病めるときも健やかなるときも、お前だけは絶対許さないからなマジで

あだち

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第四章 魔力なき呪い

49 リカルド・エルロマーニ

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 十二年前に起きたことを、男は今でもよく覚えていた。

 魔術王国ロディリアにおける名門、エルロマーニ家。
 王家の血を濃く引き、錬金術と呼ばれる呪具の作成術を独占する一族。黄金のロケットを通じて魔術師たちを支え、同時に、その心臓を握る者たち。

 彼は、その中でもさらに稀代の才能と言われた子どもだった。
 跡取りでもなく、ただ羨望を受け愛情に浸かってすくすくと育った。

 妬み嫉みはあったのかもしれないが、本人までは届かなかった。そんな感情を持てるような“同格”の者はサルヴァンテの貴族であっても少なく、格の近いものほど賢く忙しく、彼の将来を楽しみにすれど疎む者などほとんどいない。
 兄姉ですらも、魔力で勝る弟を慈しみこそすれ敵視はしなかった。
 
 ただひとつ、天から愛されし神童の瞳を翳らせたのは、実に子どもらしい悩みだった。

『赤ちゃんの頃から知ってる一つ年下の女の子が、最近ちょっとうるさい』

 それだけ。
 それだけだった。

 あの日までは。

 ――当時から、使い魔の扱いは上手かったと自認している。
 けれどあの頃、今ほどそれ以外のことに慣れていなかった。

 騒がしい幼馴染みを撒くために、別荘の庭園の奥まで行った。
 ピンク色の髪の追手がどこにいるのかを把握しておきたかったから、こっそり彼女に使い魔を付けさせていた。

 突然、背後から口と鼻をふさがれて、意識を失った後も、百年に一人の逸材と言われた魔力でその使い魔の見る景色だけは脳に流れ込んできた。

 知らなければよかったのだ。

 母たちが、一度は本当にあの人形を自分と取り違えてしまった事実なんて。
 あの瞬間は本当に、あれがリカルド・エルロマーニそのものだったことなんて。

 フェリータ・ぺルラが。

 彼女がたいした根拠もなくそれを偽物と断じたことなんて。

 おかげで、助け出された自分が本当にリカルドなのかを、“フェリータがそうと認めるから”という不安定な理由以外で立証することができなくなってしまった。
 もしかしたら、記憶を植え付けられただけの偽物かもしれない。
 もしかしたら、本物は今もどこかで囚われていて、明日にでも救出され、“自分”は正体をあらわすことになるのかもしれない。

『――早く帰って休みましょう。リカルドはきっと公爵夫人にも心配されているでしょうし』

 そう。母親は今でも心配している。鷹揚だった彼女は、無神経なぺルラの姫君にも把握されているほどの心配性に変わってしまった。

 いつも恐れている。今ここにいるのは、果たして本物の“リカルド”なのだろうか、“リカルドのふりをする何か”ではないだろうかと。


 自分もそれを、いつも疑っている。


 ***


「……わたくしが、無意識のうちにあなたの言いなりだったのは、あなたがわたくしに依存していたから?」

 子ども部屋の壁は完全に壊され、同じように荒された庭園と繋がっていた。
 怪物はそこから外に出たようで、たまに波の音がするほかは、天蓋の中のごく小さな声を邪魔するものは何もなかった。

「あなたのために、わたくしは縛り付けられていた。ここにきて、あなたから離れそうになっていたわたくしを、また縛り直そうとした」

 リカルドはフェリータに縋るような、しがみつくような体勢のまま、それを聞いている。
 触れればあっけなく外と繋がりそうなレースの天蓋の囲う寝台から、出ないでくれと言いたげに。
 
「駄目かい」

 伏せた顔から聞こえる、子どものわがままのような、拗ねた声。
 フェリータの苦手な声だ。不機嫌を隠そうともしない、フェリータに譲歩を強請る声。
 フェリータは自由に動かない首を精一杯動かし、できるだけリカルドの方を向いて、囁いた。

