病めるときも健やかなるときも、お前だけは絶対許さないからなマジで

あだち

文字の大きさ
上 下
53 / 92
第五章 星の血統

53 卑怯な女

しおりを挟む

 部屋の空気が一瞬にして変わった。
 二人以外、他に誰もいないという事実が、突如はっきりと意識に浮き彫りになる。

 “進めていいのか?”

『言ってませんわそんなこと。おかわいそうに、耳の中まで呪獣にふっとばされてしまいましたのね』

 ――なんて、すぐに白を切れなかった時点で、言ってないふりはできない。

「フェリータ」

 重ねられた手に体重がかけられ、寝台に沈む。ぎし、と軋む音に背筋がこわばったのを感じた。

「俺の気持ちは変わってない。食指が動かない? 動かさないように抑えつけてんのがわからないかよ」

 ロレンツィオの、もう片方の手が頬に伸びてきた。
 はたき落すのが常なのに、自由なはずのフェリータの右手は持ち上がりもしなかった。
 そのまま、男の指先が輪郭を辿るのを許してしまう。壊れ物を扱うかのように優しい手付き。本当は、掴んで骨を軋ませるだけの力があるくせに。

「だから、そっちにその気があるんなら、止める理由は、もう何もないんだよ」

 頬を滑った指先に顎を上げられる。距離がどんどん縮まっていく。

 頭が沸騰している。触るな、と言わなきゃいけない。でもどうやって言うんだかわからない。
 
「……目、閉じてくれ」

 懇願する、その吐息が唇にかかった。フェリータは完全に石になった。

 大きく開いたままの赤い目に、ロレンツィオが苦笑した。
 男のまつ毛が長い。高い鼻先がぶつからないようにか、少し顔の角度を傾けている。

 静かな部屋。近づく影。爆発しそうな心臓。
 そして、焼き切れた忍耐。
 
「け!」

 静寂を切り裂く鶏のような声に、男の動きが止まった。

「怪我の処置をしなくては!」

 フェリータは、必死にもつれそうな舌をる。

「ま、まだ王宮に行かないなら、先に腕の怪我を手当てしないといけないのでなくて!?」

 ――沈黙が、針のように全身を刺してくるのを、フェリータはどっと汗をかきながら耐えた。

 ロレンツィオは、しばらくそのままの姿勢で焦点をずらそうとする赤い目を見つめていたのだが、やがてその青い目は急速に濁り、光を失っていき。
 そして。

「……そうだな」

 そう言うと、傾けていた体を離し、寝台から立ち上がった。
 離れていく体温に、フェリータは安堵し、――そして、全身の血がどっと落ちていくような焦燥感に見舞われた。
 
(た、助かった、ですわね? 今危なかったですものね? 拒めて、良かった……)

 良かった?
 拒んで良かったのか?

 心臓は相変わらず忙しい。だがさっきとは違う、嫌な緊張感が全身を駆け巡っている。
 扉へ向かう背中を見ていると、心の内に、それは疑問となって浮かび上がってきた。

 このまま行かせるのか?
 ここが分岐点なのではないか?

(……ぶ、分岐点? なんの?)

 ベッドシーツを掴む手の平が冷えていく。

 ロレンツィオはもう扉の前にいた。カチャ、と音がして、廊下が隙間から細く覗く。
 
 自分は。
 選択肢を、間違えてはいないか――?

「待ちなさい!!!」

 無意識魔術は風の形になった。
 バタンッ、と風圧で閉まった扉に「ぅおっ」と驚きの声をあげたあと、肩越しに振り返った男の顔は、実に不愉快そうにしかめられていた。

「……レリカリオが、直ったばかりだから、小手調べがしたいところでしたの。丁度いい機会だから見せてごらんなさい」

 そう言って、ぼんぼんとマットレスの空いた場所を叩く。さっきまで、ロレンツィオがいた場所を。
 だが。

「……その気がないなら遠慮しておく」

「察しが悪いこと! 治癒してさしあげると言ってますのよ!」

「俺の気持ちに応えられないなら、今は近くに呼び寄せないでくれ」

 顔を平手で打たれたかと思った。
 もちろん錯覚だ。ロレンツィオは扉の前にいる。
 フェリータとの間には、吐息など届きようもない距離があいている。

 黙り込んだ自分の表情の変化は、実にわかりやすかったのだろう。ロレンツィオはすぐに片頬を上げた。

「気遣いどうも。またあんたの幼馴染みにデカいのをけしかけられることがあったら、そのときはお願いするよ」

 皮肉とは裏腹に、声は柔らかく変化した。
 それがフェリータの焦りを膨らます。
 ロレンツィオは数秒前の、あの距離感をなんでもない日常の中に埋没させるつもりだ。フェリータのために。
 
 そんなことを、自分は望んでいないのに。

(……なら、わたくしの望みってなに?)

