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第二章 長い長い初夜
17 二度目の決着
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***
フェリータは、首にかけたレリカリオを指でたどった。胸元で揺れていた雫型のロケットを無意識に握りしめて、ひっそりと息を吐く。
過去の魔術比べは、長引いたが結局自分の勝ちだった。
あの勝利でおごり高ぶったことなどない。いつだって仕事にはまじめに取り組んだし、ロレンツィオの鼻持ちならない謝罪も一応受け入れた。
魔術の研鑽も、レリカリオの手入れも一切手を抜かなかった。
あれから一年以上たつ。春は過ぎ、夏になった。
再び腕比べをしても、決して負けない自信があった。この勝負は、ここ数日の一連の出来事でガタガタに崩れた自分の心を支える柱を、確認する行為に過ぎないはずだった。
――それなのに、これはどういうことだろう。
(頭が、割れそうに痛い……!)
予想をはるかに上回る苦しみに、下唇をきつく噛みしめる。少しでも気を抜くと術が解けそうだし、苦悶のうめき声をあげて頭を抱えてしまいそうだった。
自分に向かってきた槍を宙で止め、その一部からかつてと同じように黒い甲冑を生み出した。そこまでは良かった。
槍を構えた甲冑をロレンツィオの方へ歩かせようとしたときだ、強烈な頭痛に見舞われたのは。
(おかしい、まだあのとき重ねがけた回数の半分もいってないのに)
俯きそうになるのをこらえて、ロレンツィオの表情を確かめる。男は当初から変わらない険しい顔つきでフェリータを見据えていた。
頭痛は相手の魔術が自分の魔術領域に作用してきているからだ。けれど甲冑はまだ姿を変えていない。向こうも術をかけあぐねているということだ。
まだ勝負は決していない。
――負けない。
ぺルラ家は六百年前から絶え間なく優秀な魔術師を生み出し続ける“星の血統”だ。自分はその当主として育てられ、宮廷にも認められた実力者だ。
――絶対に、負けない。
家を超えて協力しようとしたフェリータを侮辱し、はねつけた男になど。
フェリータとリカルドの関係を知りながら、リカルドを王女と結びつけ、フェリータから幸せな結婚をうばった男になど。
何を失っても、自分はこの男より強いという事実だけは、持ち続けないといけない。そうでないと自分が自分でいられない。『ぺルラ家のフェリータ』が、『カヴァリエリ』ごときに負けるはずないのだから。
そのためには、今変化させた目の前の甲冑を進ませないといけない。天敵を貫く槍を構えさせなければならない。
「動きなさい、……動け!!」
無意識に、噛みしめた唇の隙間から、絞り出すように命令してしまっていた。
必死さをあらわにしたことを恥じたそのとき、応えるように甲冑が動いた。足が踏み出し、片手に持っていた槍を両手で構える。
――それが、振り返って自分の方を向いたので、フェリータは愕然とした。
違う、こっちじゃない、ロレンツィオ・カヴァリエリを狙え。そう念じても、甲冑はがしゃがしゃと音を立ててフェリータの方へ寄ってくる。
籠手に覆われた腕が槍を構える。フェリータは震えながら口を開いた。
「どうしたの、目標はそっちの男よ!」
そして魔力を注ぎ込む。混乱と恐怖を打ち消すように。
制御できてない? 馬鹿な、もとより意思のないチェスの駒に、さらに生き物でもなんでもない空の甲冑への変化をかけただけ。術者は可動部分を動かすイメージだけで十分なはず。
あのときも、それで十分こと足りた。今回だって――。
「っ!」
途端、襲い掛かる痛みに息が止まった。それこそ、槍か何かで頭部を貫かれたかと思う痛みだった。
こんな反応は初めてだ。今も頭の中が瓦解していくような痛みが続く。額を汗が伝っても、拭うことすらできない。
痛い。辛い。
でも嫌だ、負けたくない。
できる、まだ。
――退けないフェリータに、その痛みが最終通告だったとはわかるはずもなく。
ぷつん、と頭の奥で糸のようなものが切れる感覚がして、視界が真っ暗になった。
同時に、パリンと胸元で何かが割れる音がした。
「フェリータ」
一年前と同じようにリカルドの声がした。我に返ったフェリータの視界が、明るさを取り戻していく。
リカルドは左手でフェリータの額に触れていた。そこから痛みが消えていく。そして右手は、すぐそばまで近づいていた甲冑の前に掲げられ、薄い空気の盾を作ってくれていた。甲冑はリカルドの手の前で動きあぐねている。
「おしまいだよ、二人とも」
その言葉とともに、リカルドは右の人差し指で甲冑を指し、次いでその指先を天井へと向けた。指の動きに釣られるように、兜のマスクが上がって、フェリータは甲冑の中身と目が合った。