「駄目なわけない」

 少し離れた場所から、身の毛のよだつような怪物の叫びと、何かが倒れる大きな音が響いた。

 リカルドがゆっくりと顔を上げる。フェリータは、前髪の隙間から覗いた緑のまなこをじっと見据えた。
 騎士の足音は聞こえない。
 
「わたくし、本当にあなたのことを大切に思っていたもの。そう仕組まれたのだとしても、現に、家族以外で唯一、一緒にいてくれた人だもの」

 巻き付く腕にしがみついていた手を放し、男の頬に添える。

「許しますわ。途中で他の女性に求婚したのだとしても、わたくしを他の男にゆだねたのだとしても、それを許して余りあるだけの時間が、わたくしとあなたの間にはあったもの。最後にわたくしを選ぶなら、それを受け止めるのも良き妻の役目」

 離れようとすれば締まる腕は、近づこうとする動きは妨げなかった。
 リカルドの顔に、唇に、フェリータのそれがゆっくりと近付いていく。
 
「――あなたに、わたくしの夫になる覚悟が、本当にあったならね」

 触れる直前で、冷たい言葉が二人の間に立ちふさがる。頬を撫でていた細い指が、ガリッと肉を抉った。

 結界の中の空気が変わる。緊張感が張り巡らされる。

「あなたはこの部屋のおもちゃのように、わたくしをそばに置いておきたいだけ。自分の妻にしないどころか他人の妻にもやっぱりできないと、よりにもよって結婚した後のわたくしにそんな駄々をこねる。不安を打ち消すためのぬいぐるみみたいに、連れ回したいがため」

 真っ赤な瞳に剣を宿し、フェリータは言葉にふつふつと怒りを込めて囁いた。余る感情が指先に籠り、さらに男の美しい顔を深く搔く。

「……それの何が駄目なの」

 答えたリカルドは、抉られた頬の痛みなど感じていないかのようだった。
 ただ、その目が冷たく圧倒してきた。空気が薄くなるような錯覚。本能が恐れた魔の眼差し。

「ぬいぐるみの君と妻のオルテンシア、僕にとって大切で不可欠なのはぬいぐるみの方だって言ったら、僕らは何も不公平じゃない。王女が何か言うならそれは僕とあの人の問題で、君が何か思い煩うことはない。今まで通り、僕が“気にしなくていい”って言ったら気にしなくていいし、君は君のやりたいようにしてればいい。そうできるだけの場は整える」

 身を固くして黙ったままの女の名を、リカルドは「フェリータ、」と優しく呼んだ。眼前に突き付けられていた冷たい氷の槍が、とろけて甘い蜜になり、ゆっくりと口元にしたたってくるような豹変だった。

「君を遠ざけて生きることの恐ろしさは、この数日で十分思い知った。できない我慢はするものじゃない。夫婦じゃなくても、離れちゃいけない関係ってあるものでしょ?」

 この世のものとは思えない美貌が、甘えるように微笑んでくる。

「このまま一緒に行こ。ロレンツィオが、戻ってくる前に」

 この顔を独占できていると思っていた頃、フェリータは自分に足りないものなど何もないと思っていた。
 一緒になれることが自分に与えられた幸運のなかの最たるものだと信じ切っていた。
 おそらくそれは、リカルドに操られていたからだけではない。
 リカルドの望む閉じた関係が、フェリータにとってもあたたかくてやわらかくて居心地がよかった。

 自分も同じだった。
 可愛らしい子ども部屋で、ふかふかの寝台に寝っ転がったまま美しい人形を与えられて、それをこの世の宝と思っていただけ。
 そのまま大人になってしまった。
 大人になったら、人形もぬいぐるみも現実を見なくてはいけないのに。