 機能しなくなった頭に問いかけた一瞬。
 引き潮に取り残された石のように、それはくっきりと目の前に現れた。
 
 同時に、再び、男の手が扉の取っ手にかかった。「そう、報告から帰ったら、あんたの魔力のことで確認しておきたいことがある」なんて言いながら、その手に力が籠められる。

「待って行かないで」

 さっきとは比べ物にならないくらい、勢いも声量も落ちていた。けれど、扉の開く音はしなかった。

「さっきのは、その、近さにびっくりして……。怪我は本当に手当てした方がいいと思いますけどっ、でもそうではなくて」 

 詰まりそうな喉を奮い立たせる。別人みたいに話下手な自分が信じられない。頭の中が真っ白で、言うべき言葉が全然並ばないのだ。

 けれどここで彼を行かせたら、二人の関係は膠着したままだ。その予感が、フェリータに場を改めることを良しとしなかった。

 そうだ、自分は、この関係の変化を望んでいる。

 ロレンツィオはフェリータに何も強いない。
 好きであることは絶対否定しないのに。周りを巻き込み自分も奔走し、それで助けたフェリータに、見返りを求める言動をとらない。

 彼の献身は、諦めと表裏一体だ。
 フェリータが自分を愛さないまま、自分だけが愛し続けることを覚悟している。
 
 さっきの近さは、その覚悟をひっくり返させるチャンスだった。
 でもフェリータが拒絶してしまった。もう向こうからは来ない。来てはいけないと思われている。

 ――訂正しなくては。
 今度は自分から動かないと、開いた距離はこの先ずっと埋まらない。
 
「は、話しを逸らしたのは、やめてほしかったわけではないの。期待していたから」

「期待?」

 何への、だなんて残酷な質問だ。
 けれどフェリータはどうにか言葉をもぎりだした。国王に初めて謁見したとき以上の緊張に耐えながら。

「……ここ最近持て余してた、自分でもよくわからない苛立ちの正体が、わかるかと」

 ロレンツィオが呆れたように鼻から息を吐いた。
 それでも出ていかないでいてくれることに希望を見出す。

「……わたくし、自分ではちゃんとなんでも知ってるつもりでしたの。リカルドのことも、恋の何たるかも」

 かつて、自分は順風満帆の人生を歩んでいると思っていた。
 だがそれは、何も知らなかったからこそ、そう思えただけなのかもしれない。

 リカルドのことも。
 そして、恋のことも。

「恋は、穏やかで楽しくて、柔らかくて、安心していられるものだと思っていました。リカルドといるとそうだったから」

 たとえ作り物の姿だとしても、それは事実だった。
 フェリータはその居心地の良さを、自分がリカルドに恋をしているからだと思っていた。

「でもそれは、勘違いでした。思い知りましたの。あの子ども部屋で、はっきりと思い違いを突き付けられた」

 彼のプロポーズの言葉が欲しかったのは、きっとそのことに心のどこかで気づいていたからだ。甘え合って許し合って、依存し合う関係を、恋という尊い感情だと言える根拠が欲しかった。
 形にこだわったのは、中身が別物だったからこそだ。

 ロレンツィオは無言のまま、こちらを見ている。
 足は動かない。遠ざからない代わりに、寄っても来ない。
 まさしく、二人の関係そのもののようだ。

「……あなたは、わたくしを好きだと言ったけれど、だからといって楽しそうではない」

 それはもしかしたら、恋がそんなに優しい感情ではないからなのかもしれない。

「わたくしも、好かれているはずなのに、ちっとも楽しい時間がない」

 天敵だからだと思っていたけれど、以前とは明らかに怒りの種類が違う。
 それは今まで感じたことのない、未知のもどかしさだった。リカルドがオルテンシアと婚約したときの困惑とも別物。