そんなはずはないのに、目が合った。顔が、中に人のようなものがいた。
フェリータのかけた最後の変化術の内容は“槍を持った甲冑”だった。それ以外には魔力を使っていない。
つまり、今ここであらわになった“甲冑の中の兵士”は、フェリータのあずかり知らぬもの。フェリータの術ではないものだ。
甲冑が、言うことを聞かなかった理由が分かった。知らぬ間に、術を乗っ取られていたのだ。
そのことはわかった。わかったけれど。
「……おしまい、って」
膝が床につく。母が父に嫁いだ日に着た白いドレスが花のように広がる。
近くなった床に、金属片と干からびた繊維状のもので作られた組みひものようなものが落ちている。
フェリータのレリカリオだった。魔術を扱うのになくてはならない、金のロケットが割れて、中に入れていた“魔女の心臓”の一部がこぼれ出ている。胸元を探れば、用をなさなくなった細い鎖が意味もなく首から下がっていた。
リカルドが作って、フェリータに与えてくれた魔術師の必須道具。
さっきの音は、これが壊れた音だったのだ。
「勝負ついたってことだよ。ロレンツィオの勝ち」
リカルドの言葉が合図となったように、甲冑と槍、そして中にいた兵士が黒い靄になって消えた。
黒い靄だ。カヴァリエリの魔術の残滓だ。
――負けた。
痛みの消えた頭の中に、その言葉が波に取り残された貝殻のように浮かび上がった。
「――いやあ二人とも、大儀であった!」
静まり返った宴会場に、ヴィットリオのわざとらしいほど明るい声と拍手が響き渡る。
「新郎新婦手ずからのショーの中では一番興奮したとも。フェリータ、初手でライオンだなんてずいぶん刺激的だったが、まぁ、ウサギよりは遠くの席でも見えやすかったな。さすができる妻はもてなしをわかっているというか、ほら立ちたまえ、ロレンツィオとお客人に挨拶を……おお?」
ヴィットリオはショーという言葉を白々しく強調しながらフェリータに歩み寄り、リカルドが触れなかったその肩に手を置く。元気づけると言うよりは、『そういうことにしておけ』という入れ知恵が込められた手だ。
しかしそれも、大股で歩み寄っていた別の人間の手によって即座に払い落とされた。ヴィットリオが目を丸くする。
「ご無礼、お許しを。殿下」
次期国王の手を払ったことを短く謝ると、ロレンツィオは女の細い腕を掴んだ。
「ロ」
「皆様方は、このあともぜひ、宴を楽しんでいってください」
貼り付けたような笑顔でそう言うやいなや、力の抜けたフェリータを引きずり立たせて、そのままずんずんと宴会場から出ていった。
招いた客人たちの戸惑いなど、まるで見えていないかのような足取りだった。
「……な、なんだった今のは」
「え、余興? パーティーのドッキリだったの?」
ざわめく客人たちの中、顎に手を寄せて出口のほうを見つめるヴィットリオのもとに、ヴァレンティノが駆け寄る。
「殿下、お怪我は」
「なぁヴァレンティノよ、そなたロレンツィオと親しかったな?」
よく知った侯爵家の息子の言葉を遮り、ヴィットリオは悩まし気に眉を寄せて声をひそめ、周囲をはばかるように問いかけた。
「私も、今の今まで思いもよらなかったんだが、……あいつ、もしや」
***
騒がしさを取り戻した宴会場から出ていったのは、ロレンツィオとフェリータだけではなかった。
ロレンツィオの友人の一人でウルバーノという男が、見覚えのある銀髪が出入り口から出ていくのを見てまさかと焦る。
「リカルドっ、お前まさかあの二人の後追う気じゃ――」
急ぎ走って回廊に出れば、リカルドは庭に面した階段に腰かけて俯いていたので、勢いを殺しきれなかったウルバーノはつんのめった。
「ど、どうしたリカルド、どっか悪いのか?」
一転して心配するような声で肩に手を伸ばしたウルバーノだったが、リカルドはその手を払い、下を向いたきり動かない。
「……これで、よかったんだ」
言い聞かせるようなつぶやきは喧騒に飲まれ、誰の耳にも届かない。
うなだれたまま、リカルドはひとり夜の闇に身を浸し続けた。
フェリータは、首にかけたレリカリオを指でたどった。胸元で揺れていた雫型のロケットを無意識に握りしめて、ひっそりと息を吐く。
過去の魔術比べは、長引いたが結局自分の勝ちだった。
あの勝利でおごり高ぶったことなどない。いつだって仕事にはまじめに取り組んだし、ロレンツィオの鼻持ちならない謝罪も一応受け入れた。
魔術の研鑽も、レリカリオの手入れも一切手を抜かなかった。
あれから一年以上たつ。春は過ぎ、夏になった。
再び腕比べをしても、決して負けない自信があった。この勝負は、ここ数日の一連の出来事でガタガタに崩れた自分の心を支える柱を、確認する行為に過ぎないはずだった。
――それなのに、これはどういうことだろう。
(頭が、割れそうに痛い……!)