「……心配しなくても、わたくしオルテンシア様の心情なんてなんにも思い煩わない」

 リカルドの目が細くなった。「さすが」と楽しげに口元が動く。

 今まで通りでいいじゃない。
 何も辛くなかった。
 この人が言うなら、これからもきっと大丈夫。

 誇りなんて実態のないものから目を逸らせば、弱い自分がそう泣き叫んで主張する。
 予想外の未来に、新しい生活に、正体のわからない感情に恐怖を感じる幼稚な自分は、強くて賢いリカルドに従ってしまえと急き立ててくる。

 でもそれは無理なのだ。
 知ったからには。気がついてしまったからには。

 突き放すことが己の幸せだとリカルドは考えた。そのときだけは、本当にリカルドはフェリータのためを思ってくれていたとわかるから。

「わたくしの懸念はね、このままあなたの手を取って、それで安心できても、幸せにはなれないということ。……あの言葉の意味、わからないほど幼くありませんのよ」

 リカルドの表情が消えた。瞳が見開かれ、そしていたましげに細められる。
 
「これだけは本当に申し訳ないと思ってる。……ごめん」

 同情に似たその目が、フェリータにしぶとく残っていた畏怖を怒りに変えた。
 
 押し倒したフェリータに、リカルドが押し殺すように告げた言葉。
 つまるところ、あれが全てだ。

「謝罪? 笑わせないで。ねぇご存知かしら、わたくしのために、親も地位も捨てても構わないと思う男がこの世にいらっしゃるようなの」

 リカルドの目に冷ややかな怒りが灯った。その名を言うなと言いたげな表情に、『嫉妬だけは人並みにしますのね』と、フェリータは思わずあざ笑うような笑みを向けた。
 生まれて初めて、リカルドにその顔を向けた。

「わたくしにも“選択肢がある”と気づいたからには、わざわざ置き物になりに、あなたの手は取りません。予想通りでしょ? こう決断されるから、わたくしが誰にも近づかないよう気を配っていたんですものね」

「――そうとも。その決断をしたなら、君は一人で生きていくしかなくなるからね。君のために全て捧げてくれる男を喪って」

 凍てついた声。背後のシャンデリアには、まだあの影が付いている。
 緑の瞳が動く。

 天蓋が揺れた。
 腕を回す男と頬を抉る女、二人の顔は近いまま。

「させない」

 今だと、リカルドの顔を捉える手に力を込めた。
 屋敷の外にいるロレンツィオを狙う彼と、目の前の彼を狙う自分なら、距離の利は自分にある。意識が自分から逸れて鷲を動かす一瞬の隙。
 そこだけのチャンス。
 それだけで十分だ。
 
 爪から皮膚の下を直に通った他人の魔力に、リカルドの目元が歪む。その白い首に、ぶわっと巻き付く鎖の紋様が浮かび上がって、フェリータが勝ちを確信したとき。

「近いってんだよバカども!!」

 その声と共に、フェリータは自分がものすごい力で後ろに引き上げられるのを感じた。「きゃ!!」と叫んで我に帰れば、渾身の力で掴んでいたはずのリカルドの顔が、一瞬で手の中から消えている。

 薄暗い天蓋の中にいたはずの自分の体は、半屋外となった子ども部屋へと引きずり出されていた。

「何するのロレンツィオ!!」

「俺のセリフだが!? 人が大変な思いしてるときにこの手は何してたこの手はァ!!」

「あなたを助けようとしたんでしょうがァ!!」

 喚き返して、いまだ自分を抱えたままの邪魔者を肩越しに振り返る。髪を乱し、不機嫌そうに肩で息をするロレンツィオの様が目に映る。

 ――その背後で両翼を広げた、大きな鷲がその肩に爪を伸ばす様も。

「……!」

 ほんの一瞬、爪が男の肩をかすった。
 何かをする暇もなかった。

 死の鷲が離れていくのも、青い目から光が失われるのも、フェリータはただ見ていることしかできなかった。
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