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第四章 魔力なき呪い
42 沈む犬
しおりを挟む王宮と運河で隔てられ、橋で繋がる離宮の奥に、王女の居室がある。
ゴンドラから降り立ったオルテンシアは従者たちを振り切り、侍女を寄せ付けない早足でそこに入ると、荒々しく扉を閉めた。
不機嫌を隠さない顔で、長椅子に倒れ込みかけたとき。
「また遊び歩いていたんですか」
部屋の奥から届いた声に顔を上げ、そしてぱあっと花開くような笑みを浮かべた。
「まあリカルド、いつからいたのかしら?」
リカルドは続き間の奥の肘掛椅子に腰掛け、丸い机を我が物顔で使っていた。
天板の上の、金のロケットペンダントのトップ。同じく金の鎖。そしてピンセットで慎重につままれた、細い繊維質のもの。
それらを注視したままのリカルドは、弾むようなオルテンシアの問に答えず、逆に問い返した。
「ゴルゴンの鎖、あなたがロレンツィオのために用意したんですか」
不躾なほどに淡々とした物言いだったが、問い返されたことを含めても、王女は上機嫌のまま。
「耳が早いのね、大々的な告示でもされたのかしら。言っておくけど、それがフラゴリーナの首にかけられたのはあたくしの指示ではないわよ」
「何があったかご存知のようですね。バディーノ家が報告を?」
リカルドの言葉に肩をすくめながら、オルテンシアは歩み寄った。
「隠蔽体質のおじい様がそんなことするわけないでしょうに。チェステ家で本人に会ったのよ」
「チェステ」リカルドが手を止め、口の中で繰り返す。
「……外からの力を、大聖堂の加護が弾く場所だな。どうりで後を追えなかったわけだ」
「またなにかしてたの? 離宮で勝手に錬金術を働く他にも、なにか」
ひとりごとだったのを、机のそばに来たオルテンシアが耳ざとく拾った。「悪い子ね」と心底楽しそうに囁いて、男の正面から手元を覗き込む。
「それが“魔女の心臓”? 呪獣の核を無毒化して、粉にして、集めて、撚ったものってさっき借りた本に載っていたわ。誰にでもできそうなのに、器はあなたたちにしか作れないなんてずるいわね」
リカルドは近づく王女に頓着せず、ロケット部分に“魔女の心臓”を組み込み続ける。
「勤勉なことで。魔力なんてないくせに」
「本は好きよ。物知りで従順だから。ねぇ、器がないとどうなるのかしら」
「腐って、かえって呪獣を呼び寄せる」
リカルドの醒めた答えに「ふうん」と相槌を打ちながら、オルテンシアは机の一端に手を伸ばした。
「これはなに? ほかの糸くずとちょっと違う」
「触らないでください」
「嫌よ、指図しないで」
リカルドの刺々しい声にも構わず、オルテンシアは指先でそれを摘まんだ。
ほかの繊維質より、細く、やわらかく、長い。
「あたくしの部屋で他の女に贈るペンダントを直すなんて、デリカシーがな」
「放せよ」
刺すような言葉に、オルテンシアはようやく従った。
空いた右手は、そのままリカルドの輪郭をなぞる。
「なんて言い方なの」となじるその顔は上気し、極上の微笑みを浮かべている。
「罪深いほどに熱心ね。呪詛された婚約者のことは護衛にまかせっきりのくせに」
「優秀な魔術師がいたから助かったんでしょ」
「そうだけど、それ無しで助けてもらったもの」
リカルドの手が止まった。
それを見ながら、オルテンシアは男の横に移動した。肩を抱くように寄り添い、囁く。
「あの子、意外とあなたのことあんまり必要としてないのかもしれなくてよ。助けてくれる男に事欠かないみたい」
「フェリータにはそもそも助けなんていらない。レオナルド殿に後れなんて取らないし、ヴァレンティノの助けなんて不要だよ、これがあればね」
「でもロレンツィオには、それがあったけど負けた」
沈黙が落ちた。
オルテンシアは、部屋の空気が下がったことに気が付いた。
比喩ではない。
床に霜が降りていた。吐く空気が白く曇る。
これが無意識魔術かと思えば、オルテンシアは嬉しくて仕方なかった。
もっと見たい。もっと、この美しい男の未熟で身勝手な様子が見たい。
大好きな男の、いろいろな顔が見たい。嫉妬に歪んだ顔も、残酷に見下す顔も。
偽りの優しい顔も、それはそれで大好きだけど。
「ねぇ、もしかしてあの子、自分を負かした勝者に媚びちゃうタイプ? 気が強いんだと思ってたけど、なんだかロレンツィオのこと、まんざらでもなさそうだった」
もう一押しと思ってわざと煽った。
だが、それはあまりにも浅はかな企てだった。リカルドが鼻で笑う。
「なるほど、さっきの不機嫌の理由はそれですか」
「え?」
「ロレンツィオがフェリータのこと好きなのが気に入らないんだ?」
オルテンシアは呆気にとられ、次いでぎっと目元を険しくした。リカルドから離れ、気の立った獣のように部屋の中を歩き回ると、霜が割れる音がした。
「当たり前でしょ! 丹精込めてしつけてたはずの自分の犬が、知らない間によその雌と番ってたら許せないわよ、ちゃんとそれ用の雌も用意してあげていたからなおさらに!」
「そういう言葉の選びかた、僕は本当に軽蔑してますよ殿下」
いつのまにか部屋は夏を取り戻していた。不機嫌な王女を見て、魔術師は己の平静を取り戻したのだ。
こういうところは忌々しい。オルテンシアは目の前の男を愛していたが、優先順位は自分自身の方が上だった。
「でもあたくしと、ロレンツィオの関係は変わらない」