 母の言葉が今ならわかる。不安だったのだ、ロレンツィオのことも、自分の気持ちもわからなかったから。

「思われるのは嬉しいはずなのに、どちらかといえば、苛立っていることの方が多いし、もやもやするの。……なんで」

 つばを飲み込む。
 この感情に、名称を当てはめるのは勇気がいる。

「なんで、好きって気持ちを、行動に表してくれないのって……」

 この苛立ちが、渇望に根付いていると認めるのは、とてもしんどい。
 さっきの距離感が、嫌じゃなかったと認めるのは、とても後ろめたい。

 過去もプライドも何もかも抑えつけないとさらけ出せない欲望が、身の内に巣食って存在を主張しているのがたまらなく辛い。

 顔を見れなくて俯いていると、ロレンツィオがまたため息を吐く気配があった。

「それで、“ひと思いに進めればいい”か……。なぁフェリータ」

 足音はほとんど絨毯に吸われている。
 けれど、男が寝台に近づいてきているのは伝わってきて、顔が茹で上がる感覚がこみ上げてきた。

「女がそう思うときの理由はさ、大まかに二つに分けられると思うんだが。……ひとつは、秋波を送ってくる男を振るため。見込みはないと、思い知らせる機会を欲しがっている場合」

 新たな気まずさに襲われた。心当たりがある。
 でもそれだって、悩んで混乱して照れ隠しで思っただけだ。
 実際に強引に迫られたら、堂々殴って応戦するどころか、ビンタひとつ出来やしなかったのに。

「もうひとつは、相手に強引に奪ってもらうため」
 
 さっきの比ではない緊張感が心臓を襲った。

 ロレンツィオは寝台には座らず、近くの椅子を引き寄せてきた。
 たったそれだけのことが気になって仕方がない。どうしてさっきと同じ位置に座らないんだと責めたくなる。
 でも“してくれないこと”を責めると、“してほしいこと”を懇願することになる。怒れば、欲がバレる。

 何を言われても、冷静でいないと。男の口が動くのを見て、フェリータは静かに覚悟を決めた。

「……“この展開は自分の本意ではないけれど、男が強引にしてきたから仕方なく”って理由がほしい、人のせいにして被害者ぶって満足感だけ得ようとする卑怯な女のやり口だと思ってる」
 
「誰が卑怯ですって!?」

「誰だろうな」

「……」

 やられた。
しおりを挟む
感想 32

あなたにおすすめの小説

「君を愛するつもりはない」と言ったら、泣いて喜ばれた

菱田もな
恋愛
完璧令嬢と名高い公爵家の一人娘シャーロットとの婚約が決まった第二皇子オズワルド。しかし、これは政略結婚で、婚約にもシャーロット自身にも全く興味がない。初めての顔合わせの場で「悪いが、君を愛するつもりはない」とはっきり告げたオズワルドに、シャーロットはなぜか歓喜の涙を浮かべて…? ※他サイトでも掲載中しております。

愛すべきマリア

志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。 学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。 家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。 早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。 頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。 その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。 体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。 しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。 他サイトでも掲載しています。 表紙は写真ACより転載しました。

逆行令嬢の反撃~これから妹達に陥れられると知っているので、安全な自分の部屋に籠りつつ逆行前のお返しを行います~

柚木ゆず
恋愛
 妹ソフィ―、継母アンナ、婚約者シリルの3人に陥れられ、極刑を宣告されてしまった子爵家令嬢・セリア。  そんな彼女は執行前夜泣き疲れて眠り、次の日起きると――そこは、牢屋ではなく自分の部屋。セリアは3人の罠にはまってしまうその日に、戻っていたのでした。  こんな人達の思い通りにはさせないし、許せない。  逆行して3人の本心と企みを知っているセリアは、反撃を決意。そうとは知らない妹たち3人は、セリアに翻弄されてゆくことになるのでした――。 ※体調不良の影響で現在感想欄は閉じさせていただいております。 ※こちらは3年前に投稿させていただいたお話の改稿版(文章をすべて書き直し、ストーリーの一部を変更したもの)となっております。  1月29日追加。後日ざまぁの部分にストーリーを追加させていただきます。