予想をはるかに上回る苦しみに、下唇をきつく噛みしめる。少しでも気を抜くと術が解けそうだし、苦悶のうめき声をあげて頭を抱えてしまいそうだった。
自分に向かってきた槍を宙で止め、その一部からかつてと同じように黒い甲冑を生み出した。そこまでは良かった。
槍を構えた甲冑をロレンツィオの方へ歩かせようとしたときだ、強烈な頭痛に見舞われたのは。
(おかしい、まだあのとき重ねがけた回数の半分もいってないのに)
俯きそうになるのをこらえて、ロレンツィオの表情を確かめる。男は当初から変わらない険しい顔つきでフェリータを見据えていた。
頭痛は相手の魔術が自分の魔術領域に作用してきているからだ。けれど甲冑はまだ姿を変えていない。向こうも術をかけあぐねているということだ。
まだ勝負は決していない。
――負けない。
ぺルラ家は六百年前から絶え間なく優秀な魔術師を生み出し続ける“星の血統”だ。自分はその当主として育てられ、宮廷にも認められた実力者だ。
――絶対に、負けない。
家を超えて協力しようとしたフェリータを侮辱し、はねつけた男になど。
フェリータとリカルドの関係を知りながら、リカルドを王女と結びつけ、フェリータから幸せな結婚をうばった男になど。
何を失っても、自分はこの男より強いという事実だけは、持ち続けないといけない。そうでないと自分が自分でいられない。『ぺルラ家のフェリータ』が、『カヴァリエリ』ごときに負けるはずないのだから。
そのためには、今変化させた目の前の甲冑を進ませないといけない。天敵を貫く槍を構えさせなければならない。
「動きなさい、……動け!!」
無意識に、噛みしめた唇の隙間から、絞り出すように命令してしまっていた。
必死さをあらわにしたことを恥じたそのとき、応えるように甲冑が動いた。足が踏み出し、片手に持っていた槍を両手で構える。
――それが、振り返って自分の方を向いたので、フェリータは愕然とした。
違う、こっちじゃない、ロレンツィオ・カヴァリエリを狙え。そう念じても、甲冑はがしゃがしゃと音を立ててフェリータの方へ寄ってくる。
籠手に覆われた腕が槍を構える。フェリータは震えながら口を開いた。
「どうしたの、目標はそっちの男よ!」
そして魔力を注ぎ込む。混乱と恐怖を打ち消すように。
制御できてない? 馬鹿な、もとより意思のないチェスの駒に、さらに生き物でもなんでもない空の甲冑への変化をかけただけ。術者は可動部分を動かすイメージだけで十分なはず。
あのときも、それで十分こと足りた。今回だって――。
「っ!」
途端、襲い掛かる痛みに息が止まった。それこそ、槍か何かで頭部を貫かれたかと思う痛みだった。
こんな反応は初めてだ。今も頭の中が瓦解していくような痛みが続く。額を汗が伝っても、拭うことすらできない。
痛い。辛い。
でも嫌だ、負けたくない。
できる、まだ。
――退けないフェリータに、その痛みが最終通告だったとはわかるはずもなく。
ぷつん、と頭の奥で糸のようなものが切れる感覚がして、視界が真っ暗になった。
同時に、パリンと胸元で何かが割れる音がした。
「フェリータ」
一年前と同じようにリカルドの声がした。我に返ったフェリータの視界が、明るさを取り戻していく。
リカルドは左手でフェリータの額に触れていた。そこから痛みが消えていく。そして右手は、すぐそばまで近づいていた甲冑の前に掲げられ、薄い空気の盾を作ってくれていた。甲冑はリカルドの手の前で動きあぐねている。
「おしまいだよ、二人とも」
その言葉とともに、リカルドは右の人差し指で甲冑を指し、次いでその指先を天井へと向けた。指の動きに釣られるように、兜のマスクが上がって、フェリータは甲冑の中身と目が合った。
そんなはずはないのに、目が合った。顔が、中に人のようなものがいた。
フェリータのかけた最後の変化術の内容は“槍を持った甲冑”だった。それ以外には魔力を使っていない。
