのほか難航していることを知っていたため、楽しみよりも心配の方が大きかった。
彼らの敵は『多忙と不慣れ』であった。
「無理なんだよ~~騎士団でほぼ正規人員同様の訓練しながら発表準備とか~~~リカルドは下級生のときの研究学すっとばしていきなり本番の研究発表だし、なんであの二人で組んじゃったんだよ~~~」
「リカルドが『組もうよ』ってめちゃめちゃぐいぐい来て、ロレンツィオが頼って来る年下を無下にできない奴だからだよ……」
うめく級友に乾いた声で答えながら席を立つと、青年は大講堂の後方に並ぶ大きな窓に近づいた。
学長はまだ来ていない。いち早く異変に気が付いて、担当教官に学長の足止めをしてもらうよう頼んだから、開始時間ぎりぎりまでは大丈夫だろう。
ぎりぎりまでしか、猶予がないわけだが。
「ロレンツィオはお前と組むつもりだと思って、俺遠慮したんだけどな。……あれ、何してんだ」
青年は窓の鍵を順々に開けていった。資料が飛ぶから窓は開けてはいけないことになっているため、ウルバーノが怪訝そうにきいたのを苦笑いでいなした。
「なんとなくだよ」
「注意されるぞ、鍵誰が開けたって」
「ああ、でもまぁ、夢見がね」
「夢?」
青年が自席に戻ってきたところで、講堂内の空気が変わった。
学長が入ってきたのだ。立ち歩いていた学生が争うように席に座り、喧騒はあっという間に収まった。
「……おや?」
長い口髭に鋭い眼光の学長は、壇上を見て眉を上げた。ウルバーノが顔を伏せて、祈るように手を組む。
大講堂に緊張が走る。
駄目だ。
「カヴァリエリと、エルロマーニは?」
間に合わなかった。
誰もがそう思った、その瞬間。
――バァンッ!
「いまぁす!!!!」
黒い髪を振り乱し、緩んだネクタイを首に引っ掛けた学生と、その肩に担がれ、両腕で紙束を抱えて真っ青な顔でぶら下がっている銀髪の学生が、枠にぶつかって砕けそうな勢いで開いた窓から飛び込んできた。
「……っだ、誰が窓の鍵を、おいお前たち、遅刻は発表資格剥奪だぞ!」と険しい声で近づいてきた教授の一人に、階段を飛ばしながら降りてきたロレンツィオが、肩のリカルドから資料束を一部抜き取ってその顔に叩きつけた。
そのまま、歩きながら朗々と話し始める。まるで最初から決めていた演出であるかのように、堂々と。
「えー今回、私たちが皆さんにお聞かせしますことについて、……資料はここにありますので、ホルダーからご自由にお持ちになっていってください! いらない方もいらっしゃるでしょうからね!」
壇上に上がる際、空いた椅子を一つ引きずり上げ、そこに青い顔のリカルドを座らせて『資料ホルダー』と名付けると、そのままメモも見ずのスピーチが始まった。
三十秒後、学長が黙って壇上を横切り、リカルドの手から資料を抜き取っていったのを皮切りに、教官と学生たちがぞろぞろとリカルドのもとに資料を取りに行ったのだった。
――安堵の顔のウルバーノがまとめて取ってきた資料の一部を受け取ったとき。
『鍵、ありがとな』
足元から聞こえたごく小さな声にハッとして、薄青の目を向けた。そこに四つ足の、猫か子犬のような大きさの黒い影が溜まっていた。
視線を向けるなり、それは黒い煙となって消えた。青年は視線を壇上に戻す。
教官からの質問に虚ろな声ながらよどみなく答えるリカルドの横で、ロレンツィオがこちらに視線を向け、壇上の陰から小さく手を挙げた。逆の手にはいつも彼が身に着けている懐中時計が握られている。
タイムキーパーではない。彼は秒針を見ることで自身の緊張や動揺を落ち着けるのだと、それが魔術師の基礎として祖父に最初に教わったことだと、知り合ったばかりの一回生の頃に話していた。
「……別にいいよ」
苦笑いとともに呟くと、聞こえたはずもない壇上の男が目を細め、小さく口の端を上げた。それから、懐中時計を仕舞ってすぐに、また実験結果の説明のため真面目な顔に切り替わる。
「ロレンツィオに手ぇ振られた。なんだろ、緊張してんのかね」
へらへら笑って頭をかくウルバーノに何とも言えない笑みを見せてからようやく、資料に目を向けた。
夢はそこで覚めた。
(……四年前か)
居間の肘掛椅子に腰掛けたきり、そこで寝入っていたらしい。ヴァレンティノは座ったまま柱時計に視線だけを向けた。
閉じたカーテンの隙間から朝日はまだなく、憲兵を追い払ってからまだ数十分しか経っていなかった。
(憲兵はすぐ帰りそうだったのに、くっついてきていたあの護衛騎士はしつこかった)
『お嬢様がこちらにお見えになったはず』
脳裏によみがえった声。自分が正しいことをしていると信じて相手を責める目つき。
「……いかにも騎士だな」
薄青の目が、無感情に秒針を追う。
――来たとも。
そろそろ水が天井に達するがな。
(……死体はどこに捨てようか)
溺死体だ。水に囲まれたこの地ではそう珍しくないが、溺れるはずもない二人とあっては難しい。
死体が完全に骨になるまで放置して、コッペリウスの人形で周囲を誤魔化すか。よほどのことがなければ見破られない。
複数回にわたって術をかけ直さないといけないが、カヴァリエリ邸に簡単に出入りできる自分ならそう難しくもない。
「水死体は、見たくないしな……」
息を吐き、ぼんやりと虚空を見つめ。
「……フィリパ? なんだおまえ、父上とゴンドラになんて乗って、どこに……」
眉を寄せてのひとりごとは途中で消えた。後を繋ぐように、両手で視界を覆うように額を抑える。
「……また白昼夢か」
ぼやいて、小さなテーブルの上の、金のロケットペンダントを見やる。
フェリータから奪ったものだ。
しばらくはどこか安全な場所に隠すしかない。己が持っていても無駄なだけ。
(そういえば、ロレンツィオからは取り上げそこねたな)
「フィリパ、水」
億劫そうに声を張り上げて、ジレのポケットからピルケースを取り出す。ついでに男の死体からレリカリオを取ってくるよう伝えるつもりだった。
視界には入ってこないが、妹はこの家の中ではたいてい、怯えながら自分の様子を少し離れたところから窺っている。
兄にたびたび血を抜かれるのは怖いが、父は血を抜くために殺そうとしてくると知っているから、兄のすぐそばに付きまとうのだ。
予想通り、妹はすぐにやってきた。「お兄様」と呼ぶ声。視界の端の、グラスを持つ手とそこに繋がる華奢な体の妹。
吐き気止めと気つけの薬を手に、グラスへと手を差し出しかけ。
そこで、足音がしなかったことに気がついた。
「肺の内側まで、たっぷりどうぞ」
そう気づいたとき、自分より低い声と共に、頭上から水が滴ってきた。
雫が額を伝うより早く、右手のピルケースが黒い柄の剣に変わる。ヴァレンティノは振り向きざま、グラスを逆さに持つ“フィリパ”の華奢な胴体を切りつけて、すぐに距離を取った。
「……どうやって出てきた」
切りつけた腹の傷口から、血ではなく黒い靄が出て空気に広がった。
その靄が腹を抑える女の全身を覆い、膨らみ、そして晴れていく。
垂れた碧眼をにこやかに細めたあと、すぐに冷たい眼差しに切り替えた男を残して。
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