【コミカライズ決定】地味令嬢は冤罪で処刑されて逆行転生したので、華麗な悪女を目指します!~目隠れ美形の天才王子に溺愛されまして~

胡蝶乃夢
恋愛
婚約者である王太子の望む通り『理想の淑女』として尽くしてきたにも関わらず、婚約破棄された挙句に冤罪で処刑されてしまった公爵令嬢ガーネット。 時間が遡り目覚めたガーネットは、二度と自分を犠牲にして尽くしたりしないと怒り、今度は自分勝手に生きる『華麗な悪女』になると決意する。 王太子の弟であるルベリウス王子にガーネットは留学をやめて傍にいて欲しいと願う。 処刑された時、留学中でいなかった彼がガーネットの傍にいることで運命は大きく変わっていく。 これは、不憫な地味令嬢が華麗な悪女へと変貌して周囲を魅了し、幼馴染の天才王子にも溺愛され、ざまぁして幸せになる物語です。

誰にも言えないあなたへ

天海月
恋愛
子爵令嬢のクリスティーナは心に決めた思い人がいたが、彼が平民だという理由で結ばれることを諦め、彼女の事を見初めたという騎士で伯爵のマリオンと婚姻を結ぶ。 マリオンは家格も高いうえに、優しく美しい男であったが、常に他人と一線を引き、妻であるクリスティーナにさえ、どこか壁があるようだった。 年齢が離れている彼にとって自分は子供にしか見えないのかもしれない、と落ち込む彼女だったが・・・マリオンには誰にも言えない秘密があって・・・。

公爵令嬢の辿る道

ヤマナ
恋愛
公爵令嬢エリーナ・ラナ・ユースクリフは、迎えた5度目の生に絶望した。 家族にも、付き合いのあるお友達にも、慕っていた使用人にも、思い人にも、誰からも愛されなかったエリーナは罪を犯して投獄されて凍死した。 それから生を繰り返して、その度に自業自得で凄惨な末路を迎え続けたエリーナは、やがて自分を取り巻いていたもの全てからの愛を諦めた。 これは、愛されず、しかし愛を求めて果てた少女の、その先の話。 ※暇な時にちょこちょこ書いている程度なので、内容はともかく出来についてはご了承ください。 追記  六十五話以降、タイトルの頭に『※』が付いているお話は、流血表現やグロ表現がございますので、閲覧の際はお気を付けください。

【完結】長い眠りのその後で

maruko
恋愛
伯爵令嬢のアディルは王宮魔術師団の副団長サンディル・メイナードと結婚しました。 でも婚約してから婚姻まで一度も会えず、婚姻式でも、新居に向かう馬車の中でも目も合わせない旦那様。 いくら政略結婚でも幸せになりたいって思ってもいいでしょう? このまま幸せになれるのかしらと思ってたら⋯⋯アレッ?旦那様が2人!! どうして旦那様はずっと眠ってるの? 唖然としたけど強制的に旦那様の為に動かないと行けないみたい。 しょうがないアディル頑張りまーす!! 複雑な家庭環境で育って、醒めた目で世間を見ているアディルが幸せになるまでの物語です 全50話(2話分は登場人物と時系列の整理含む) ※他サイトでも投稿しております ご都合主義、誤字脱字、未熟者ですが優しい目線で読んで頂けますと幸いです

《完結》恋に落ちる瞬間〜私が婚約を解消するまで〜

本見りん
恋愛
───恋に落ちる瞬間を、見てしまった。 アルペンハイム公爵令嬢ツツェーリアは、目の前で婚約者であるアルベルト王子が恋に落ちた事に気付いてしまった。 ツツェーリアがそれに気付いたのは、彼女自身も人に言えない恋をしていたから─── 「殿下。婚約解消いたしましょう!」 アルベルトにそう告げ動き出した2人だったが、王太子とその婚約者という立場ではそれは容易な事ではなくて……。 『平凡令嬢の婚活事情』の、公爵令嬢ツツェーリアのお話です。 途中、前作ヒロインのミランダも登場します。 『完結保証』『ハッピーエンド』です!

処理中です...