つまり、今ここであらわになった“甲冑の中の兵士”は、フェリータのあずかり知らぬもの。フェリータの術ではないものだ。
甲冑が、言うことを聞かなかった理由が分かった。知らぬ間に、術を乗っ取られていたのだ。
そのことはわかった。わかったけれど。
「……おしまい、って」
膝が床につく。母が父に嫁いだ日に着た白いドレスが花のように広がる。
近くなった床に、金属片と干からびた繊維状のもので作られた組みひものようなものが落ちている。
フェリータのレリカリオだった。魔術を扱うのになくてはならない、金のロケットが割れて、中に入れていた“魔女の心臓”の一部がこぼれ出ている。胸元を探れば、用をなさなくなった細い鎖が意味もなく首から下がっていた。
リカルドが作って、フェリータに与えてくれた魔術師の必須道具。
さっきの音は、これが壊れた音だったのだ。
「勝負ついたってことだよ。ロレンツィオの勝ち」
リカルドの言葉が合図となったように、甲冑と槍、そして中にいた兵士が黒い靄になって消えた。
黒い靄だ。カヴァリエリの魔術の残滓だ。
――負けた。
痛みの消えた頭の中に、その言葉が波に取り残された貝殻のように浮かび上がった。
「――いやあ二人とも、大儀であった!」
静まり返った宴会場に、ヴィットリオのわざとらしいほど明るい声と拍手が響き渡る。
「新郎新婦手ずからのショーの中では一番興奮したとも。フェリータ、初手でライオンだなんてずいぶん刺激的だったが、まぁ、ウサギよりは遠くの席でも見えやすかったな。さすができる妻はもてなしをわかっているというか、ほら立ちたまえ、ロレンツィオとお客人に挨拶を……おお?」
ヴィットリオはショーという言葉を白々しく強調しながらフェリータに歩み寄り、リカルドが触れなかったその肩に手を置く。元気づけると言うよりは、『そういうことにしておけ』という入れ知恵が込められた手だ。
しかしそれも、大股で歩み寄っていた別の人間の手によって即座に払い落とされた。ヴィットリオが目を丸くする。
「ご無礼、お許しを。殿下」
次期国王の手を払ったことを短く謝ると、ロレンツィオは女の細い腕を掴んだ。
「ロ」
「皆様方は、このあともぜひ、宴を楽しんでいってください」
貼り付けたような笑顔でそう言うやいなや、力の抜けたフェリータを引きずり立たせて、そのままずんずんと宴会場から出ていった。
招いた客人たちの戸惑いなど、まるで見えていないかのような足取りだった。
「……な、なんだった今のは」
「え、余興? パーティーのドッキリだったの?」
ざわめく客人たちの中、顎に手を寄せて出口のほうを見つめるヴィットリオのもとに、ヴァレンティノが駆け寄る。
「殿下、お怪我は」
「なぁヴァレンティノよ、そなたロレンツィオと親しかったな?」
よく知った侯爵家の息子の言葉を遮り、ヴィットリオは悩まし気に眉を寄せて声をひそめ、周囲をはばかるように問いかけた。
「私も、今の今まで思いもよらなかったんだが、……あいつ、もしや」
***
騒がしさを取り戻した宴会場から出ていったのは、ロレンツィオとフェリータだけではなかった。
ロレンツィオの友人の一人でウルバーノという男が、見覚えのある銀髪が出入り口から出ていくのを見てまさかと焦る。
「リカルドっ、お前まさかあの二人の後追う気じゃ――」
急ぎ走って回廊に出れば、リカルドは庭に面した階段に腰かけて俯いていたので、勢いを殺しきれなかったウルバーノはつんのめった。
「ど、どうしたリカルド、どっか悪いのか?」
一転して心配するような声で肩に手を伸ばしたウルバーノだったが、リカルドはその手を払い、下を向いたきり動かない。
「……これで、よかったんだ」
言い聞かせるようなつぶやきは喧騒に飲まれ、誰の耳にも届かない。
うなだれたまま、リカルドはひとり夜の闇に身を浸し続けた。
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