利用されたことに報いるべく、今度は背後に回って後ろから首へ腕を回す。
「正直って美徳ね。あたくしとロレンツィオの間には甘い関係も美しい思い合いも何もなかったけれど、偽りもなかった。惰性と打算と情けだけで、騎士の忠義なんてかけらも向けられなかったけど、おかげで二度結婚しても、自分が妻をとっても、あの男とあたくしは変わりようがない」
肩越しに、耳殻に吐息が触れる近さで言葉を流し込む。
「あなたとフェリータ・ぺルラはどうなるのかしら? あなたのこと、現世の聖人みたいに思ってる温室の苺ちゃんは」
さっきよりも長い沈黙が落ちた。オルテンシアはじっと婚約者の反応を待った。
「どうも何もない。何も変わらない」
返ってきたのは、なんの感情もこめられていない声だった。
「僕がそうと望む以上、僕たちは何も変わらない」
だからこそ、余計にオルテンシアは実感した。
「傲慢ね」と。
「自分を棚に上げすぎですよ。命の恩人にちゃんと報いないくせに」
リカルドの声がやや不機嫌そうに変わった。ピンセットが机に置かれ、筋張った手がロケットのふたを閉める。
作業の終了までもうすぐだ。オルテンシアは右手の指で男の腹のあたりを撫でた。
「報いてるわよ。お兄様になにも言わないのがその証拠」
「は?」
「こんな話はもうやめましょう。ねぇ、今日はこのまま泊っていきなさいよ」
ロケットに鎖を通したリカルドに顔を寄せながら、腹、胸を撫で上げた。さらさらの銀髪に鼻先を埋める。
白い、傷一つない手が、宝石のついたループタイにかかったとき。
「最初からそのつもりでしたよ」
拒否されるかと予想していたところへ、思いがけない返事がきて、逆にオルテンシアの手が止まる。
体を高揚感が駆け巡った。ほんとうに? と聞き返そうとしたところで。
「魔術師棟にね。急遽夜勤が入ったので」
「……」
喜びが急速に萎んでいく八つ当たりに、ループタイを強く締め上げてやる。ぐえ、と蛙のつぶれたような声が、憎いけどかわいくて少し気が晴れた。
***
「……おかしいですわね。今日は夜勤だと聞いたはずなのだけど」
チェステ邸から屋敷に戻ると、眉間にしわを刻んだロレンツィオが肘掛椅子にいるサロンに案内されたので、思わずフェリータも腕を組んで応戦体制になってしまった。
積年の“対カヴァリエリ”の癖だった。
「リカルドに代わらせた」
「なんですって?」
「ヴァレンティノから連絡が来て、すぐ帰らせてもらうことになった」
フェリータは狼狽えた。まさか心配されたのか。『身が裂けるほど』に。
「あ、あいかわらず短絡的ですこと。なら治療を受けて大事ないことも聞いたのでしょう? 仕事に穴を空けないでちょうだい、恥ずかしい人ね」
言いながら座る場所に迷い、結局窓際に寄っていって意味もなくカーテンを摘まんだ。フェリータ好みの明るい色と柄だった。
「運河に飛び込んで仕事に大穴空けた女の言うことは違うな」
「うるさい!」
反射で振り向いて噛みついたが。
「ほんとうにもう大丈夫なんだろうな」
思いがけずすぐ後ろに相手が迫っていたことに、驚いて言葉を失った。
「ヴァレンティノの仕事ぶりは、信頼してるが」
青い目が真剣にこちらを見下ろしてきている。
「家の者には、今後誰であってもそうそう家に上げないよう言っておいたが、処遇も少し考える。レオナルド殿は、理性的な人だったんだがな」
大きな手がフェリータの頬を撫でた。不思議と、それを振り払う気にはなれなかった。
敵意も下心も感じない、からだけではない。
「抗議はする。ヴィットリオ殿下から改めてバディーノ家への説明もされるだろうから、正式な謝罪は来ると思う。女の趣味が悪い以外は、もともとちゃんとした人だから。……対外的にはそれで手を打つしかないが、しばらく侯爵家とは距離を開ける。悪かったな、迷惑かけて」
フェリータは、ロレンツィオの目に怒りと後悔と、悲しみが宿っているのに気が付いていた。
そうか。
この男、おそらくレオナルドのことを信頼していたのだ。だから屋敷の使用人たちも警戒することなくフェリータに会わせた。
その信頼を逆手に取られたから、この事態に傷ついているのだ。
この結婚で、フェリータは多くのものを手放したが、ロレンツィオも失うものがあるらしい。
かわいそうに。フェリータは怒るよりも、シンプルに同情した。
なんだか、主人に置いてけぼりにされて雨に濡れた犬のように見えて、責められなかった。
「騎士崩れの新興魔術師家系に距離を開けられたところで、王妃様を出してる侯爵家は痛くも痒くもないですわよきっと」
「あそこは今の宮廷付きに本家の魔術師を送れていない現状を、意外と気にしてる。魔術師のプライドの高さは知ってるだろ」
「ええ、まぁ。でもかえって恩に着せてやったほうが後々やりやすいから、禍根は残さない方がいいでしょう。使用人もね、どうせ魔術師が本気出したら彼らには止められないから、あんまりころころ変えても意味ありませんし」
できるだけ軽く、あっけらかんとフェリータは話した。男の目元が戸惑うように揺れる。
「わたくしのことなら心配しなくても、ちゃんと自分で仇の首は取るから、後始末だけ手伝ってくれれば」
「……何をどう恩に着せて禍根を残すなって? この蛮族め」
撫でた手で頬をつねられ「何するの!!」とフェリータは今度こそ手をはたき落した。
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